外来種は本当に悪者か?: 新しい野生 THE NEW WILD

  • 草思社
3.60
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  • Amazon.co.jp ・本 (336ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784794222121

作品紹介・あらすじ

生態系を破壊しがちな外来種だが、実際には、環境になじめず死滅したり、定着して受粉や種子伝播を手助けしたり、イタドリやホテイアオイなど、人間が破壊した生態系を再生した例もある。著者は、孤軍奮闘する外来種の“活躍” 例を、世界中から集めた。「手つかずの自然」が失われている昨今、自然の摂理のもとで外来種が果たす役割を「新しい野生( ニュー・ワイルド)」としてあえて評価する。悲観論に陥りがちな地球環境問題に希望をもたらしてくれる作品。

感想・レビュー・書評

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  • (01)
    面白い、というのは、この本は大いに笑える(*02)という点で面白い。
    確かに邦題は煽りが過ぎている。悪者かどうか、という価値観に著者の主張がそれほど左右されているわけではない。この邦題は、原題の方にある副題"Why Invasive species will be nature's salvation"(外来種が自然界の救世主たりうるわけ)の反語表現にあたり、「新しい野生」"THE NEW WILD"には価値観は表明されているが、煽りはないといえるだろう。
    したがって、煽り文句の「悪者」に殊更反応する必要はないが、しかし、本来の副題からしても、そこには、西洋の自然や野生に対する価値観、あるいは本書においても言及されているようにキリスト教的価値観に与えたダーウィニズムの問題、そして、外来で侵略的でも救世主でもある「ジーザス」こそが、新しいエデンを創造するという宗教的な読み方まで含まれている。

    (02)
    シニカルな物語、という点で本書に多数収められた説話は、悲しくもあり、とりわけ、現場から遠く離れた島国(*03)から冷めて眺めれば、笑えもする。その点で、愉快な小噺集としても読めるだろう。
    それらの話が、現実か、科学か、捏造か、偏見か、という問題は、この分野に熱心に失心している世界のとある部分のごく少数の人類にとっては大いに問題ではあるが、さしずめ、大多数の人類にとって、この世界のこの野生は、まるでもともとの自然であり摂理(*04)であるかのようにさりげなく進行するので、真偽を論ずるまでもない。つまり、話が面白ければよいのであって、そこにある社会的問題や科学的問題は人類に関係がありはするが、関係ないものとして神視点から、話を楽しむことも可能だろう。

    (03)
    外来、というのが社会の問題であるのか、自然の問題であるのか、あるいは、有史以前の問題であるのか、歴史の問題であるのか、という視点で生態学、特に保護的な生態学の100年は進んだ。その100年でも世界では様々な外来種の侵攻や殲滅が進んでおり、実は、それより長いタイムスパンで、例えば1,000年、あるいは10,000年というスパンでも自然と思ってたものが、純でうぶな自然ではなく、社会に侵されたものであったという見解も本書では示されている。
    例えば、柳田國男の「雪国の春」は、椿という種を通じて社会に寄生した自然の萌芽がこの島国にも芽生えていたことを伝えてくれている。つまり、人類が対象としてきた自然は社会的でもあり、社会はいつも変幻自在の自然とともにあったことも本書の数々のエピソードから読み取ることができる。

    (04)
    生態系のシステム論としても、本書は入門的なテキストとなる。共進化という旧モデルに対する新モデルとして提唱されるエコロジカルフィッティングというメカニズムや、そこに見られる自己組織化と「行きあたりばったり」の種の戦略は、読んでいて痛快である。
    もちろん、「行きあたりばったり」で読者が連想するのは、レヴィ=ストロースが「野生の思考」で示したブリコラージュという思考機械である。この「行きあたりばったり」の言語学における展開(それは精密なものでなくても見の回りにもある方言や造語のような展開)も興味深いが、伝統的な建築における保存とは何か、生きられた家とは何か、という問題にも通じており、人類学、言語学、建築学からも読まれてみてもよい良書と言える。

  • 原題は"The New Wild"、「新しい野生」(邦題の副題)である。
    外来種に留まらず、生態学やその成立背景自体に斬り込んでいくような、ラジカルでスリリングな1冊。

