プシコ ナウティカ―イタリア精神医療の人類学

著者 :
  • 世界思想社
4.50
  • (6)
  • (3)
  • (1)
  • (0)
  • (0)
本棚登録 : 111
感想 : 8
本ページはアフィリエイトプログラムによる収益を得ています
  • Amazon.co.jp ・本 (484ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784790716259

作品紹介・あらすじ

なぜイタリアは精神病院を廃絶したのか?その背景にどのような考えがあったのか。精神病院から地域への移行で何が生じたか。地域精神保健サービスの現場でいま何が行なわれているのか。イタリア精神医療の歴史と現状を展望し、「人間」を中心にすえた地域での集合的な生のかたちを描く。

感想・レビュー・書評

並び替え
表示形式
表示件数
絞り込み
  • “矛盾を生きることを拒否すると、生は非弁証法的なものと化す。そうではなく、バザーリアは、矛盾のただなかで生きることを果敢に選び取ろうとするのである”

    現行のシステムに矛盾を感じて、それとは正反対の選択肢を取ろうとしても、それはまた現行のシステムの鏡写しでしかない。弁証法的な選択肢を模索するという生き方のスタンス。

    「強い主体」であろうとすると、全能妄想者か、鬱か、どちらかに陥る。世界との、アニミズム的な関係性。

    バグを許さない施設化された世界では、強い主体でいられるという錯覚を感じる。求められるのは、能動でも受動でもない、第三の道の方向性。

    “「強い主体性というのは近代の神話にすぎなくて、完璧に物事をプログラムすることなんてできはしない。危険を冒し、遊ばないといけない。」「すべてをコントロールする強い主体として行為しないようにしなくてはいけない。」”
    “集合的な場の中ではじめて立ち現れてくるような、いわば「弱い」主体性”

    偶然性を受け入れて「遊ぶ」ことは、いわば「弱い」主体性。 「積極的な自由」を選び取ること。必要なのは「効力感」。自分のアクションに対する、世界からのフィードバック。これが得られるかどうかが鍵。

    “「だって、切符を買っているという感じがしないじゃない」”
    〜〜しているという「実感」を得られる選択肢を取れるかどうか。システムの「エラー」や、全体最適「ではない」オプションを選び取れるか。

  • 素晴らしい。

    以下引用

    「ものがある」という感じは、私にとって「ものが沈黙して、ある」という感覚として感じられたのだ。何かしんとした不思議な安らぎを「物たちの沈黙」は生じさせる。それはもののプレゼンスを、ひいては世界のプレゼンスを実感させる

    ものの機能や使用価値の裂け目から垣間見える、存在の無言の輝きが私を魅惑する。このことは、相手が人間であっても変わりはない。

    ★★ものと違い、言葉を話す人間は、言葉を過剰に用いることでしか言葉の外を指し示すことができないのかもしれない。そして、過剰なおしゃべりのただなかに自己を失うことによってだけ、「ある」の次元が垣間見られる。人があるいはものが、魅惑的でエロスを感じさせるのは、その人あるいはものが、この有の
    世界にだけ存在しているのではなく、有の世界を踏み抜き、有の世界の外を自らの内に折りたたんでいる、その分だけではないだろうか。

    精神疾患はリアルなものであるが、しかし所与のものではない。それは臨床的現実という、モノと意味の相互作用や、患者と医者の相互作用の効果として立ち現れる何かなのである。したがって、その「現実」は文化によって異なる

    人類学的方法とは、芸術作品が何を意味しているかではなく、芸術作品が何をしているかに注目する

    芸術作品は文字通り「働いている」のであって、作者の行為や志向性が刻印されたモノとして、その作品を見る人々の行為を触発し、新たな行為連関と関係性を創発する媒介となる

    病いについても、芸術作品と同様のアプローチを考えることができる。個人的であれ、文化的であれ、病の意味に焦点を当てるのではなく、病いのはたらきをみるのである。言い換えるなら、人は病むことで、何をしているのか、と問うのである。ある具体的な関係性や文脈において、人は病むことで何をしているのかを問うている

    人はある文脈である関係性のなかで、ある状況において病むことで、その状況から逃れようとしたり、関係性を変化させようとしたり、新たな文脈を作り出そうとする。それは意識的にというよりも、生の全体性においてであるが、その次元で「何かをしている」のである。そうであるにもかかわらず、特定の文脈や状況を外されることで、病は、医療化されるか、あるいはまた文化化(ないしは社会化)されてしまうのである

    イタリアの精神医療そのものが、精神病院を廃絶することで、病気を治すという医療の論理から、生きることそのものに定位するという方向性へと転位した

    ★★病院から地域へ、というのは、単に医療の場が病院の内から外へ移動したということではなく、病むことも含めて人が生きるということそのものを中心に据えたということ

    生に立脚するとは、生きるということに定位することで、人が制度を生きるとともに、しばしば制度を跨ぎ越している、そうした局面に眼を向けること。

    生は制度や組織の枠組みのなかにおしこめられ、人類学はそれらが結びついて機能するシステム、あるいはそれらによって構成される全体性(社会構造)を描く方向へと向かった。

    生に立脚するというのは、社会やシステムの外に立脚することだと言い換えても良いだろう病や狂気、あるいはもっと漠然とした生きづらさといったものは、こうした社会やシステムをはみ出す「生」を指し示すインデックスにほかならない。だからこそ、社会やシステムを防衛するために、「外」のしるしを負った「狂人」は壁の「外」へと物理的に隔離されていたわけである

