- Amazon.co.jp ・本 (226ページ)
- / ISBN・EAN: 9784791762835
作品紹介・あらすじ
いま音楽を語るとき、何を前提とすべきなのか?テクノロジーの土台の変化によって、「音楽」そのものが動揺しつつある現状を思考すること、音楽に絡みつく「日本」の現在に介入すること、既存の音楽言説が自明とする諸概念を疑うこと。音楽批評言語の組み替えを通じ、新たな「聴衆」をつくる野心的思索=投機。
感想・レビュー・書評
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第5章日本語ロック論争の問題系 はっぴいえんど史観を留保する だけ読みました。
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いくつかのトピックを読んだけど、ある程度予備知識ないとよくわからん。感覚的にしか理解できないから、内容を人に説明しづらい。
まだ読み終わってない。
先生からの借り物。 -
「学生たちにとって「音楽を論じること」とは、「自分の「好きな」音楽について云々すること」と等しい。・・・そこでは音楽の主体を価値判断(好き/嫌い)と切り離して語る可能性があらかじめ排除されているようにも思える」(p1〜p2)という問題意識のもと、「愛着のディスクール」以外の音楽批評の可能性について考察する一書。
というわけで、僕もかねがね「好き/嫌い」の構図で音楽や映画について語ることを良しとせず、と思っていたので(まあそれが難しいのだけど)この指摘は諸手を挙げて同意したいのである。
ところで、「記号としての「君が代」」について。そこに若者は政治性を感じていない、だから若者の歌唱(サッカー日本代表とか)に「硬直した政治的含意を読み込んではなるまい」(p155)とする指摘は、果して問題が〈そこ〉にあるのだろうか?
牧原憲夫は明治期の民衆を「客分」、すなわち非政治的な存在として措定し、それが国民国家のなかで「国民」化していく様を明らかにした。だとすると、今「君が代」を軽やかに歌う非政治的な若者(「客分」)が、今後「国民」化していくかもしれないことをどう考えるか、ということが重要なのではないのだろうか。この本が「この先に何があるのかを見通すビジョンこそが必要」(p191)と言うのならば、非政治的な若者に対し「非政治的である」というラベルを今与えることに、いかほどの意味があるのか、と思ってしまったのでした。 -
2006