- Amazon.co.jp ・本 (215ページ)
- / ISBN・EAN: 9784794912640
感想・レビュー・書評
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マゾッホとサド
(和書)2009年05月01日 20:49
1998 晶文社 ジル・ドゥルーズ, 蓮實 重彦
ジル・ドゥルーズの作品を読むと、啓蒙と韜晦(カントの言うコペルニクス的転回)について考えてしまう。ドゥルーズの文章の捕らえ所のなさについて蓮実重彦は思想にならないために作者が意図的にしていると書いてある。柄谷行人は有益且不可欠な理念はある、それは統整的理念であると書いている。私には思想と理念の区別がつかない。ただカントの啓蒙ということでは思想も理念も必要なことではないかと思う。自分で考えることとはどういうことか?ドゥルーズと柄谷行人を簡単に比較すると考えやすいのは柄谷行人だろうと思う。そういう意味で柄谷行人は啓蒙主義者だろうと思う。ドゥルーズは何がしたいんだか分からん。ただ読者がここから自由に発展させていくことはできるだろうから、そういう意味で自由はあると思う。
サドとマゾッホが対立というか決して相互依存的であるわけではないと書いてありなかなか面白かった詳細をみるコメント0件をすべて表示 -
本書でドゥルーズもラカンに忠実に理解しているとおり、近代において、法とは抑圧された欲望の別名である。空虚な形式としての法=欲望は、具体的な内実を与えられたと思った瞬間、その場から姿を消すのであり、法=欲望はつねに欠落を穿たれたままに留まり、新たな内実を求めて彷徨する。それはある意味で資本主義の作動様式そのものでもあるが、その検討は『アンチ・オイディプス』に結実するだろう。本書では、この空虚な形式としての法に、理念としてのコミューンが対置され、そして脱エディプス的な人間の創造が、「単為生殖」なる概念を通して模索される。言い換えれば、倒錯者において欲望は欠如を知らないのであり、「欲望は欠如を持たない連続的過程である」という主張が『千のプラトー』において全面的に展開され、マゾッホは苦痛を用いて欲望の内在平面を創造する「調教の公理」の使い手として賞賛されることになるだろう。
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ユーモアとイロニー、各々の方法論に関する鮮やかな説明に大変感銘をうけた。様々な議論の在りようをうまく整理することができるものだとおもった。いずれ文体論として再検討したいのと、精神分析をもっとしっかり学んでから読み返したい。
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[ 内容 ]
マゾヒズムはサディズムの裏返しではない―。
不当に歪められた作家マゾッホの独創性とすぐれた現代性を証すフランス思想の巨星ドゥルーズの名著。
[ 目次 ]
サド、マゾッホ、そして二人の言語
描写の役割
サドとマゾッホの相互補足性の限界
マゾッホと三人の女性
父親と母親
マゾッホの小説技法の要素
法、ユーモア、そしてイロニー
契約から儀式へ
精神分析学
死の本能とは何か?
サディスムの超自我とマゾヒスムの自我
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[ 関連図書 ]
[ 参考となる書評 ] -
訳者あとがきから言葉を借りれば、「ある二つの概念なり要素なりが対置されるとき、人は、それが対置されうる条件そのものを凝視することなく、そこに融合とか、否定とか、超克とかいった手続きを読みとらずにはいられない」のである。
特にマゾヒスムとサディスムの場合、相互補完する状況が容易に想定しうるので、そういった偏向は一層顕著なんでしょう。
この本でドゥルーズはその相互補完性の限界を、記号学や精神分析をベースに臨床医学を絡めながら、言葉自体が一人歩きしている現状から今一度マゾッホとサドのテクストに立ち戻って論じます。
正直言うと精神分析の絡む章はほとんど理解できなかったので、フロイト読んでから出直してきます 笑。歴史の不可逆性を思い知らされる…orz -
マゾッホ論。蓮實重彦大先生が翻訳してらっしゃいますが、
心底馬鹿にされている気がします。
ただ、内容自体はとても興味深いです。 -
マゾvsサドという話ではない