    一つの世界が場所によって異なる相貌をみせるという場所による視点の相対性のことではない。異なる世界を生きていることこそが、異なるパースペクティヴの源泉なのである。

    近づいてみれば、誰一人まともな人はいない。

    最初の素人としての驚きを大切にし、最初の問いを手放さないで、その問いを鍛え上げていくこと、つまり素人であり続けることのプロになること、それが「素人のプロになる」人類学の方法

    精神病院の先駆形態は、「狂人を治療したり、世話したりする場所=マニコミオ」。その起源は宗教的施設か拘禁的施設のどちらかあるいはその両方。ここにすでに、この施設のもつ、人道的かつ看護的側面と、管理的・拘禁的側面が表れている。

    ★修道院が、病者を収容する場所へと転用された
    →これ、象徴的だなぁ

    壁の向こう側の「もう一つの世界」だったのだが、そこは外側の世界と瓜二つでもあった。そこはまさに完結した世界であり、一つの都市であった。唯一の決定的な違いは、いくら広大な敷地であるとはいえ、その場所は壁に囲まれており、その「都市」の住人はその外に自由に出ることができなかったし、逆に外の住人もまたその中に自由に入ることができなかったという点。その意味で、この年は文字通り、要塞であったのだ

    バザーリアの現象学には、そのはじまりのところから、主観的な生きられた経験を超え、相互触発により生成するインタラクティブな関係のほうに指向性が見出される

    彼がこのような「出会い」を求める人であったからこそ同時に「出会い」を不可能にしているものは何か、と問うことができたということ。例えば、医者と患者とのあいだでこのような「出会い」を阻害しているものは何か?このような問いかけがベースにあったからこそ、彼は「制度」の次元を見出すことができたのだ。そして「制度」というのが、ほかならぬ精神医学の知という制度、とりわけ対象を客体化・モノ化する臨床医学のまなざしの制度

    ★病状のように見え、個人に帰属されてしまうものは、実のところ一つの状況であり、出来事にほかならない。そして状況とは、そこにおいて身体と世界がある特定の関係性をともなっていることの別名である。

    離人症が、人格や精神の問題ではなく、身体と世界の関係の在り方として捉えられる

    精神医学のベースになっている生物医学的な考え方では、患者は客体化され、疾患は患者個人に帰属しているものとみなされる。身体と世界との関係性としての状況の問題は、個人の精神や人格の問題に還元され、そして各種の疾病カテゴリーに分離される。

    監獄と精神病院が同様の「施設=制度」として捉えられているわけだが、同時にまた、「巨大な解剖室」という言い方で、医学の制度、大学医学部という「施設=制度」がその死の姿と臭いにおいて、連想されていることに注意を促しておきたい。生きた世界をいきたまま捉えられないような知や制度に生理的に耐えられない人だったのだ

    自分はどのような権限で、精神医学の権力を彼らに対して行使することが許されているのか?

    もともと精神病院の現実を見て、こんな場所ではそもそも治療なんてできるはずがないから、治療よりも前にするべきことがあると考えた。

    病気の治療は第一なのではなく、それよりももっと重要なことがある、それが病者である前に、人間であるということ

    全制的施設としての収容所や精神病院で行われていることは、非ー人間化であり、モノ化ということなのだ。それがいわゆる「施設化」の問題として問われたものにほかならない

    施設化という概念は新しいものではない。なんでも言うなりに受け入れるようになるのである。強制的かつ権威的な押し付けを通して、もとの病気の上にさらに病気が重ね合わされる。無気力、無関心、、、

    施設化とは、もとの病気の上にさらに病気が重ね合わされ、どこまでが本当の病気でどこからが施設にいることに由来する効果なのか、区別がつかなくなった状態のこと。しかもそこでは最終手段として暴力が用いられる

    全制的施設とは、暴力の施設であり、そこでは様々なかたちの施設の暴力が行使されている。拘束や抑制がそうした暴力の一例であり、隔離や閉鎖もまや然り。そこにおいては、生きていて、自ら動く身体をもった人間を、動けないようにし、言葉や歴史を取り上げることで、人間としての意志や関心、欲望を奪って、かぎりなくモノに近い何かに変容させる。精神病院という施設はいわば、一連の技術を駆使して、人間をモノ化する装置になっている

    しかもそれが「医学」の名のもとに正当化された場所んあおだ。それゆえここで「治療」の名の下に行われていた様々な実践もまた、人間をモノ化するための技術なのだ
    →これ、教育もまったく同じだなと思う。

    何よりも火急に行わなければならなかったのは、精神病院という暴力の施設の現実を否定すること

    外の社会への開かれ。病院内部の改革と並行して、バザーリアは早い時期から外の社会に対して扉を開き、精神病院の内側を包み隠さず見せようとした。

    精神病院という施設において、人がモノ化されるのは、そこが精神疾患の治療のための施設という以上の社会的な役割を担っているからであり、それは階級の問題、もっといえば貧困の問題と深く関連がある

    ★★精神疾患は存在している。けれどもそれが何なのかは誰も知らない。問題は精神病院の中にあると人は言うが、それはとりわけ外の問題なのだ。学校や仕事、家族が人々のなかでより弱い者たちを周縁化する。ある者は刑務所に収容され、また別の者は、精神病院に収容される

    ★★
    問題は、精神病院の中ではなく、外にある。施設そのものもさることながら、そうした施設を必要とし、維持することを可能にしている社会のほうにある。


    病気と社会的排除という二重の現実。精神的疎外と社会的疎外という二重の疎外。だからこそ、精神医療にたずさわる者は、医学的な次元と社会的な次元という二つの次元で戦わなければならない。

