にほんごの話

  • 青土社
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レビュー : 8
  • Amazon.co.jp ・本 (183ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784791765133

感想・レビュー・書評

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  • 谷川俊太郎と和合亮一の対談。

    最初の「国語」「日本語」という視点と教科書への谷川さんが思ってるところの意見が面白かった。教師とかじゃないからか、妙に納得したw

  • 谷川俊太郎と和合亮一の対談

    『にほんご』についての記述があるらしいということで、読んでみる。

    教科書に著者がいない=責任を取る人がいない

    そろそろ「国語」ではなく「日本語」ではないか

    詩の学習は、音にする
    P251言語の音的な側面を身につけるためには、調べというかリズムがすごく大事だから、意味がわからなくても身体にいれてしまったほうがいい。
    昔の子どもは素読させられた。
    民主主義教育はみんな意味から入るけれど~そうではないのではないか。

    斎藤孝は国語は体育だと言ってましたけど、いまの国語教育の現場には言葉が身体に関わるものだという視点がまったくない

    P27
    一見、無意味に思える言葉を全員で共有するという意欲が乏しい。しかしすべてのことがが意味に感げされるような体験ばかりをしていると、古典の言葉の本当の意味での不明さみたいなものを一生感じることなく終わってしまうのではないかと思います。深層言語の世界を教育の場にもっていことは難しいと思うんですけど、その中から物の見方や考え方を学んでいく姿勢が必要なんじゃないかと。

    P36声は一対一で伝達するものという

    P39オノマトペとは、つまり一番原始的なものであって、言語が、脳の問題になってしまう前の言語だから、直接に人の身体の部分に訴えるものがあるのかな。だから詩の場合でも、効果的に使えるんだと思ってるんです。

    P42かって鶴見俊輔さんがおっしゃった有名な「ノンセンスというのは、存在の手触りを教える」という言葉が僕には衝撃的だったんだけど、オノマトペというのは分節化された意味を持っていないから、まさに意味づけられる以前の存在の手触りに触れることができるものなんですね。意味はないんだけれども、なんかそこにそんざいしているものの手触りをネトネトとかペトペトとか、ハラハラとか、擬声語や擬態語が表現できるわけです。存在の意味よりも先に、手触り、存在そのものを感じさせてくれるのがオノマトペ。だけど、それだけでは文章は成立しない。意味のある単語として成り立たないわけだから、それを多用しても意味がない。それをつかうのは、たぶん詩人たちには言葉が発生する以前の存在のリアリティに迫りたいという欲求がどこかにあるからだ。~~意味のほうに偏った現代詩人はオノマトペはあんまり多用しない

    P69言語がインフレ化しているというのはつまり言語が指し示す実態が見当たらない、それがすごい気迫になっているということなんですね。当時は言語に浮力がついた、浮いてるみたいな言い方だったけど、いまや浮力どころのさわぎじゃなくて一種言語全体が爆走しているという感じが僕にはあります。たとえば、お金にしても、昔はある実体的な製品とか日比野付帯的な労働に対して支払われることが多くなっている。そして、究極的には金融のようにお金がお金を生むのが一番のお金儲けの方法になっていますよね。あれも言語のインフレと同じで、実態を伴わないフローが膨大に生みだされているわけです。そういうものにわれわれ世代はまだ体質的に慣れないんですね。慣れちゃえば投機的に動いて今頃大金持ちになったりしてるかと思うんですけど。

    P71いま人気にあるものってみんな映像的なものですよね。なぜみんな映像をもとめるかっていうと確かにきれいで面白いからというのはあるんだけど、言語からの逃避という側面もある気がする・言語は基本的にひとつひとつを名付けて整理し秩序を与えるという機能があるわけで、みんな日常生活の中でそういう一義的な言語を使っているからこそ、詩や小説のような多義的な、自由な言語の使い方を欲するということがある。けれども、社会が複雑かつ広大になっていくと、さまざまな決めごとがひつようとなって、一義的な言語の領域がどうしてもふえていく、その究極的なかたちが「0か1か」というコンピュータのデジタルな言語だと思うんです。そこにはもう多義的な言語が存在する余地がなくって、そういう一義性にみんな生理的に耐えきれず、アナログな映像とか音楽とかに行くんじゃないかというのが僕の仮説なんです。そういうものが増えることはある意味で現代人の生理的な救いになっているんだろうと思いますけど、同時にそれによって現実の味方が曖昧になるということもある。