    外来生物というと、とかく「悪者」というイメージが強い。
    しかし本当にそうだろうか?
    地球上の生物たちは、ごく単純なものから進化し、多種多様なものが生まれてきた。けれどもすべての種が生き残ってきたわけではない。環境に順応できず、うまく集団を維持できなかったものもいる。ある程度は適応していたが、ライバルとの競争に負け、次第に減っていったものもいる。気温や地形などの環境の急激な変化により、絶滅してしまったものもいる。
    地球が大きな環境変化を繰り返す中、生き残る運と力のあるものが生き延び、生物は連綿と続いてきた。
    火山灰に覆われ、あるいは氷に閉ざされ、あるいは隕石で一帯がなぎ払われ、すべてのものが死に絶えた後であっても、時が経てば、周囲から生物が入り込み、また生命活動が営まれるようになった。その際、やってくるものはすべて「新参者」=外来種だ。
    長いスパンで見たとき、「在来種」と「外来種」の違いはどれだけ明確にできるのか、いや、そもそもそんな区別はできないのではないか。その点がまず1つ本書の要である。

    外来種は生物多様性にとってマイナスであるという主張もよく見られるものである。
    著者はこれにも疑問を呈する。
    外来種はむしろ、生態系に多様性を生んできた。多様な植物が入り込むことで、その植物を餌にする他の動物も入り込み、生態系はより「豊か」になる。
    とかく侵略性の高い外来種が槍玉に挙げられるが、多くの場合、外来種はむしろ「平和裡」に入り込んでいる。フランス原産のスノードロップ、バルカン半島原産のセイヨウトチノキは、イギリスでは一般に在来種と思われているが、元は外来種である。

    しかし、そうはいってもものすごい勢いではびこる外来種はいるではないかという声も上がろう。
    これに対する著者の反論の柱は2つである。1つは、外来種の害を恣意的に水増しする傾向があること。もう1つは、外来種がはびこる環境は、そもそも環境自体に問題があることである。
    外来種の害は、往々にして、局地的である。一番被害の大きな部分をクローズアップして、その値を全地域に当てはめるといった乱暴な試算がなされがちだという。例えば、イギリスでは日本原産のイタドリは建物の基礎部分を破壊するとして忌み嫌われている。だが、実際に被害が出るほどイタドリが多いのは南部の町のごく限られた地域である。この地域では、家を建てる前に、敷地内にイタドリが見つかったら駆除しなければならないという決まりがある(よその地域にはない)。つまり、掛かる費用は実際の被害額というより予防対策費である。さらには、この地域の駆除費から、単純に比例計算して、プラスαを水増しし、イギリス全土の被害額を算出している。こうして実態よりも著しく多い額が被害額とされる。
    一方、外来種がはびこる環境は、そもそも環境自体がバランスを崩していることが多い。みんなが平和に仲良く暮らしていたところに1人の乱暴者がずかずか入り込んでやりたい放題やるわけではない。例えば都市部で、基盤の脆弱なところにたまたまその環境に適応しやすいものがわっと広がる。そうした場合は、その種が山野にまで広がっていくことは少ないという。場合によっては、「外来種」が、荒れた環境を豊かに戻すことに一役買うこともあるとも考えられる。

    人々の中には、「太古の自然」とか「手つかずの自然」という漠然としたイメージがあるが、これも実は根拠が薄い。
    アフリカのサバンナはいかにも大自然というイメージがあるが、著者によるとこれはごく最近生まれた風景である。19世紀までは、アフリカ大陸では広く放牧が行われ、これが経済的な基盤ともなっていた。19世紀終盤、列強の進出に伴って、牛疫ウイルスが持ち込まれた。ウシが全滅状態となり、飢饉が広がった。草を食べるウシがいなくなったため、草が生い茂り、灌木の茂みも出来た。そこへ、野生動物たちが戻ってきた。
    サバンナの風景は、太古からずっと続いてきたわけではなかったのである。

    著者は、外来種が実態以上に叩かれる原因として、よそ者排除の傾向を挙げている。移民を排斥しようとする意識と根は同じだ。「既得権益」を守ろうとする旧勢力。だが、歴史の長さに長短はあれ、所詮は皆、よそ者だったとしたら、いったい何を根拠に新参者を排除するのか。