    施設=制度に対する戦いは、精神病院という施設の内部で完結することはできないし、精神医療にたずさわる者だけにかぎられてはならない

    ★★開かれた病院組織がはっきりと明らかにしたのは、常に現前する問題として、したがって否定しえない現実の一つの極みとして、入院患者が立ち現れてくるということである。社会が、問題の日常的な現前に向き合う努力をしないですませるために彼らを病人という役割に閉じ込めておこうと続ける一方で、精神科医だけがそれを問題として生きるなどということが可能だろうか?問題が私たち全員によって生きられたときにだけ、治療的な施設を組織することを通して、現実的な解決を見つけることを社会は余儀なくされるだろう。

    ★明らかにされるべきなのは、精神病院が治す施設であるのではなく、共同体こそが自らの諸矛盾に向き合うことによって自らを治すのだということである。

    もはや施設の世界を人口的な現実という境界のうちに閉じ込めておく場所がない以上、それを受け入れることを学ばなければならない。このような意味で、外と内という二つの共同体について語ることができるようんある

    ★病者を治すのではなく、社会を治すのである。それも精神科医が、精神病院で病者を治すのではなく、社会が自らを治すのである。

    善人である医者に対する従属は、どんな物理的な拘束よりも屈辱的。これを「柔らかな施設化」と呼ぶ

    施設の否定といっても、施設=制度の問題は、精神病院という施設にとどまるものではなく、そのような施設を必要とした社会の構造と社会における諸々の制度との関係のなかで捉えなければならない

    ★精神病院を破壊するといっても、それ自体が目的であるわけではない。治療すべきなのは、精神病者ではなく、社会のほうなのだ。だが社会を治すとは具体的にどのようにして可能になるのか。それは、精神病院の破壊を通してである。なぜなら精神病院と社会は、いわば鏡の関係にあるのだから。

    ★精神医療を単に放棄するのではなく、精神医療を問い直しながらその内部から社会を治すことをやろうとした

    精神疾患が存在しないなんて私は言ったことはない。精神疾患という概念を私は批判するが、狂気は否定しない。狂気は人間的な状況だからである。問題は、この狂気にどのようにして向き合うかということ。この人間的な現象を前にして、われわれ精神科医はどんな態度をとち、そしてこの必要性にどう応えることができるだろうか

    ★狂気もいかなる病気も、我々の身体の矛盾の表現であって、私が身体というとき、それは有機体であり、同時に社会的であるような身体である。病気というのは、社会的文脈のなかで生じる矛盾なのであって、ただ社会的な産物であるだけのものではない。そうではなく、生物学的、社会的、心理学的などわれわれを構成しているあらゆるレベルのあいだの相互作用なのである

    ★★精神病者をアイデンティティの核にするのではなく、病者を組合員や、労働者としたうえで、労働者として権利を保障しようとしたわけである。
    →社会的包摂とは別のベクトル。世界が主軸になっている。

    精神病院の壁の崩壊と、施設の論理の破壊を区別している。精神病院は破壊されなければならないのだが、同時に、精神病院を破壊すること自体が目的であるわけではない。問題は、壁の内外の文化を変えること。施設の論理とは、壁の内外に、通底している施設を必要とする論理である。

    施設をそれ自体として見ているかぎり、出てくる発想は、その施設をよくしようとするか、それとは別のところに新たに別の施設をつくるかのどちらかである。米国でバザーリアが見たように、そこには外との弁証法が欠けている。施設のうちにいて、それは外との関係で内にいるのであり、逆に外にいても、施設の内との関係で外にいるということが忘れ去られる

    W県では、近代的精神病院は、ベネディクト派の修道院を狂人の施設い作り替えることで開かれた。

    精神病院では、人間を指す「彼」「彼女」ではなく、物を指す「これ」という表現に端的にしめされているのは、病院に収容されていた人たちが、「モノ」として扱われていたという事実である。

    ゴフマンは個人の歴史や記憶にむすびついたものを取り上げることによるアイデンティティのはく奪を、全制的施設の特徴として描いている。それは言い換えると、「人間をモノ化する装置」である精神病にという施設における「人間をモノ化する技術」のひとつということ。

    生きている身体を、拘束、隔離、外出制限といった形で、動きを無理やり止める、

    ★★施設化とは、人間をモノ化する技術の効果が、自らの身体に刻み込まれることであるといえるが、その効果は、非収容者だけでなく、そこで働くスタッフの身体にも及ぶ。端的に言って、施設にいる者は、それが患者であろうが、スタッフであろうが、だんだんと似てくる。体つきからして似てくるのである。

    →これ、今の社会そのもので起きていることじゃないかと思えてしまう怖さがあるなぁ。

    それにしてもこんな風に醜くなるものかって。姿勢すらも変わってしまうんだよ、、、彼らも施設化されていた


    ★精神病院を閉鎖する前に、まず病院を市民に開放したことの意義は大きい。精神病院を街から隔離し、逸脱の病理を正常性から区別していた病院の壁が、もはや内外のあいだに線を引き、関係性を遮断する境界ではなく、そこでコミュニケーションと交換が生じる「敷居」になりつつあった。ただ内部が内部のままでいられなくなるこうした変革に対して、院内からかなりの抵抗はあったのも確かである。
    →隔離していた壁が、相互作用の起きる「場」として変容したとも読めるな。

