虚構の「近代」―科学人類学は警告する

制作 : Bruno Latour  川村 久美子 
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レビュー : 4
  • Amazon.co.jp ・本 (324ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784794807595

感想・レビュー・書評

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  • この本の主題について、平たく言えば、「専門家だけのタコツボ社会では、自然・社会・人文の各分野にまたがるハイブリッドな問題を解決できないから、モノを中心にすえて、みなで語り合おう」ということじゃないかと思う。専門家社会を作り出すのは「近代」の特徴なんだけど、ヨーロッパだって、かつて「近代」であったことはないので、思想や哲学で「近代」に自縄自縛されてはならない。むしろ、人やモノを結びつけ、人やモノのネットワークをつなぎなおす「準-モノ」(ラグビーのボールなど)に注目して、モノの中央王国を直視しなくてはならないとする。まあ、アクター・ネットワークというのはこういうことなのだろう。
     西洋人が「近代」を疑問視して、「モノ」に期待するのは分かるんだが、「モノ」はそれ事態発言をしないから、モノの解釈権をめぐって闘争することも起こりうるんじゃないかな。古代中国の官僚が天変にことよせて、政敵を批判するようなことである。ラトゥールは科学人類学に可能性をみとめているけど、非近代社会がハイブリッドの増殖を食い止めているシステムについては語っていない。要するに、聖化してタブーにするのであろうが、詳細がほしい。

  • 原題は『我々が近代人だったことはなどない---対称性人類学による試論』。近代がなかったことがテーマであるから近代を理解していないと内容がわかるはずがなく、それこそは本当に近代人だったことがないということを理解している証拠なのかもしれない。50年前のコリン・ウィルソンの科学批判が何にそんなに憤ってまわりくどくしつこいのかわからないので無駄に難解に感じるのに似ている印象。

    ゲーテがニュートン光学について自然を実験室に隔離して分離するなんてけしからんと憤慨して、晩年に西洋思想史を色彩調和理論に総括したようなことをこの著作が目指していると理解した。そもそも人類が万物の根源について考え始めた頃から哲学と科学は宗教から産み落とされた仲の悪い兄弟のように争ってばかりいる。

    宗教の影響を受けない超越的「自然」は実験室でつくりだされたこと、そのなかで「社会」という概念を市民間の契約のみでつくりだしたこと、その果てに「科学」の名のもとに神を不在としたこと。こうした自我を抽象して理論的に創作してきた近代は、人間を包括しえないのだから近代人であった事実など思い込みにすぎない。このまま直線的な垂れ流し発想でいけばお互いを滅亡させあって地球を破壊してしまうから、全体のバランスを対称的に見る発想で科学を人類学の対象として検証する、こんな考え方はどうですか?って内容みたい。

  • 2010/12/06
    from TUFS library

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