    諸々を受け、著者の結論は、端的に、「自然に委ねよ」である。外来種を除こうと徒に努めることなく、自然の浄化作用に任せ、入るものは拒まず、バランスが落ち着くまで待てばよいではないか、というわけである。それこそが「新しい野生」になるだろう。
    無為無策に過ごせ、というわけではない。その心構えで当たれ、ということだろう。

    全般に非常におもしろく、説得力もあるとは感じたのだが、引っかかる点は2点。
    1つは、外来種排除派も極端だとするなら、著者の論もまた、都合のよい各論しか取り上げていないのではないかということ。
    もう1つは、無策ではないというが、ではどうするのかという具体的な提案が見えてこないこと。
    人の行き来が昔とは比べものにならないほど活発になり、それに伴い、移動する生物種も増える。急激すぎる外来種の蔓延はやはりあるのではないかと思う。人為的に生じた移動には、人為的な対策もある程度は必要ではないのか。

    とはいえ、外来種対策が一般にあまりうまくいっていないのは確かなように思われる。
    旧態依然の対策に一考を促す点で、本書の意義は大きいと思う。

  • 害獣や害虫、有害植物などと言われ、すっかり嫌われ者の「外来種」が、本当に悪い奴らなのかをとてもわかりやすく解説してくれている本。

    地球上にはもはや「手付かずの自然」などというものはない。自然はほっとけば勝手に再生する。外来種に滅ぼされそうになっている動物を何とか保護しようというのは人間の勝手。そもそも、「種の絶滅」とか言ってるのは人類が登場してからの話であり、それ以前にだって山のように消えていった種はあるはず。など、刺激たっぷり。

    生命は基本的に変化していくもので、外からの変化を取り入れて良い方に変化していくことが理想。それこそ「ニューワイルド」だ! 人間が勝手に自然を固定しようとしてもダメになるだけ。
    途中から人生や会社組織の話を聞いているみたい。守りに入って変化しなくなったら終わりというのは、生命体としてすでにプログラムされていることだから、逃げられないんだと思ってしまった。

  • そもそも、この本が『外来生物=悪者』説の反論として主張している点が間違っている。どんな環境においても、生物の多様性が高いほど良いというのは生物多様性の意味を全く理解していない。なぜなら、生物が長い時間をかけて生息地に適応し、独自に進化したことこそが多様性の源だからだ。他地域の外来種が増えることは、大きな範囲で見れば 同じ種が繁栄することにより、生物の多様性を低下させている。
    大げさに言えば、北極には北極の、熱帯には熱帯の生物が生息するからこそ、人間社会においても独自の文化が発展するのだ。この説の行き着くところは、単一的かつ統一的な世界である。
    しかし、このような議論が活発になるきっかになった事実は高く評価したい。

  • 賛否両論の一冊。環境保護において、外来種の侵入といえば、悪い印象を持たれることがほとんどである。しかし、著者は、はたして本当にそうなのかと疑問を投げかける。まず、在来種に重大な影響を与える外来種があるのは事実だが、それは、たくさんの外来種のうちの一部であるという。例えばハワイ諸島では、花を咲かせる植物1500種のうち、1000種を越えるものが外来種であり、絶滅が確認された在来種は71種だとされる。つまり、絶滅した在来種を越える数の外来種が侵入することで、その環境の生物種はむしろ増えているというのである。続いて、在来種が外来種に追いやられたように見える事例でも、実はすでに環境が悪化して在来種が少なくなっており、そこに外来種が適応しただけという場合があるという。アフリカのヴィクトリア湖では、外来魚ナイルパーチにより、在来魚シクリッド500種の半分が絶滅させられたといわれる。しかし、もしかすると最大の原因は水質汚染の方だった可能性がある。むしろ外来種は、アメリカのエリー湖に侵入したイガイのように水質向上に資することもあるというのだ。著者の主張はいたって明快である。外来種の侵入はなんら不自然なことではない。いっそ外来種の絶え間ない侵入こそが自然なのである。「大きな時間の流れのなかでは、そもそも在来種が存在しない。」太古の自然、手つかずの無垢な自然など現在の幻想でしかない。「自然はぜったいに後戻りしない。前進するのみ。たえず更新される自然に、外来種はいちはやく乗り込み、定着する。彼らの侵入は私たちにとって不都合なこともあるが、自然はそうやって再野生化を進行させている。」著者は多くの事例をあげて、自分たちがもつ、受け身でかよわいものとしての「オールド・ワイルド」な自然観を、ダイナミックでやる気満々な「ニュー・ワイルド」へ転換する必要を説く。無批判に信じられてきた自然観に一石を投じる一冊。ただし、すでに多くの識者が批判しているよう、本書には致命的な誤解も多いとされる。下記の書評が非常に参考になるので、合わせて一読を勧めたい。

