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  • Amazon.co.jp ・本 (254ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784794806918

作品紹介・あらすじ

未来を生み出す時間が脅かされている。今、「文明国」に果てしなく蔓延する「象徴の貧困」。それはすべての人々にとって逃れることのできない問題である。現代の特殊性をもたらした歴史的傾向を理解するために、本書は一般器官学organologie g'en'eraleと感性の系譜学g'en'ealogie de l'esth'etiqueという概念の輪郭を大まかに示している。

感想・レビュー・書評

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  • 記憶を頼りに書いてみるぜ!シリーズ

    極右政党のルペンは移民排斥運動や人種差別を掲げているにも関わらず、200x第一回大領選にて1位のシラク大統領に、衝撃の僅差で2位で通過した。また33歳の男がリアリティを喪失して市議会委員を複数名銃殺する事件があった(日本で言えば秋葉原の事件が思い出される)。フランスでのこの事件は象徴の貧困によって引き起こされた(と言い得る)とスティグレールは語っている。

    なぜこのような事件が起きたのかというより、こういう事件を引き起こさないためにはどうすればよいのか?という一つの回答を彼は提出していると言える。

    上記の意味で他者性を欠いた人とはどのような人であるのか。ハイパーインダストリアルな時代により、マーケティングの攻撃に常時晒されており、『ファイトクラブ』じゃないが、われわれは欲しくもないものを欲しいと思わされている。こうして商品は売れるようになるのだが、本当に自分が欲しいと思う内発的な欲望そのものが否定される。こうしたい!という自分が失われていき、やがてリアリティを喪失する。

    確かにそれは同一の意見を持ち合わせた集団とも言える。「みんな」だ。しかし自己を喪失した精神的には貧しい存在であり、苦しい生き方であり、差異を排除した不安定な(実は!)存在である。いいだろう、特異な人間は排除されるのであるのはいいとして、では、彼らになんと言ったらよいのか?「僕たち<みんな>は君のような人間を受け入れる気はありません。どこかへ行ってください」。 Q.どうする? A.「どこかへ行く or鬱積して爆発する」。 Q.爆発するならば? A.「自分へ向かう=自殺 or 他者へ向かう=殺人」。異国の地なんて簡単に移れるものではないことは明らかだろう。ならば多くは爆発するしかない。排除とは局所的には安全に見えて、不満分子が危険信号を発しながら抱え込んでいる不安定な状態だ。

    差異そのものを組み込んで、不満分子を排除することなくむしろ包接して発展のエネルギーとする。特異な自分にも開かれた共同体こそ選び取るべきではないか。硬直せずに柔軟に変容してみせる<われわれ>が作り上げる共同体だ。西洋の個人主義の伝統から言えば特異性を持ちつつ、話し合い、その上で個を超えた集団としての「われわれ」を実現するということ。さらに言えば、その特異な個はアリストテレスの言う「フィリア」によって結びつく。その根底にあるのは正義の不在としての不正を恥じる気持ち=正義の感情と、あるべき状態になっていないことの恥の感情(これは違うかも。なんだっけな。ちょっと思い出せない。)である。これが個でありながら、それを越出て一つになろうとするダイナミズムこそ西洋の原動力ではないかと。

    しかしその個と<われわれ>は産業に押し付けられることで二つは切断される。個というものは産業に応じて頂かなければということ。ベクトルの向きが逆向きになる。特異な行動もすぐにデータベースに入れてモデル化させて、特殊なもの、フェティッシュなものにさせて頂きますという具合。

    どうするか。

    産業的なものを葬り去ることは現実的ではない。葬るというよりもむしろそれを力として捉えて、「政治」を対抗させる。さらにテレビには映画で対抗する。芸術は馴染みの感性からの逸脱性を秘めているので産業に対する武器になる。ポジションとディスポジション、シンクロとディアクロのせめぎ合いが進歩を生み出すというわけだ。

    そして現実レベルの主張をまとめるとこういうことになる。弱者の痛みに配慮せよ。弱者は排除するのではなく、むしろ参加させよ。こうして<われわれ>による意義ある共同体が作り上げられる。産業的なものの視野狭窄や感性の被支配や欲望の搾取に関しては破壊するのではなく、<われわれ>の政治と特異性の教育としての芸術によって相克せよ。こうして象徴の貧困に豊かさを取り戻せ。

    すごくマルクスな感じがしました。敵はブルジョワではなく、産業と技術が結託したシステムになりました。また革命の主体はプロレタリアート(今ならばプレカリアート)の金の貧しい人達ではなく、感性を搾取された象徴の貧困者たる人達になりました。そういう感じですね。そして、連帯せよ!象徴の貧困者!ですね。

  • [ 内容 ]
    未来を生み出す時間が脅かされている。
    今、「文明国」に果てしなく蔓延する「象徴の貧困」。
    それはすべての人々にとって逃れることのできない問題である。
    現代の特殊性をもたらした歴史的傾向を理解するために、本書は一般器官学organologie g´en´eraleと感性の系譜学g´en´ealogie de l’esth´etiqueという概念の輪郭を大まかに示している。

