人はみな妄想する -ジャック・ラカンと鑑別診断の思想-

著者 :
  • 青土社
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  • Amazon.co.jp ・本 (467ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784791768585

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  • フロイトの鑑別診断論ーーつまり、どこからが精神病でどこからが神経症かという診断論をもとに、ジャック・ラカンはまず、「エディプス・コンプレクス」が導入されているかいないかで両者を明確に区別した。

    ここからラカンの思想的変遷が始まる。
    1950年代後半ーー〈父の名〉とファルスをめぐる構造論として定式化。

    1960年代ーー〈父の名〉、父性隠喩が大他者の一貫性をみせかける虚構とみなす。

    70年代前半ーーディスクールの理論。エディプス・コンプレクスを「フロイトの夢」とみなし、神経症者はディスクールに従属する存在として、精神病者はその「外部」にあるとする。「あらゆる主体を広義の精神病者と考えるパースペクティヴ」が開かれる。「人はみな妄想する」「人はみな狂人である」

    70年代後半ーー症状の一般理論。症例ジョイス。症状の根にある「享楽」、「各主体に固有の享楽のモードとうまくやっていく」ことができるようになることが精神分析の終結。

    至れり尽くせりの解説で、ようやくラカンの理論(ならざる理論)が見えてきた。とくにラカン後期の「享楽」について知りたかったのだが、ここもじっくり、繰り返し説明してくれている。ラカンの入門書の2、3冊めとして、申し分のない本だと思う(ある程度の予備知識はあったほうがよいかも)。

    けっきょくラカンは患者それぞれの「特異性」を重視する方向に向かったのであり、回復するとはほんとうに良いことなのかと疑義を呈した中井久夫氏とも問題意識を共有している。
    時代はますます回復をよしとする方向に向かっており、精神医学にかぎらず画一的な医療というものが是とされる傾向にある(Covid-19を経ておそらくそれはますます加速するだろう)。本書における提言はその点でも貴重である。


    また、本書では、ドゥルーズ=ガタリ『アンチ・エディプス』が精神分析批判≒ラカン批判をしているというかなり雑な見方を、具体的に修正してくれてもいる。両者の考えは、じつはそう違わない。このへんのこともずっと整理したいと思っていたので、くしくも「後期ラカンとドゥルーズ=ガタリ」の論考を読めて幸運だった。

  • すごい、わかりやすい、網羅的

  • 216まで

  • 登録番号:1027305、請求記号:146.1/Ma81

  • 鑑別診断という一本の軸を据えることで、雑な簡略化のない、しかしめちゃくちゃわかりやすく整理されたものとして、ラカンの理論の変遷を提示してくれる。ほんとうにすごい。

  • [出典]
    「現代思想入門」 千葉雅也
    P.162 ラカンの入門書、必読

  • 《DSM-III以降の現代の精神医学は、客観化された兆候(所見)以外のものを、まるで存在しないかのように扱う。そして、その客観化された兆候なるものは、主体の分裂や、知に対する主体のあり方をまったく考慮にいれていない。総じて、現代の精神医学の基本的態度は、「みえるものだけしかみようとしない」というものである。そう、現代の精神医学は、無意識(の主体)について「抑圧という意味でも何も知ろうとしない」。》(p.27-28)

    《ラカンは、人間は「〈それ〉が彼について話す ça parle de lui」あるいは「〈それ〉が彼に差し向けられている ça s’addresse à lui」という契機においてはじめて自らを把握すると述べたが、精神病はこのような主体の謎めいた指し示しの現場をもっとも強烈な形で垣間見せてくれるのである。》(p.52)

    《(1)ラカンはその理論的変遷を通じて、絶えず鑑別診断の問題を再考しつづけた。
     (2)七〇年代に入ると、鑑別診断という問題そのものが相対化されていく。
     (3)現代ラカン派では鑑別診断的アプローチと非 - 鑑別診断的アプローチの両方が並走している。》(p.72)