    『この著者は「そもそも生き物がそんなに好きではないのでは?」』
    湿地帯中毒(http://d.hatena.ne.jp/OIKAWAMARU/20160919/p1

  • まず、生態学の非科学的実態に驚かされる。
    外来種の問題についてはもっと科学的データに基づいて冷静に議論すべきである。
    外来種とは何で、在来種をなぜ守るべきなのか。感情を排して議論しなければ、教条主義的な態度と言われても仕方ないであろう。
    自然は常に変動し、正しい状態などない!
    ただし、植物はある程度放置でいいのかもしれないが、ペットを飼いきれなくなっては放出する行為は許されないと思う。何を持って許される範囲とするかは難しい。
    絶滅危惧種を人間の力で無理やり自然をいじってまで維持するのは、労力とお金の無駄であろう。福祉等、もっと優先すべき資源の配分先がある。

  • 自然は劇的に変わるタイミングを待っている、外来種が入ってきていつのまにか消えることもある、などなど今まで自分にはなかったものの考え方でおもしろかった。しかし、これだけ例を並べられてもやはり、身近でヒメマスがブラックバスに駆逐されていたら外来種が憎いと思う。自分の考えはなかなか変わらないものだと実感した一冊。。。

  • よかった。グローバル化に関心があったから購入。確かにブラックバスなど外来種は悪という価値観はあった。でも言われてみればと思う感じ。事例が述べてあって疲れたけど、一つの意見。まだ何が正しいのかわからないけど、恐竜の時代とか考えても、長いスパンでみれば、この考え方は正しいのかなとは思う。人間も含め絶滅した後にまた新しい種も出てくるだろう。おもしろかった。

  • 「手付かずの自然」などない。
    これが分かっただけでも価値がある。
    本当にワクワクする知的好奇心が刺激される良書。

  • ・生態系を乱す悪役とされがちな外来種は、実は生態系を多様化させ、荒れた自然を回復させる立役者にもなりうる。
    ・外来種駆除の根拠としてよく挙げられる数値は、出典をたどると怪しいものも多い。論文生産の動機の時点で強いバイアスがかかっている。例:外来種によって発生するコストは年間1兆4000億ドル
    ・生物は特定の生態系の文脈の中でのみ適切な役割を果たすわけではなく、個々にその場で必要な進化を遂げているだけ。ダイナミズム。
    ・固定された原始の自然なるものは存在しない。いま我々が手つかずの自然と考えている風景も、多くは人間の介入により作られている。

    自然科学の本にむやみと寓話を読み取るのは慎むべきだが、社会や文化の在り方にも通じるものがありそうだ。

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著者プロフィール

フレッド・ピアス(Fred Pearce)
ジャーナリスト。環境問題や科学、開発をテーマに20年以上、85カ国を取材。1992年から『ニュー・サイエンティスト』誌の環境・開発コンサルタントを務めるほか、『ガーディアン』誌などで執筆、テレビやラジオのコメンテーターとしても活躍する。2011年には長年の貢献に対しAssociation of British Science Writers から表彰を受けた。著書に『水の未来』(日経BP)、『地球最後の世代』(NHK出版)、『地球は復讐する』『緑の戦士たち』(いずれも草思社)ほか多数。『地球は復讐する』は23カ国語に翻訳され世界中に大きな影響を与えた。

「2019年 『文庫 外来種は本当に悪者か?』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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