  • 七五調、漢文の素読、音読、オノマトペ、戦後日本の詩壇、英語のアクセントに対して日本語の調べ……など、日本語や文学についての興味深い視点がさまざまに語られているが、とくに谷川俊太郎のものの見方は鋭いとしかいいようがない。

    一例をあげよう。ネット社会においては、情報のような「フローの言葉」が急速に増大しながら次々と流れていくなかで、文学など多義的な「ストックの言葉」の地位が低下。これまで、個々人の体験や実感にもとづいていた言語が、いまや辞書的で画一的なものになり、逆に人が言葉に規定されてしまう。そして、それがバーチャルなものがはびこる下地になっている――。大体、そんなことを言っていたと思うが、ここまではっきりと時代の流れを言語化してしまうのは、よっぽどシャープな感覚をしているのだろう。

    実は、和合亮一という人が気になって本書を手に取ったが、完全に主役は谷川俊太郎。和合が先輩をたてているということもあるだろうが、谷川のものの見方とそれを表現する言葉の鋭さに比べると、どうも存在感が薄い。ただ、そういった鋭い発言を引き出しているという意味では、聴き上手ともいえるのかなぁ。それにしても、谷川俊太郎の容赦のないツッコミぶりもすごい。まじめにやっているときもあるが、どことなく、サービス精神でやっているようなところもあり、なかなかその「芸人」ぶりも見事なのだ。

    おもしろい人です。

  • 対話形式の本。
    日本語(いわゆる国語)の教科書が、きちんとことばについて考える体裁をとっていないとは。谷川さんの意見を読み、気付き、納得。
    注釈の科学情報等、確かにいらないしおかしい。
    音と言葉の関係性についても語られていました。
    意味以前の存在をどうしたら言葉で掴めるのか?

  • 谷川俊太郎氏の詩は少ししか読んだことがないけど、こんなに日本語教育に対して、絶望していて熱心で、歯に衣きせずに物言う人とは知らなかった

    詩は、体に即したもので、奥底から出てくる、それを推敲するという、肉体と技術が連続した手法が必要だというのが、意外だった

  • 異性にふられたばかりの私…。
    あの谷川俊太郎も「捨てられた」体験を持つことに勇気づけられた。
    みんな失恋を経て、成長する。
    沈む気持ちが励まされた!

  • 谷川氏は高校の大先輩。

    谷川氏は教科書のことをぼろくそに言っているけど、自分の詩が教科書にのることはイエスらしい。教科書に乗ることによって知名度が上がり、詩集が売れるから。ただ教科書に乗ることによって、権威化されてしまうことを懸念している。
    今の国語教育の現場には言葉を身体にかかわるものだという視点が全くない。

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著者プロフィール

谷川俊太郎(たにがわ しゅんたろう)
1931年、東京生まれ。父に、哲学者・谷川徹三。現在の東京都立豊多摩高等学校を卒業し、1948年頃から詩作の活動を開始。1952年第一詩集『二十億光年の孤独』出版。以後詩、エッセー、脚本、翻訳などの分野で多岐に渡る活躍を続けている。
翻訳については、ジーン・ウェブスター『あしながおじさん』や『スイミー』、ゴフスタインの絵本の数多くを手がける。詩集に『ことばあそびうた』、『みみをすます』、『日々の地図』、『はだか』、 『世間知ラズ』など、エッセー集に『散文』、『ひとり暮らし』、絵本に『わたし』『ともだち』『もこ もこもこ』、詩集に『シャガールと木の葉』、『すき』、『詩の本』、『トロムソコラージュ』など。
萩原朔太郎賞、鮎川信夫賞、三好達治賞、朝日賞など多くの受賞歴がある。

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