- Amazon.co.jp ・本 (121ページ)
- / ISBN・EAN: 9784791720927
感想・レビュー・書評
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圧倒的な言葉の存在感
どうせなら いつそのこと フランス語やイタリヤ語であつたらよかつたのに
そうすれば 意味など考えずに 言葉のみを楽しめたじやないか…
禅宗に「指月」と言う言葉がある。
「言葉は月を指し示す指に過ぎない。指そのものを見ても何の意味も無く、その先にある月を見なければ何も判らない。」と言う意味なのだがしかし凡夫にとっては指がなければ月の存在すらわからないのだ。
日和さんの詩集を読んでそんなことを考えた。考えたってわからないのにね、そう「びるま」の意味さえも。考えたらダメなんだろう…感じなければ詳細をみるコメント0件をすべて表示 -
猿投げの会に誘われたもので
一度 行ってみようと
そういうはなしになった。
『猿投会参夜』より
結局のところ、自分は理屈を求めているのだなあ、と思う。理に適ったものということではないけれど、一筋縄ではいかないようなこと言われてみて、ぶるると武者震いのような心情が湧いてくるということは、その中にまずは一筋の理屈を認めて、そこからのずれを楽しんでいる、ということなのだろうなあ、と。
文字を読み解く前の日和聡子の「びるま」は、とても佇まいが良く魅力的に見える。ぽつぽつと飛び込んでくる文字(たとえば「自分を引き取りに行く」、「征夷大将軍に選ばれて」などなど)の組み成すものが頭の中で勝手に想像されてゆく気配も大いにする。ところが読み始めてみると、何かがしぼんだような気持ちがぽつんと残る。
難しい所がないようでいて、日和聡子の紡ぐ言葉の立ち上げる世界は、決してやさしくはない。そう感じるのはその言葉が人の心の裏側をもっぱら描いてみせるからで、表面の世界の裏でうごめく影を伴う言葉がそこには潜んでいる。読み解き、踏み込みたくない自分がいることが徐々にはっきりと意識されてくる。
何を信じていればよくて、何を信じてはいけないか。そんな風にいうと十代の頃の恋愛観のようにも響いてしまいはするけれど、自我の目覚めと他人の(自我の)存在の認識、そしてその間にある埋めようのない隔たりという問題は、青くさい恋愛関係にのみ特有のものではないんですよ、という警句のようなものがこの詩集には満ちているように思う。
どこかにそちら側と繋がることのできる入り口はないのか。普通それは身体の感覚を頼りにし、その感触に寄り添っていった末に得られる「誤解」のようなところにあるように思いはするけれど、それは逃げて行くことに過ぎないのだ、と、日和聡子は伸びてゆく触手にもぴしっと平手打ちを喰らわす。
かわいそうなひと
私をなにかと
間違えているのだ
私は乳を触れられたまんま
いわひさんの脳天を見ては
そう思つた
『割盃』より
そして観念せざるを得なくなる。自己と他人の間にある隔たりは、きっと埋まることがないのだ、と。それは理屈でどうこうできるものではなく、小さな不思議を愛しむような気持ちでは尚更どうにもならない。もっと黒くて暗くて深くて全くどうしようもないものなのだ。そんな恐ろしさを日和聡子に読んでしまうのだ。
その蛇が十五年先にうまれたために
十五年後に私は生まれた
それは何か
取り返しのつかない十五年であつた。
『過蛇』より -
イメージが斬新で、ユニーク。なんとも言えない怪しげで美しい非日常。なかなかこういう作品には出会えない。中毒になりそうな世界観。