- Amazon.co.jp ・本 (272ページ)
- / ISBN・EAN: 9784794220042
作品紹介・あらすじ
書店に勤めながら読書することで小説家として大成したヘッセの読書論。古典文学の推奨リスト付き読書案内から何のために本を読むのかを考察するエッセイまで。
感想・レビュー・書評
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ヘッセの、本や読書に関するエッセイがおさめられたもの。国や時代の違いを面白く感じる部分もあり、共通点を見つけて嬉しく感じる部分もあり。世界文学文庫の章は、ヘッセが読破し自分のものとした本の量と質に脱帽。本の選択や本とのつきあい方は人それぞれとしつつも、ヘッセ自身は精神を高める読書に重きをおき、実用書や情報を得るための新聞は軽んじていたようだ。自分は精神を高める読み方に到達するにはまだまだだなと、本の世界の広さと深さを痛感した。
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ヘッセが100年前に書いた「書物の世界」と「世界文学リスト」より訳者がピックアップしたもの。生涯本を読み編集・出版したヘッセの本に対する愛が語られている。新聞を悪きものと捉え、ストーリーのある昔からの言葉を好む。
「人間が自然から送られて得たものではなく、自分自身の精神から作り出したたくさんの世界の中で、書物の世界は最も広汎で高い価値を持つのである」
また、書物を所蔵することも愛している。電子書籍の時代には、情報を取り入れることではなく、本を読むこと自体の価値に立ち返らされる。
「よい読者は誰でも本の愛好家である。───本を自分のものにして、くりかえし読み、所蔵して、いつも身近な手の届くところにおきたいと思うからである」
廃墟に関するような記述もある。日本の山で緑に覆われ風化した仏像は美しい。人間の作品から自然の産物へうつり、美しい不滅の作品に緩慢な死をもたらす。
この本は期間をおいて幾度か読むことで、その度に新しい発見と感銘を受けることだと思う。 -
【書物とのつきあい】(26歳)日常生活のあらゆる行為の本来の目的を意識する習慣(教養の基礎)を身につけた人が、読書で本質的な法則と判断を適用できる。自分がつきあう友人を尊重する人は本に対しても自主的で親しい関係を持つ。速読でなくゆっくり読むこと。
【本を読むことと所有すること】(31歳)著者と内心のつながりを持った本は手元に置き必要に応じて繰り返し読む。
【読書について】(43歳)読書の3段階。①思慮分別なく読む。本や作者の言うことを盲信。②本や作者を客観的に観察。③極めて自主的で本に対して完全に自由な立場。 -
★★★★
#ヘッセの読書術 #ヘッセ
読書好きにはたまらない1冊。読書術ではないけれど、ヘッセの読書に対する姿勢はさすがの一言。読書についての本は色々読んできましたが、その中でも抜群に良い。小手先のテクニックじゃ何も身につかんぞ、ということがひしひしと伝わってくる。
古今東西の書物数万冊を読破し、作家として大成したヘッセが教える、読書の楽しみ方とその意義。ヘッセの推奨する「文学リスト」付き。
“私たちが必ず読んでおかなければならない....ような本のリストなどは存在しないのである!けれども各個人にとって、まさにその人自身が読んで満足と楽しみを味わうことのできる書物はかなりたくさんある”
“私たちは書物をのべつまくなしに見境なく読んだり、あまりにも性急に、次から次へと度を超した速さで読むのではなく、受容能力のある都合のよい時間にゆっくりと楽しんで読まなくてはならない”
“書物に書きとめられたあらゆる時代の作家たちの思想と個性は、死者のものではなく、生き続けている、あくまで有機的な世界なのである”
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"世界文学文庫、世界文学リスト、この2編に出会えたのは私にとって良かったこと。
残された人生で、何冊読むことができるのだろう?" -
398円購入2018年11月4日
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「世界文学リスト」を見ただけでもその読書量に驚かされる。しかも「数万冊の本を読み、そのうちの多くを2,3度、そのうちの数冊は何度も読みました」とある。再読を滅多にしない者には耳が痛い。ヘッセは母国語であるドイツ語で書かれたものに幸せを感じたようだ。母国語(私にとっては日本語)で書かれたものをもっと大事にしたいし知り尽くしたい。母国のものは表面上の言語だけではなく、文章の襞の奥までわかる楽しさがある。ヘッセは翻訳ものを否定していない。ヘッセの詩や文は翻訳であっても好きだ。