    ★★ちゃんと話を聴くということ、それは病歴を聴くことでもなければ、診断のために話を聴くことでもない。そのとき医師はどうしようかと考えながら、聞いている。話を聴くこと、それはただ、一人の人間が、相手を一人の人間と認め、相対するということ以外の何ものでもない。そうすることで、はっきりと意識しないままに、病気を括弧にいれ、診断を、疾病分類を、病因論を、そして精神医学を括弧にいれたのである。

    人はいつも、正しい答えを欲しがり、具体的な技術やマニュアルを求める。つまり「確かさ」を欲する。“不確かさ”に対する不安、「確かさ」への欲求こそが、精神医学の知を支えてきたものだというのに。診断マニュアルは、あくまでマニュアル以上でも以下でもないということなのだ。フェデリコ医師たちが語っているのは、マニュアルや技術のことではない。それはまさに「技法以前」の話なのである

    ★★唯一の正しい答えがあるわけではない。ただ、「確かさ」の砂の城である精神医学の知をもって、「やはりその場合は、入院させなければならないし、拘束や隔離もやむを得ない」とほとんど自動的に応える以外の道があるということなのだ。それは「不確か」な道である。しかし“確かさ”を求めて専門性に閉じこもり、その専門的な知の権能を行使することがもたらす破局的な結果を自覚した者は、たとえどんなに不安であっても、勇気をもって、「不確か」な道を歩み出すことになるだろう


    ★自分は何の武器もなんの道具ももっていないということ、その孤独を深く自覚することこそが、新たな可能性を開く。苦しむ人間をそこに認め、その傍らで耳を傾けている看護師を認め、一緒に働く可能性を開く。そこに苦しみや困難を抱えた本人と共に、チームで問題に関わる可能性がひらかれるのだ。その苦しみや困難については、本人以外は誰であっても素人でしかありえないからである。“本人が主人公であること”の重視や、多職性の
    チームという「モノのやり方」はこの延長に現れた


    ★★多職種のチームといっても、異なる専門性をもった複数の専門家によるチームという表面的なことが問題なのではない。精神医学の専門家は確かに精神科医であった。精神病院は、精神医学の論理を空間化した施設であり、そこでは専門家の序列にしたがって、精神科医を頂点とする垂直的なヒエラルキーがあった。だが、イタリアでは、「確かさ」の上に築かれていると信じられていた精神医学の論理自体が括弧に入れられたのである。もはや専門家はいない。ここにこそ、「精神医学/精神医療」と「精神保健」の決定的な違いが存在する

    現在のイタリアの精神保健サービスにおいて、それにかかわるすべての職種の人々はみな“オペラトーレ”と呼ばれる。精神保健に関わるオペラトーレのなかに、精神科医もいれば、ソーシャルワーカー、心理士や看護師もいる。

    ★心理学やソーシャルワークの専門家であったとしても、それぞれの人の個別の苦しみや困難に関しては素人である。苦しんでいる本人こそが専門家、と呼ばれるのに最も近いところにいるわけで、その困難や問題について本人から情報を得ながら、本人と一緒にその解決法を考え編み出すのがチームであり、オペラトーレの仕事

    精神医学/精神医療の専門家は精神科医だったとしても、精神保健の専門家はいないのである。精神保健とは素人であることに徹する仕事。

    精神医学の論理においては、何が病気であり、そして何が治療であるかを決めるのは精神科医であった。それに対して、精神保健においては、このようにしたら前よりも調子が良くなったと感じるかたちで、治療の方向性を決めるのは本人なのである

    個々人の態度にとどまるのではなく、「出会い」を不可能にしているような制度や環境を問い直すところにまで至るかどうかということが大事

    精神病院の人間化には限界があることを教えていた。精神病院自体が、人間をモノ化する装置にほかならないからであり、人間をモノ化する装置を人間化するという試みは、自己矛盾に陥らざるをえなかったのである。精神医学の論理と、それを体現した施設である「精神病院」そのものが破棄されなければならなうことはもはや明らかであった。“良き病院”という考え方は破棄され、「良き地域」へと完全に転換しなければならなという認識が共有されつつあった。

    この分割線そのもの、その境界が侵犯されるということ自体が不安と恐れを生み出したのである

    何か起こったらすぐ集会だよ。精神科医がやって来て、彼の行動について説明する。問題についてわれわれが対処を考える。そういうことを重ねていくうちに、だんだんと狂人が具体的な人になる

    真正性の水準。

    顔の見える直接的なコミュニケーションに支えられているか、マスメディアや法や選挙制度といった媒体に媒介された間接的なコミュニケーションか

    ★精神障害者に対する偏見やスティグマをなくせ、ということが言われるし、そのために意識改革を、ということが言われたりする。しかし、エトアルドが指摘しているように、「人はそんなに簡単に変けにゃ恐れから解放されたりはしない」。意識を改革するとはどういう事態を指しているか。それは端的に言って、「狂人」や「精神障害者」というカテゴリーに付与されているネガティブな価値をポジティブなものに、あるいは少なくとも価値的にニュートラルなものに変えるということ。

    ★狂人をルカやジュリアということを理解するとき、それはもはや一般的なカテゴリーにおいてではなく、具体的な「誰か」という「個別なもの」「特定なもの」の次元へと話はシフトしている

    ★真正性の水準における関係性について、「あの包括的な経験、一人の人間が他の一人によって具体的に理解されるということ」を記している

    先の語りのなかで、看護師のエドアルドが、われわれが行って、じかに話し合うんだと言っていたが、このときの「じかに」という言葉は、顔と顔を突き合わせて、差し向かいでという意味が含まれている。まさに「顔」の見る直接的な関係性