    《精神病の発病初期の患者は、「何が起こったのか私にはわかりません。でも、確実に何かが起こっていて、とにかく不気味なのです」としばしば語る。このときに彼が述べているのは、世界のなかに何か謎めいた意味作用がある、ということである。そして彼は、それがどんな意味作用なのかはわからないにもかかわらず、その意味作用が重要なものであることだけは十分に理解している。》(p.139)

    《精神病の入り口にある動因の核心にあるもの……それは、人間に課せられるもののなかで最も困難なこと、……つまり「発言すること prendre la parole」と呼ばれるものです。つまり、自分自身の語りを為すということであって、これは隣人の語りに「はい、はい」と言う〔=同調する〕こととは正反対のことです。……臨床が示すところでは、……精神病が発病するのはまさにこの〔発言する〕瞬間なのです。》(p.157)

    《デリダにとって、抵抗が分析の終わりのなさとして残りつづけるかぎり、精神分析は——立木康介の優れた表現を借用するならば——「抵抗の関数」として存在することになる。それゆえ、さまざまな抵抗の数だけ、精神分析は複数的に存在することになるだろう。つまり精神分析は、抵抗の概念とともに、つねに他なるものへと開かれているのである。ここに、来るべき精神分析が到来する可能性が確保される。》(p.427)

    《ラカンは精神分析を科学化しようと何度も試みていたことが知られている。しかしミレールは、最晩年のラカンの目標は科学ではなくむしろ芸術であったと述べている。というのも、科学化とは、結局のところ現実界をシニフィアンに還元することであり、それは分析経験においてあらわれる特異的=単独的なものを消去してしまうからだ。反対に、特異的=単独的なものを扱うこと、あるいはデリダのように伝達不可能な真理を真理として扱うことによって、精神分析は決してアルゴリズムに還元されえないみずみずしい臨床であるとともに、芸術であることができる。おそらくこの二つの領域において、精神分析と脱構築のあいだの終わりなき対話が続けられていくことであろう。》(p.433-434)

  • ラカン入門として最適な本だと思う。
    ラカンの用いるわかりにくい概念が「鑑別診断」という切り口を与えることにより非常に整理された形で頭に入ってくる。
    ラカンを学び始める人はまずここからという一冊。

  • 精神病理学の専門家としての立場から、特に鑑別診断に焦点を当ててラカンを年代別に論じる。
    フロイトとの対応も詳細に解説し、ラカンはフロイトをどのように受け継いだのかもわかりやすい。
    また、ジャック=アラン・ミレールはじめ現代ラカン派の議論も適度に参照するとともに、ドゥルーズ=ガタリやデリダによる批判も検討している。
    さらに加えて、DSMに代表される現代の精神医学の方法論への痛烈な批判がしばしば見られる。

    本書の冒頭に書かれているように、ラカンは構造主義として、あるいはポストモダニストとしてしばしば批判の的にされるが、ラカンは常に自己の理論を刷新し続けており、どの批判もラカン理論の全貌を捉えられているとは言い難い。東浩紀『存在論的、郵便的』のいわゆる否定神学的ラカンは乗り越えられるし乗り越えられている。「結論」の末尾にもあるとおり、本書は「人はみな妄想する」時代の社会を見つめ直し続けるための前提を築いている。

  • 人はみな妄想する -ジャック・ラカンと鑑別診断の思想-

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著者プロフィール

松本 卓也(まつもと・たくや)
1983年高知県生まれ。高知大学医学部卒業、自治医科大学大学院医学研究科修了。博士(医学)。専門は精神病理学。現在、京都大学大学院人間・環境学研究科准教授。著書に『人はみな妄想する ジャック・ラカンと鑑別診断の思想』(青土社、2015年)、『発達障害の時代とラカン派精神分析』(共著、晃洋書房、2017年)、『創造と狂気の歴史 プラトンからドゥルーズまで』(講談社メチエ、2019年)、『心の病気ってなんだろう』(平凡社、2020年)など。訳書にヤニス・スタヴラカキス『ラカニアン・レフト ラカン派精神分析と政治理論』(共訳、岩波書店、2017年)がある。

「2020年 『現実界に向かって』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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