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読書会を主宰していて思うことは、
いかに本を自分の血肉にしているかが重要だということ。
「徹底的に知っているものだけを、本当に自分のものにしたといえる」
深く読み込んでいる著書のシェアの中には、その本への愛と知恵の連想が多く感じられる。
読書は、成長するためにするのではなく
読書それ自体が楽しく、またその楽しむ過程において自然と身につく教養が人生を照らす光となる。
だから、楽しい読書をすればよいと思う。
楽しい読書を追求していけば、自然と高度な読書に辿り着く。
ヘルマン・ヘッセは、
多読よりも丁寧に読み込んでいくことこそが重要と説いていて、
それでも自身は数万冊の本を読んでいる。
改めて一冊一冊を噛み締めながら、
多読していこうと思った次第だ。 -
ヘッセにとって、生きることと読むことは同じだったのではないか。
全身(全心)で読むように生き、生きるように読んだのだと思う。
『ヘッセの読書術』は「読む」ことについてのエッセイ、
『シッダルタ』は「生きる」ことについての小説だけれど、
一方を、もう一方の比喩として読むことができる。
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「私たちが必ず読んでおかなければならない、それを読まなければ幸福にもなれない、人間形成もできないというような本のリストなど存在しないのである!けれども各個人にとって、まさにその人自身が読んで満足と楽しみを味わうことのできる書物はかなりたくさんある。このような書物を徐々に見つけ出して、持続的なつきあいをはじめ、できることならそれらをしだいに永続的に外面的にも内面的にも自分の所有物として獲得すること、それは各人自身の個人的な任務であって、その遂行をゆるがせにすると、必ず自分の教養と楽しみの領域を著しく狭くし、したがって自分の存在価値を一段と低下させることになる。」
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「そうなのだ!最後の段階の読者はもうまったく読者ではない。彼はゲーテを問題にしない。シェイクスピアを必要としない。最後の段階の読者はもうまったく何も読まない。何のために本があるのか?彼は何といっても自分の中に全世界をもっているのだから、本などいらないのだ。この段階にとどまりつづける者は、もう何も読まないであろう。ところがいつまでもこの段階にとどまる者はひとりもいないのである。けれどもこの段階をまったく知らない者は、やはり劣悪な、未熟な読者なのである。とりもなおさずこの世のすべての文学作品とすべての哲学書が自分の中にもあること、最もすぐれた詩人でさえ、私たち誰もがまさに自分の本性の中にもっているのと同じ源泉から作品を得たということを知らないからである。
生涯のうちにただ一度だけでも、一日、一時間だけでも第三の段階に、もう何も読まないという段階にとどまってみたまえ。そうすれば君はそのあとで(もとに戻るのはとても簡単なことである!)その前よりもずっとよい読者となり、書かれたものすべてをずっとよく読み取れる者になり解釈できる者になるであろう。路上の一つの石に、ゲーテと、トルストイと同じくらい重要な意味を見いだす段階に、一度でよいから立ってみたまえ。そうすれば君は、そのあとでゲーテ、トルストイなどの文人から、それまでよりも無限に多くの価値を、ずっと多くの汁と蜜をくみ出し、それまでよりもはるかに力強く生と君自身を肯定するようになるであろう。なぜならばゲーテの作品はゲーテではなく、ドストエフスキーの作品はドストエフスキーではなく、それらは自分自身をとりまく多声で多義の世界を作品の中に表現する作家の試み、彼のおぼつかない、そして決して完遂されたことのない試みにすぎないからである。」
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「あなたに認識や覚醒をもたらしてくれた詩人は、光でもなく、たいまつをかざす者でもありません。せいぜいそこを通って光が読者にとどくことのできる一つの窓にすぎません。そして彼の役目は、英雄精神とか、高邁な意欲とか、理想的な計画などとはまったく何の関係もありません。彼の役目はあくまでも窓であること、光の邪魔をしないこと、光に対して心を閉ざさないという点にあります。詩人が、比類なく崇高な男性に、人類の恩人になりたいという燃え立つような願望をもつならば、まさに、この願望が詩人の力を奪い、光が読者に届くのを妨げるということは、とてもよくありがちなことです。詩人を導き、そして駆り立てるものは、ことさらに謙虚さを目指して努力する態度でもあってはならず、光によせるひたむきな愛であり、現実に対する開かれた心であり、真なるものを透過させる心構えでなくてはなりません。」