- Amazon.co.jp ・本 (248ページ)
- / ISBN・EAN: 9784791757398
感想・レビュー・書評
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「[...]甘やかな春の宵が、静寂の中でささやき、開け放たれた窓から木々の花の香とともに忍び込んでくる。それこそドビュッシーの音楽の本領が発揮されるときだ。結局それは、生と死の連帯、われわれが運命づけられている非在、存在のワクワクするような豊穣さをわれわれに告げているのである。その音楽は、神秘と詩の言葉によって、この世で何よりも大切なのは、世界そのものとその遍在性であると教えている。」(p.194f)
ジャンケレヴィッチのドビュッシー論。この哲学者が音楽論を多くものしていて、まして自分でピアノをかなりの程度弾く人物だとは初めて知った。ドビュッシーに関する本の背表紙を眺めていたら、その昔、ベルクソン論を読んだ懐かしい名前が出てきたので読んでみた。
この人の著作はとても詩的(形而上学的と評する人もいるが)で広範囲の知識が出てくる。知識として自分も持っているところを読んでも、詩的な部分についていけないことが多い。ある程度著者と同じような感覚を持っていないと、その言葉を理解する(むしろ共感する)のは難しい。
ということで分かるところは少なかったが、着眼点に共感するところもあった。主音に終止するわけでもない降下音列への着目(p.52)、場所を移動せず同じ場所に回帰する運動(「喜びの島」など多数)の述べ方(p.64ff)、主観性を排除した物自体を描写しているという捉え方(p.120ff)、きらきらした高音域の特徴付けと音楽における遠景・空間配置(「花火」での遠くからのラ・マルセイエーズ)への着目(p.103-114, 155f)など。
評論よりはとりあえず手始めに伝記でも読んだほうがよさそうだ。かなりの知識を踏まえ感性を持たないと、この本の理解は難しい。詳細をみるコメント0件をすべて表示 -
フランスの哲学者ウラディミール・ジャンケレヴィッチ(1903-1985)によるドビュッシー論。哲学者の音楽論というと、アドルノの『マーラー』『音楽社会学序説』なんかが真っ先に思い浮かび、あの断固とした批判精神で、まるで恫喝されているような迫力に圧倒されてしまう感じであるが、このジャンケレヴィッチの音楽論は、対象がドビュッシーだからなのか、それとも著者の気質がそうだからなのか、サワサワした音楽が心地よい距離感を保ちながら響いてくるかのような、実に流麗なエッセイになっている。詩的で匂立つ文章がたまらない。
”海底の深さが、いかなるエネルギーもゼロになる<絶対下>であるのなら、海そのものは、何よりもまず廃墟の場、もしくはミシュレの言うように、解体を企てる場であろう。げんにドビュッシーの音楽がとりわけ暗示していることは、物質の風化と崩壊であるのだから……
──p.29 ”
しかしこの本は、ドビュッシーの音楽について、ただ美辞麗句を並べ解説しているわけではない。アドルノとはやり方、書き方こそは違うが、やはりそこには何らかの哲学的思考が──ドビュッシーという音楽家とその音楽を介在し──根底に流れている。
例えばジャンケレヴィッチは「正午の点」について、絶頂と同時に衰退の始まりであるという「両義性」を打ち出し、「同一の頂点が上昇の終着にも、また失墜の開始にもなる」と記している。ここからドビュッシーの音楽に内在する志向──つまり生と死──を炙り出し、単なる楽譜の分析では思いもよらぬ解釈の地平を提示する。とくに「ほとんど無なるもの」という言葉で展開される存在/非在についての部分は、この本の白眉であろう。
”しかし存在がなくなったわけではない! 存在が、ほとんどないほどに稀薄になったとしても、最小の存在であったとしても、それはやはり存在している。ちょうど非在にならないために必要な分だけ。(中略)ドビュッシーは、非在へ変わる危険な瀬戸際で存在を引き止めている……。
──p.160 ”
そしてアイロニカルな、まるで魔術のような逆説。解説にもあるように、ジャンケレヴィッチの逆説は、逆説どうしがお互いを否定しあわず、ほんの一瞬の視点の転換によって、対立する両極端が渾然一体となってしまう。「裏は表であり、虚は実である」
”重要なのはドビュッシーが連続か不連続かの二者択一を超越しているということだ。連続する生成が前進できるのも、それを動かす不連続の瞬間のおかげである。
──p.152 ” -
<memo>
世紀末:もの悲しさ メーテルランク〜死への関心
ショーペンハウアーの厭世観→ジュール・ラフォルグ
虚無思想 はじめて<涅槃>の観念
存在することの不幸、宿命的な問い ハムレット的ジレンマ