    それは一回きりの対面性を指しているのではない。顔の見える直接的な関係性は、時間をかけて徐々に作られていくもの。地域の住民は、まだ見ぬ精神障害者に対して恐れを抱いている。何度も集会を重ね、この人だったら大丈夫という信頼が少しずつ芽生えてくる。

    自らも積極的に関与しながら、顔の見える関係性の場を新たに創出している。このような場こそが地域と呼ばれるのである。言い換えるなら、地域というのは、病院の外にある空間を単純に指しているのではない。

    生活の場としての地域。それは生きものの動きや関係性のなかで動的に形成されるような空間性をもつ。つまりたとえ自分の家であって、そこがテリトリーでなくなる場合もある。だからこそ、地域精神保健サービスでは、家の中にも入りこんで、本人の居場所を創り出そうとするのである


    自分のふるまい方を変えると、患者のふるまい方も変わるのをみて、暴力が少なくなるのを見え、施設化が少なくなるのを見て、患者がきちんとしはずめ、、、。病状と思っていたものが、病気の一部ではなくて、施設化の一部だったことがわkってくる

    ★病気の症状だと思っていたものが、施設化の一部だったということ。
    →症状が、個人の内面に起因するのではなく、総合的な状況に依拠していたということだろうな。


    カタトニアは、精神病の病状ではなく、精神病院という制度に対するアクション。死の危険が迫り、絶体絶命の危機に陥ると、一種の催眠トランスのような仮死状態に入り、全く動かなくなる。こうした仮死状態も、生き物が生き延びる可能性を高める戦略なんだろう。精神病院という逃れられない状況において、生き物としての人間がとる生存戦略の一種。

    自分の家が施設と化している場合もある

    病院から地域への移行にたずさわった医師や看護師たちは、症状が消えてゆくのをなども目の当たりにした。

    ★変容と移行のプロセスの渦中にいた彼らは、新しい精神医療というものがどんなものなのか、知らないなま実践していた。だが本当に新しいこととはそういうものであろう。新しい精神医療はもはや精神医療ではなく、地域精神保健という名で呼ばれる別の何かだった

    新しい精神医療は、いい意味で全体化する傾向があった。それにたずさわる者をトータルに巻き込む。夕食の後も会ったし、労働時間なんてものは存在しなかった。日曜にもセミナーをやっていたし、、、時間は存在しなかったのよ。そこには情熱があって、それが全体化していた。これは医療、これは労働というんじゃなくて

    病院から地域に出た医師や看護師たてゃ、病院では何もできないと思っていた患者がこんなこともできるのかと驚く経験を何度もした。それと同時に、自分自身についてもまた私はこんなこともできるのかと驚いたと語、。施設化されていた身体が、自ら能動的に動くことによって、新しいことを発見していくという経験は、はるかに多く、かつ驚きと喜びをともなうものだった

    しかし逆に言えば、こうすればよいというモデル
    も、こうしていればいいという「確かさ」も限界もないところで働くということでもある。こういう状況は「不確かさ」に満ちたものである。そうした状況に対する不安はなかったのだろうか。

    法や制度を厳格に順守するのではなく、制度をうまく使ったり、跨ぎ越したりしながら仕事が行われていたのである。そしてそういうふうに仕事ができるためにも、具体的で直接的な関係性のベースが重要だった

    この仕事をしていていちばんの悦びは、危機にあった人が、鬱や精神病の危機から抜け出し、調子がよくなって、ひどかった時期のことを話せるようになったとき

    精神医療は人間をモノ化する実践であり、精神医学が人間をモノ化する知であり、精神病院が人間をモノ化するための装置だった

    精神病者と呼ばれていた人々は、精神保健になってから端的に「利用者」と呼ばれている。そこには、精神医療の対象/客体ではなく、あくまで地域精神保健サービスを利用する主体であるという含意がある

    ★精神病院が強制収容所のようだというのは、決して比喩ではない。たとえホテルのように快適で美しくしたとしても、それが主体のモノ化という同じ倫理にもとづくかぎりは、同じことなのであり、強制収容所を範例とする施設は現代もいたるところに見出される
    →資本主義のいろんな空間は、ほぼこの意味では施設化を強いているな

    診断は客体であるのに対し、危機というのは、主体性の問題


    ★★ある人が、精神保健センターにやってくるのは、その人が病気だからではなく、人生の危機にあるから。その危機が、失恋や離婚のか、学校での人間関係にあるのか、仕事が見つからないことなのか、祖父の死なのかはひとそれぞれ。あるいははっきりとした危機ではなく漠然とした生きづらさであるかもしれない。誰の人生においても起こりうるこうした危機や生きづらさは、多様である。しかしそこに共通しているのは、主体性の行使に支障をきたし、主体性を減少させるという点。そのときに必要なのは、薬ではなく、主体性を行使しうるような関係性と環境を整えること


    ★★主体性を返還するとは、言葉の上だけの自己決定とは違う。精神病院に長期入院している人に向かって、「あなたは外に出て、一人で暮らしたいですか、ここにいたいですか?」と尋ね、「ここにいたい」という答えをもって、彼が自分の意志で主体的に精神病院にいることを選択したと言うことはできないのだ。なぜなら彼には、病院の外で一人暮らしをするための現実的な可能性が奪われているからである。現実的な選択の可能性がないところで、自由や主体性について語ることはできない


