- Amazon.co.jp ・本 (121ページ)
- / ISBN・EAN: 9784791755639
作品紹介・あらすじ
1935年11月。フェルナンド・ペソアは聖ルイス・ドス・フランセゼス病院で死の床に就いていた。苦悶の三日間、ポルトガルの偉大な詩人は、訪れたかれの異名たちと話を交わし、最後の遺志をつたえ、生涯の伴侶であった亡霊たちと対話を交わす。それはまるで妄想のなかの出来事。小説とも(架空のものだとはいえ)伝記ともみえる短篇の中で、アントニオ・タブッキは20世紀最大の作家のひとりの死を、やさしく情熱的に描いている。
感想・レビュー・書評
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死の床につくフェルナンド・ペソアの元に、詩人が生みだした分身たちが次々と訪れる。ペソアを敬愛するタブッキが、詩人の最後の日々を想像力豊かに描いた中篇小説。
まだペソアの詩を読んでいないので、彼の分身のうちメインだったという三人格、アルベルト・カエイロ、アルヴァロ・デ・カンポス、リカルド・レイスについては『不穏の書』の解説でしか知らない。アルヴァロが同性愛者だったために、ペソアの職場恋愛がふいになったという話が面白かった。全く別の人間であろうとすることと、抑圧されたセクシャリティとは結びつくものだろうか。物質世界では異性愛者としてふるまいながら、虚構世界では同性愛を描いてきた作家たちを思う。
ソアレスもでてくるが、タブッキが書くソアレスは小市民的で、私が『不穏の書』からイメージしたのとは違う。けれど、彼は確かに孤独な小市民だったのだから、実際会ったらこういう人なのかもしれない。美味しいオマール海老を奢ってもらった話を嬉しそうにペソアに聞かせている。
自らに名前をつけ直し、誰でもない存在になる。そして他者のなかに自分を発見し、その境界のゆらぎにこそアイデンティティを見いだす。タブッキの『インド夜想曲』や『遠い水平線』も確かにこういう話で、ペソアと彼の分身は、タブッキの分身でもあるのだろう。究極、自分以外の誰かになれないなら、文学が存在する意味なんてないのだ。自分探しではなく、〈自分増やし〉で世界を歩き切ったひとへの餞のような一作。詳細をみるコメント0件をすべて表示 -
そういえば。
ペソアには幾つかのペンネーム。名前があって、それぞれ作品があるし、その名前で生活というかパーソナルな行動をしていたそうだ。
ポルトガルの人。
死後にトランクの中にたくさんの書類があったそうだ。 -
『レクイエム』スタイルの、いるのかいないのかよくわからない人物たちが主人公と対話する中編。タブッキがペソアを愛しているのはよくわかった、だって来るのがあの人たちだから(ネタバレになるのかよくわからないので自重)。こんなの書いちゃうの俺だけでしょ?という得意そうな顔さえ浮かぶ、タブッキ個人の思い入れを感じる本だった。そして死にそうなときに人に会う、という状況について考えてちょっとぼんやりしてしまった。
死にそうなこちらが伝えたいことを伝えたほうがいいのか、向こうが話したいことを話させてあげたらいいのか。まあこっちは死ぬのでどっちでもいいといえばよくて、わざわざ死にかけに会いに来てくれた相手を満足させてあげればよいのかもしれない。「気が済むようにする/してあげる」ということにはどれほど意味があるのだろう。そして当分死にそうにない今でさえ、この問いについて考えようとするとぼんやりしてしまうのだった。 -
「レクイエム」と同じく、タブッキ偏愛のポルトガルの詩人ペソアが登場する。前者では真夏のリスボンに、既に死んだはずのペソアが蘇り、後者は死を迎えつつあるペソアのもとを、彼の分身たちが訪れる。両者ともに幻想的な作品だが、「最後の三日間」は短い作品のため、「レクイエム」のほどには世界の広がりもなく、圧倒的な感動もない。むしろこちらからは著者が個人的に楽しむために書き綴った、上質な散文詩といったイメージを抱かされる。
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名古屋で読了!
夢の中の夢がまた読みたくなった。
ペソアの詩集を探さなきゃ。
タブッキが執拗にこだわるフェルナンド・ペソア。
その生涯の概略しか知らないけど、複雑怪奇。
詩人と画家と音楽家はぶっとんでるほうが素晴らしいものをつくりそうな気はする。
タブッキ久しぶりに読んだけど、やっぱり好きだ。
地元の図書館になくて、みなみちゃんに渋谷区で借りてもらった!
ペソアが死去するまでの3日間、彼の中のほかの人物たちが彼を訪問する。 -
死の床についたフェルナンド・ペソアのもとへ暇乞いに訪れる彼の異名たち。
ペソアの作品が読みたくなった。翻訳もよかった。
ダブルスペースで 90 ページにも満たない薄い本なので、ちょっと買うのは躊躇するけど。