- Amazon.co.jp ・本 (300ページ)
- / ISBN・EAN: 9784791757039
作品紹介・あらすじ
権力はいかに言説のかたちをとって身体・精神・欲望を形成するのか。女と男の弁別が身体の自然に根ざすとする本質論的前提を根底的にくつがえしセクシュアリティ研究の方向を決定づけるフェミニズム・現代思想の最重要書。
感想・レビュー・書評
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確認先:稲城市立第一図書館
「セックスはつねにジェンダーであり、ジェンダーはつねにセックスなのではないか」という名フレーズでフェミニズムに震撼を巻き起こした名著。一般的には学士論文〜大学院という扱いをなされるためか、一般の人にいきわたることがとても少ないとされる。強いて言うなら図書館にあったぐらいだろうか。
この本とは既に4年以上のお付き合いとなるが(高校生でバトラーを読むことが実は蛮勇だったというのは大学入ってからわかった)、最近になってようやく整理ができてきたかなと思えるようになった本。
しかしながら、誤読や読み間違い、読み飛ばしによる虫食いが多分に多く、全てを理解するにはまだまだ時間を要するであろうか。
ベルフックスは「フェミニズムはみんなのもの」といったが、それになぞられるならば「ジュディス・バトラーはみんなのもの」といってみるのも悪くはないだろう。詳細をみるコメント0件をすべて表示 -
セックスはつねにすでにジェンダーなのだ、ジェンダーはパフォーマティブである、など、ジェンダー論の古典としてフレーズは知っていたが、通読するのは難解でやはり大変。
そこまで脱構築?解体?しなくてもいいんじゃないかと読みながら思ってしまったが、ジェンダーという概念、ジェンダーとセックスの関係がひたすら逆転されていく。
ジェンダーを論じるさい、セックスは前-言説化されているという指摘とかは、自分でも実践してしまっているよな、とか、何かを論じるとき、論じられているものを読んで考えるときなどに使えそうな観点かもしれない。
セクシュアリティ研究、クィア理論への道を切り開いた著作でもある。それまでだったら「ジェンダー」の問題としてのみ解釈されそうな主題に、異性愛規範がどのように絡んでいるのかを粘り強く析出している点はなるほどと思った。 -
主体性とかアイデンティティとか暴力といった問題を考えるにあたって、最近(?)の著者としては落としてはならないらしいジュディス・バトラーを一応読んでみる。
個人的には、「自分自身を説明すること」のほうが、自分の関心に近そうだが、バトラーの出世作で、言及されることの多い「ジェンダー・トラブル」から入門してみることにした。
いわゆるフェミニズム理論を、ポスト構造主義的な「主体」批判の立場から、脱構築していく、という感じの本かな。「それは、本質主義だ」「二元論だ」といって批判されるのは、ボーヴォウォールとか、その他私の知らないフェミニズム理論家、そして、レヴィ・ストロース、フロイト、ラカン、クリスティヴァなどなど。
フェミニズムが、「女」という軸を立てる限り、なんというか、本質論、二元論に陥ってしまうということかな。つまり、「文化対自然」とか、「DNA原理主義」とか、そういう言説に絡めとられてしまうんだな。そして、「女」である「主体」というのが前提になっている。
という議論は、フェミニズムの議論を横から聴いていて、なんとなく感じていたところなので、結構、読んでて、すっととした。
そして、議論は、ジェンダーだけでなく、セクシュアリティもセックスも、社会的に構築されたものだ、すべてはディスクールだ、というところに進む。
ということろまではそうかな、と思うのだが、フーコーを援用しながら、生物学的なセックスをベースにジェンダーが構築されるのではなく、ジェンダーがセックスを後付けで構築するのだ、とくると、やや?となってしまう。
という私は、やっぱり、まだ本質主義、科学主義なの?
全ては、社会的に構築されているというのは結構そうだと思うのだけど、そのレベルは、いろいろあるんじゃないだろうかー、素朴に思うのであった。
具体例などが少なく、ちょっと理論的に過ぎる気がするが、思考にいろいろな刺激を与えてくれる本ではある。もう少し、他のバトラーの本も読んでみよう。 -
わたしのヒーロー。
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陣野俊史が選ぶ 小説のことを考え始めるための10冊:文藝(2009冬)より
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圧倒された
信じていたものが
不確かな存在だとわかった今
第三の性を探す旅に出るのもありかと
てゆうか性なんてまやかしなのよ---omg
基礎知識足りなくて本当辛かった
難解......
二度と読みたくないけど
今後付き合いが長くなるのでは...
orz......
09/06/15 -
人文社会系ではあまりにも有名な本。社会的な性(ジェンダー、男と女の役割規範など)だけではなく、生物学的な性(セックス、どっちの性器がついてるのが男で女でとか、子供を生むのは女でとか、そういうこと)までもが社会的・歴史的な構築物であるとはどういうことか? 身体や欲望が言説によって構成されているとはどういうことか?
いまとなってみると、『触発する言葉』のパフォーマティヴィティ論につながるものがここでも示されているなあ、と思う。たとえば後半で論じられる、ホモセクシュアルな関係のなかでのパロディの可能性についての議論。レズビアンにおける「男役」「女役」は通常ホモセクシュアルな関係をもつ人々でさえもヘテロセクシュアルな規範の支配下に置かれている、としてネガティヴというかペシミスティックに評価されてしまうけれど、じつは「男」と「女」が絶対的に身体にくっついたものではなく、人がパフォーマンスによって演じていくものであることを暴露している意味で、たくさんの可能性をはらんでいる…とか、あのへん。
そんな感じで一行感想を書こうと思ったらまたしても長くなりすぎたのでまたしてもブログへ(だめじゃないか!)。だけどもそろそろ読み直さんと、記憶が主観的な印象でかなり変形している気がする。
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基礎知識が無いと読むのしんどいと思う。難解かな。
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ゼミナール?後期主要テクスト
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ジェンダー入門には全く向いていない本書。
女性が女性に言及する時に、いかに権力が介在するのか、延々と続きます。
フェミ系の基礎文献を読んでいないと、しんどいです。