    自分で選択しなければならないという自由こそが、重荷になることもある

    ★★看護師が仕事場に行くのに付き添い、そのうちバスの運転手やその時間にいつも乗る乗客が、いつも左側の席に座らせてくれるようになって。こうした場合、彼の主体性はどこにあるのだろう。「自己決定する自立した主体」という観念からすると、彼の場合、主体性は欠如しているとみなされるだろう。「病院に残りたい」と言っていた彼にとって、地域で仕事をし、収入を得ながら生活するということを意志し、欲望することさえも、他の人々との関係性のなかで芽生えたものだった。だが、よく考えると、意志や欲望というものは、人々のあいだではじめて具体的なかたちをとるようなものなのではないだろうか。だとすると、意志や欲望を動機づけ、それを具体的に追及可能なものにすることで、主体性を行使することができるような環境と関係性を集合的に整える必要がある

    意志や欲望というものは、人々のあいだではじめて具体的なかたちをとるようになるものなのではないだろうか。だとすると、意志や欲望を動機づけ、それを具体的に追及可能なものにすることで、主体性を行使することができるような環境と関係性を集合的に整える必要がある

    ★★特定の関係性を含み込んだ特定の環境を集団的に整えることではじめて主体性も可能となる。それは、主体性と自由が個人の問題ではないということを示している。主体性を行使するというのは、ソーシャルワーカーが病院に通い、地域で生活するための状況を整え、看護師が付き添ったり、バスの運転手や常連の乗客を組織することで少しずつ実現していく、社会的で集合的な共同作業


    主体性と自由の増大に関わる解放の道具としての地域精神保健の仕事について、現場でしばしば用いられるのは、①主人公であること②自覚③可能性

    ★①は専門家と呼ばれる人たちによって自分の人生の在り方が決められてしまうのではなく、自分の人生の主人公はあくまで自分であるということ。オペラトーレは、主人公が自らの人生を生きるための手伝いをする脇役ないし舞台裏のスタッフ

    ★②自覚は、病状と見えるものはそれ自体すでに、人生の危機や生きづらさに対する本人なりの対処で、それがどういう危機や問題への対処であるかを本人自身分かっていない場合、そのメカニズムを自助グループや精神保健サービスのオペラトーレのサポートを得つつ、明らかにし、自覚していくということ

    ★③可能性は、自分なりに編み出してきた、病状というかたちでの対処とは異なる、別のやり方がありうることを発見していくこと。別の行為の可能性を広げることは、まさに選択の可能性を広げ、自由と主体性の増大に寄与する。自覚も行為の可能性を拡張するためのひと津の方法。行為の可能性を広げるために、現実的かつ実践的な条件がいる。逆に言えば、家を探すことや仕事をみつけることが、病状に対しての行為の可能性を拡張し、自由を角田市することに関わる

    家を探すこと、仕事を見つけることが重要なのは、普通に正常な生活を送ってもらうためではない。あくまで行為の可能性を拡張し、主体性を行使できるようにするため。主体であるというのは、減少したり増大したりするような事柄ではなく、主体であるか、そうでなければ客体であるというように白か黒かというものではない

    こうした意味での主体性は、市民権と同じ。主体性とはまず何より、政治的な主体である。そこでは正常性という基準によって境界線を引くべきではない。市民であるための条件を、理性を正しく行使できるということに限定したことから、狂気の排除とその病理化が生じたのだ。それゆえ、拡張された市民権が今は必要。狂気の可能性さえ含んだ主体性が返還されなければならない

    様々な困難や問題を抱えた利用者が地域で生活しながらより多くの主体性を行使することができるよう、各利用者ごとに個別の治療とリハビリのプログラムを立て、それを具体化していくのがセンターの中心的な仕事

    ひとりの人間が生きる状況全体についての責任を負う。

    ★彼が担当しているある利用者は、「エトアルドといると自分の人生の見通しがよくなる」と語っていた。

    ★人はなかなか自分のことについてはわからない。それは自分の置かれている状況を客観的に見ることが難しいから。だが参照点になってくれる誰かがあなたのそばについていてくれたらどうだろうか。あたなこの他者の認知を参照点として利用することで、一人では見えなかった別の可能性が見えるようになり、別の行為の可能性が広がるだろう。


    精神的不調に苦しむ人は、オペラトーレと共に道程を歩むことで、「自分をふたたび位置づけられるようになる」。それは具体的な場所のことではなくて、人生の航海、魂の航海において、自分をどのあたりにいるかわかるようになるということ。そのとき、その人はかつて苦しかったことについて他人に話すことができるようになる。っそいて苦しかったときと比べて、今はより調子がいいと言えるようになる。これが過程としての治療であり、それは自分の人生の航海の主人公である本人にしか言えないこと

    診断とは、ある人の経験を症状として解釈すること。ある人の生の経験を精神疾患なり、精神障害の症状として臨床的現実を創り出しているのが、医師と患者の
    1対1のインタラクションのなかで、この兆候の読解を行うこと

    疾患と病の区別があり、前者は生物医学的、後者は病者による生きられた経験。しかしイタリアの精神保健的には、この区別もミス。生物医学的な実態としての疾患と、主観的に生きられた経験としての病というふうにははっきりと区別されず、病が他人とのインタラクションのなかで経験されると同時に、疾患そのものもまた関係性のなかでその表情をかえる