    [ 目次 ]
    第1章 象徴の貧困、情動のコントロール、そしてそれらがもたらす恥の感情について(感性と政治;消費時代における象徴的なもの―グローバルな象徴の貧困;情動のコントロールと戦争)
    第2章 あたかも「われわれ」が欠けているかのようにあるいは、武器をアラン・レネの『みんなその歌を知っている』からいかに求めるか(生きづらさと敬意;感性と治安の悪化 ほか)
    第3章 蟻塚の寓話 ハイパーインダストリアル時代における固体化(個の歪みとハイパーインダストリアル時代における固体化の衰退;個と機械 ほか)
    第4章 ティレシアスと時間の戦争 ベルトラン・ボネロの映画をめぐって(シネマトグラフ;人を盲目にする像という悪夢 ほか)

    [ 問題提起 ]


    [ 結論 ]


    [ コメント ]


    [ 読了した日 ]

  • 人間であることが恥ずかしいという思いを、われわれは全く取るに足らないような状況でも感じることがあります。たとえばあまりに低俗なものの考えに出会ったり、バラエティ番組を見たり、大臣の演説を聞いたり、「鈍い楽天家」の言葉を聞いたりしたときです。恥とは哲学をするためのもっとも強力な動機のひとつであり、それによって哲学は必然的に政治哲学となるのです。(p46)

    マーケティングは今や社会のコントロールの道具である。(p47)

    国際的対立の空間としての経済はルールなき戦争と化し、そこでは民間人と軍人の見分けはつかず、いつでも破棄できる契約が法に取って代わり、不正行為が横行している。そこでの武器は根本的に進化し、その結果この戦争は本質的に感性に関わる戦争となった。この感性的な戦争は軍事的戦争、宗教的戦争、民族間あるいは国家間の戦争を妨げないばかりか、明らかにそれを導き、それらを予告するものである。感性的戦争とは、同時に、そして何より、時間の戦争である。この戦争こそドゥルーズがコントロール社会と名付けたことの核心なのだ、コントロール社会とは、ここではまず情動の(すなわち時間、自己触発の)コントロールとして構想されるのだから。(p47)

    第二次大戦後、意識は自由に使える(ただし無尽蔵ではない)資源として、すなわちひとつの商品として広告会社に狙われました。それは「発展」の条件そのものです。そして変わりやすさそのものである動機を総動員する際に、時間的な商品がこれに勝るもののない武器となるのです。なぜならそれは意識の時間と完璧にそして大量に絡み合うからです。(p87)

    しかし無意識とはコントロールできるものではないので、コントロール社会とはあらたなタイプの検閲社会となり、それは不可避的に欲動の噴出を招くことになるでしょう。それに先立って無数の代償の言説があるとしても、ほとんど口先だけの慰めにすぎません。そこで問題なのは恐れることでも、期待することでもなく、「あらたな武器を探すこと」であり、つまりは闘わねばならないのです。どんなにわれわれが臆病であったとしても。(p139)

    数学だけでなく、あらゆる思想は感性的なものである。いつでも、概念の起源にはなんらかの情動がある。そのことを私は『現勢化』の中で示そうとした。言い換えれば、私は、単にドゥルーズを猿真似し、スピノザをおうむ返しに繰り返さねばと思ったことなど一度もないのだ、そもそも彼らの本をまだ読んだことないときに、無数のさまざまな情動によって、私の思想の最初の概念がもたらされたのだから。(p188)

    20世紀における重大事件のひとつが、ビバップとモダンジャズの創始者であるチャーリー・パーカーの音楽と、そこでの録音とサクソフォンを連携した使い方であると主張したのだ。チャーリー・パーカーは他者の音楽の録音を何度も聞いては、それをもとに新しい音楽を作っていったのであり、ジャズはよく言われるように「楽譜なしの即興」の産物ではなく、楽譜というテキストに代わる録音という「技術」がジャズという音楽を可能にした。(p233注)

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著者プロフィール

(Bernard Stiegler)
1952年生まれ。国際哲学コレージュ(Collège international de philosophie)のプログラム・ディレクター、コンピエーニュ工科大学教授を務めたのち、フランス国立図書館、国立視聴覚研究所(INA)副所長、音響・音楽研究所(IRCAM)所長、ポンピドゥー・センター文化開発部長を歴任。現在、リサーチ&イノベーション研究所(IRI)所長。文化資源のIT化国家プロジェクトの中核を担い、技術と人間との関係を根源的に問う、ポスト構造主義以後の代表的哲学者。本書『技術と時間』(現在第3巻まで刊行)はOpus Magnum(主著)とされる。『テレビのエコーグラフィー』(デリダとの共著、NTT出版)、『象徴の貧困1』『愛するということ』『現勢化』『偶有からの哲学』(以上、新評論)など、邦訳書も多数ある。

「2013年 『技術と時間 3』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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