    逆に言えば、地域精神保健のオペラトーレは、文脈がダイナミックに変化する複雑性の高い不確かな状況で仕事をしているということ。

    ★★イザベッラの努力は、ジャコモの両親たちの「現実」がもっていた強固な現実性に対して、別様でもありうる可能性を具体的に開いていく作業だった。そのことを彼は「この人たちの心のなかには、別の世界というものがないの、別の世界は不可能だってこ」という言葉ですでに示していた。、、、、、別の現実が可能だということを、一瞬サイコセラピーで垣間見せるだけではなく、それを現実化し、かつその現実性が維持されるような別のネットワークを具体的に作動させることが必要となる。別の現実の可能性を垣間見せるだけなら、それはサイコセラピーではなく、ドラックでも同じだ。問題は、別の現実の実現にむけて、実際に行為すること


    家とは、ある人にとってここが家だと感じる場所



    家が必要なのは、普通の正常な生活を送るためというよりも、行為の可能性を広げていくための物理的かつ情報的なベースとなる居場所としてである。このことを考える上で、きわめて重要な言葉がある。それが「agio」である。これはくつろぎやゆとり、安心、機械やハンドルの「遊び」のような意味

    イタリアの精神保健の文脈ではん、精神疾患や精神障害という言い方はなく、それに代わって、居心地の悪さや生きづらさという。

    agioが欠けているdisagioの状態から、関わっていくことが予防的な観点からも重要

    居心地の悪さや生きづらさは、その当人が感じているそれをさす

    イタリア語のagioを英訳するとeaseであるが、これが欠けた状態を、普通病気とさし、特に医療人類学において、疾患をさすものとして示されてきた

    ★★精神保健の仕事は明確だ。それは欠如している「agio」を感じられるような環境をいかに作るか、ということ

    ★ホーム/アウェイ。主体性を行使するためのベースとしての居場所。ホームとなる環境であり、生活の場であるといえる。いくらホテルのように快適な空間にしようと、生活の場でない以上アウェイの場である。

    カーサファミリアは、行動に関する制限がないが、しかし同時に共同生活をしながら、他人と一緒にいることを学ぶ場でもある。

    カーサファミリアで、彼らは「客」と呼ばれてうても、そこはホテルではなく、あくまでも「家」である。家である以上、家事をどうするかという問題がある


    カーサファミリアは、自立を援助するためのリハビリテーション施設。客はいつかはここから出ていかなくてはならない。とは言え、一人で生きていくということを、人は一体どのようにして学ぶだろうか。あるいは援助が依存に陥らないようにしながら、なお「自立」を援助するというのは、どのように行われるのだろうか

    自己決定や自己責任と称して薬を服用するところだけ本人にやらせても、それは本当の意味での主体性とは何の関係もない。それはインフォームドコンセントに対する違和感に似ている。本来は患者のためであり、患者の自己決定に資するものが、それが医師の責任を回避するための正当化の道具として機能しはじめる

    自尊心や自己の拡大は許されるが、真の希望は許されていない。人は強力な自己イメージの達成に取り組めるが、そのイメージはいつでも観念、理想、主観的


    希望と空想の違い。現代は、人は空想や妄想はたやすくできるは、本物の希望を持つことが難しい。

    なぜ看護師の彼女が、年金の申請に付き合うのか。それが看護師の仕事でもありうることに対する共有された自覚がそこにあはある。

    家は居心地はいい場所であるべきだが、しかし居心地がよすぎてもいけない。そこから出てゆく契機を失ってしまうから。

    環境は、あまり刺激的でないほうがいい。でもふさわしい仕方で自分が考慮されているようなところのほうがいい。刺激的だが、自分が一顧だにされないか、あるいは無用の長物であるような場所よりも

    ★★agioがあるという環境について、単に居心地がいいとか、環境が刺激的で楽しいということではなく、「ふさわしい仕方で自分が考慮されている」ということに関わっているそれは一緒にいながら、「一人」でいることが尊重され、「一人」でいながらも一緒にいることが尊重されているような環境。

    もしあなたがここにいて退屈するなら、アパートに言っても帰ってもどこに行っても退屈するでしょう。

    家で、日常生活のなかで何かを見つけることが大事ではないでしょうか

    ★彼はここから(ファミリア)外に出さえすれば、闇から、出口のない網から抜けられると考えている。家では全部自分で決められるから自由でいいと考えている。しかしそこでは一緒にいることの次元が見失われている。。他人はあるよりはないほうがいい障害物のようなものとみなされている。だからこそ、医師は、ここで一緒に暮らしながら何か興味を見つけられなければ、外に行っても同じではないかというのだ。

    ★人はある場所の刺激のなさに退屈し、新たな刺激を求めて移動する。だが、すべての人間の不幸は、部屋でじっとしていられないことから来るのではないだろうか。環境に刺激が少ないからこそ、そこに他人たちと一緒にいることで、環境のなかになにかを見つけることが逆に可能になる。カーサファミリアは、環境のなかの貧しいリソースを他の人たちと共に模索する、実験場なのである

    仕事をするのはいいのだが、農家の文化では、社会性の時間が全くない。24時間働くか、調子が悪いかのどちらか。働いているときは調子がいい、でも何もしないときは調子が悪くなってしまう。何もしないことを愉しむことを学ばなくちゃいけない

    身体的自己:肉体的バランスと、社会的自己:これをやりなさいという諸々の課題、霊性的自己:。

    彼の本当の問題は感情に耐えることが全くできないことにある。

    一人だけでは、自分自身を支えられないようなんだ、そう支えられない。感情的なものが過多で、感情に翻訳することができな。感情に関しては初歩的な原始的なアルファベットしかもっていない。、、、すると方向を見失う。

    内的なエレメントがない。他の人に比べれば、彼はずっと発達しているように見える。というのも、働いているし、よく機能するからね。でも実際にはここから出ていくことは出来ない。なぜなら一人で自分自身と一緒にいることができないからだ。この重みに耐えきれない。ところが逆説的にとても自立的に機能している、限定された場所の中ではね。おそらくそうした社会的な部分を機能させることができるのも、まさにここにいるから


    ★一人で自分自身と一緒にいることができないから、カーサファミリアから外に出れないというのは重要な指摘。仕事もてきぱきこなし、狭い意味では社会的に全く問題ないように見えるにも関わらず、それだけでは、カーサファミリアの外に出ていくことができない。「一人で自分自身と一緒にいる」ことができてはじめて、外に出て他人と一緒にいることもできるようになる

    何もしないことを愉しむことができてはじめて、何かをすることを本当に意味で楽しむことができる

    ローマ人にとって、生きるというのは、人々のあいだにあるということ。死ぬというのは、人々のあいだに有ることを止めること。

    一人でいることと、一緒にいることを同時に学ぶ場だというのは、それが人々のあいだにあることを学ぶ場であるということに他ならない。

    労働、仕事、活動

    ★精神的な不調を訴えた人について、就労すれば、社会復帰は完了したなどと考えてはならない。労働はしていても、活動が欠けている場合が往々にしてあるからである

    ★両親のいない広い家に一人でいることは耐えられない。カーサファミリアが大事なのは、ここには生活があるから。それは、そこに「誰かがいる」ということであり、そこに別の生があり、しかもその別の生こそが自分の生を動機付け、生きる理由になる


    ★本を読む行為を一人でできると思っているが、それでさえ本当に一人では読めないのではないだろうか。彼は刺激がないという言い方をしているが、この刺激は環境の中に直接ある刺激をさしているのではなく、誰か他の人と一緒にあるということから立ち上がってくる、生きるための根源的な動機づけのこと。それがなければ、本など読んで何になるだろう。つまり私たちは一人で本を読んでいても、本当はいつも誰かと呼んでいるのである。ああ面白かったで終わらず、他の人や未来につながっていくかどうかということ。読む、考えるなど一人の行為も、見えない多数のわれわれに通じている協同的な行為なのだ。

    オスピテには客と同時に主の意味もある。

    ★★共に生活することは、仕事であるとともに活動でもある(→単なる労働をこなすだけでなく、そこには共同的な他者との冷静的交感があるということだろう)


    一人の人間の生は、人々のあいだで営まれるものであり、そうした多数の生が、わたしを支える見えない「われわれ」として常に生きているからこそ、私たちは一人で生きていくことができるし、能動的な主体性を行使することができる

    ★★家や家族においても同じで、家を出て独り立ちするのも、カーサファミリアから出るのも、「わたし」という図が、その地としての「われわれ」を自己のうちに折りたたんで不可視なものとしながら、よりくっきりと「わたし」を描こうとするときが来たからであるようにもおもわれる p249

  • 【蔵書検索詳細へのリンク】*所在・請求記号はこちらから確認できます
     https://opac.hama-med.ac.jp/opac/volume/463752

  • 今のところ、今年1番!

    人と人の間で生きるのが人間。
    誰もが、そこにいるだけで価値がある。

    そんなことを、身体で感じた。
    語るのに1週間かかる。

  • 斜め読みだが。

  • 読前と読後で、人間と社会の関係についての考え方が決定的に変わった一冊。著者のイタリアに対する深い愛と尊敬が全編を通して感じられる。

  • イタリアでいかに精神科病院を廃絶して、病気を持つものたちがその人らしく地域で生活できるようになり、現在どのような実践がなされているかが詳細に書かれている。所々哲学者達の言葉が引用されているところがやや難解だが、何度か読み直せば理解できる。精神医療を批判するだけではダメで、精神病に罹患した人間をいかに受け入れていくかという社会の側の問題であり、病気もあって生きる生き方も人としての一つの生き方であるという本書の指摘が日本でも実践できれば、イタリアほどではなくとも、不要な精神科病院を無くしていくことはできるだろう。

全8件中 1 - 8件を表示

著者プロフィール

広島大学大学院社会科学研究科准教授、文化人類学、医療人類学。主要著書に、『プシコ ナウティカ——イタリア精神医療の人類学』世界思想社、2014年(単著)、『文化人類学の思考法』2019年、『身体化の人類学——認知・記憶・言語・他者』2013年(以上、世界思想社、共著)、『医療人類学を学ぶための60冊——医療を通して「当たり前」を問い直そう』明石書店、2018年(共著)、『Lexicon現代人類学』以文社、2018年(共著)、『世界の手触り——フィールド哲学入門』2015年、『動物と出会う I——出会いの相互行為』2015年、『自然学——来るべき美学のために』2014年(以上、ナカニシヤ出版、共著)、『医療環境を変える——「制度を使った精神療法」の実践と思想』京都大学学術出版会、2008年(共著)などがある。

「2019年 『トラウマを共有する』 で使われていた紹介文から引用しています。」

松嶋健の作品

この本を読んでいる人は、こんな本も本棚に登録しています。

有効な左矢印 無効な左矢印
國分 功一郎
J‐P・サルトル
クロード・レヴィ...
ヴィクトール・E...
劉 慈欣
有効な右矢印 無効な右矢印
  • 話題の本に出会えて、蔵書管理を手軽にできる!ブクログのアプリ AppStoreからダウンロード GooglePlayで手に入れよう
ツイートする
×