子どものからだとことば (犀の本)

著者 :
  • 晶文社
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  • Amazon.co.jp ・本 (191ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784794945273

感想・レビュー・書評

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  • 障害のある子どもたちの言語療育に携わる仕事をする中で、ある本で紹介されていて手に取りました。

    竹内敏晴さんの本は何冊目かになりますが、この仕事を始めてから読むのは初めてでした。

    竹内さんのレッスンに参加してみたかった、竹内さんが人の身体のメッセージをどう読むのか、この目で一度見てみたかった、と思います。

    私は私の身体の声を聞けているだろうか?社会の中の有能なパーツになろうとする努力の中で、見ない聞かない感じない、と身体を感覚を抑圧し過ぎていないだろうか?

    私は子どもたちの身体の声を捉えることが、少しでもできているんだろうか?

    できていないなら、ここからどこへ向かっていけばよいのだろう…というようなことを考えながら読みました。

    竹内敏晴さんの本は、難しい言葉を使わず、短い文で、本質に触れていきます。

    最後の章で、竹内さん自身の、社会的自己と内的な自分の齟齬について述べられていて、竹内さんも考え、迷い、答えの無い中を歩んでおられたんだなぁと、僭越ながら私のなかにあるものと同じ質を感じました。

    竹内さんは、そこでは、(聴覚)障がいのあるものとして…という書き方をされていますが、それは障がいに由来するものなのか、内面世界に深く気づいている内向的な気質のあることに由来するのか、どちらなのだろう…という風にも感じました。

  • [ 内容 ]


    [ 目次 ]


    [ 問題提起 ]


    [ 結論 ]


    [ コメント ]


    [ 読了した日 ]

  • この人のみる世界の角度で存立したい。
    自我の分離要因は、「場」や「役割」によるところが大きい。
    主体として、保つのは、それを守るのは自分だけ。
    「ねば」や「期待」はいらない。無理なものは無理。
    感覚に、素直に。肩の力を抜いて!

    ▼以下引用

    子どもにとって一つのことばとは社会交換性、効用性によって限定されぬ、独立する「もの」である。

    大人式に明確な発音を、社会的に成立している言語として聞き分けるというやり方をする以前に、お互いが表現したいものを子ども同士で了解するさまざまな回路がある

    こどもだからこそよく「写す」のです。動き全体がまるごとこっちのからだに写ってくるので、身ぶり手振りをいちいち記憶してゆくわけではない。

    ユングがアフリカに行った時、黒人たちは他人の感情を理解することに非常に敏感であると書いている。かれらはみごとに相手のまねをする。まねをしたとたんに、その人の気持ちや言いたいことがわかってしまう。そういう理解の仕方であるらしい。

    他人の体つきをまね、他人のコトバの調子をまねるということも同じ過程ではないだろうか。身ぶりをもってその相手の人のからだをなぞる、それによって相手の全体像を自分に現出させる。

    近頃は、泣く子に向かって、「泣いてばかりいてはわからないから、ちゃんと話しなさい」という人が多いけれども、ちゃんとことばで喋れるものなら、もともと泣きはしないのだ。

    子どもが、ことばではなくて、からだで語っていることが、理解できなくなっているんです。

    子どものセキは明らかに、自分のからだの中に受け入れられないものを吐き出すというアクションです。

    セキをした少年は、ただイヤだという気持ちを表現したのではなく、むしろ同じ気持ちになってほしいと訴えたと考えることができる。

    ★断絶を埋めるために。言語としての話しことばのみに頼るということになる。これかかの少年にとっては拒絶されたこと、むしろもっと強く言えば裏切りにほかならない

    ある言語障害の子どもが、精神療法を受け、だんだん回復してきた時期にに、教室でやたらにけしゴムを他人に投げつけて教師を困らせたが、やがてことばをしゃべり始めた。明らかにこれは他人に対して主体的にコミュニケートしていくだけの力をその子が持ち出したということ。

    攻撃現象が見誤られたり拒否されたら、子どもは絶望して、爪を噛む、「頭を抱える、黙りこむということになる。

    ことばを獲得するということは、決して発音の問題ではなくて、からだの中に動くものと、発せられる音との間に、ある人間的な感覚を橋渡しとして有機的に統合するという、非常に精密な作業である

    教授なんかだったらお手上げです。文字をみたとたんに、そこから意味をとろうとする。

    話しことばというものは、呼吸、声の響き、からだの動き、そこから生まれてくるリズムと一つになって、初めて意味もまた十全な姿を現してくる

    活字というものに操られていた子どもたちが初めて自分から操った。

    子どもは、たやすく互いの生理状態に感染し同化してしまう。いわば共生態としての、自他未分化のからだでいる。

    余計な力みが流れ去ってしまったかのように、ようやく、かれは相手に、何度か、素直に話しかけた。虚勢も気後れも消えていた。瞳が相手にまっすぐに向かい、声が深い、ひろがりをもって動いた。

    主体としての人間のからだが、主体としての他者のからだに出会って、ひきつけられたり、気まずさを感じたり、向かい合うときには恥ずかしいが、肩を寄せて並べばほっとする相手だときづく。

    日常と違う自己がむき出しになるだろう境界線に近付くと、かれらの防衛は頑強になる。かれらは他者のための存在であり、自己が自己として現れるのを恐れるかのようだ。

    青年たちの、身構えるからだの緊張は激しい。だが、それが破れて、なまなましい生の愛着がほとばしるとき、それはなにもにもかえがたく深い。いわゆる「荒れる」とは、動乱するからだが、自己を受け止め、支えてくれ、共に生きてくれる人間を求めての、激しい、かつ不器用な呼びかけである。かれらはその呼びかけに答えてくれるもの、拒むもの、逃げる者を鋭敏にかぎわける。そこには真の人間的なるものへの渇望がある。

    それからその日他人の目が見られたんですね。他人の前にいてもゆったりできたんです。

    体操にしろ、踊りにしろ、音楽にしろ、ということは当然朗読や歌にも及ぶことだが、こう動くべきものという規範がないと先に全く動けない。規範通りにいかにうまくやるかが表現だとすれば、からだの解放ではなく、閉じ込め。

    緊張のときほぐしと、感じるままに動けることの2つが満たされたとき、からだは他者へ至ろうとする試みへとはっきり出発しうる。

    人と人との出会いとは、本来、非日常の深い次元においてのみ、真に成り立ちうる。生の充満。

    現代社会は意識が身体各部をコントロールすることのみを「教育」として、青少年に押し付けている。手が出る体が回復され、両者の統合が図られない限りこどものからだは荒れ、閉じ、やがて死ぬ。

    声がふれない時、人は話しことばの文の内容は理解するが、受け入れ、納得はしない。

    私たちの祖先は他人のことばを聞き分けるまことに鋭い感受性を持っていた。あの人のことばは、「胸に沁みた」と言い、「腹にこたえた」と言う。親の意見は時に「耳に痛い」し、「あたたかいことば」と「冷たい声」もある。

    ワカルはワケルと同根のことばで、物や事をほかの物事から切り離してみること、またその物や事をいくつかに分割して理解してゆくこと、を意味するだろう。それは共感したり、同化したり、それによって動かされるといった心の動きとは別の次元のことばなのである。

    自閉する児童は、いったんふれてみると、内には熱いものがいっぱいわき立っていて「ひと」を求めてあふれ出してくる。

    懸命に発語しているその音声がカンタンに聞き取れないと、すぐ部品を挿入するように外から、いわゆる明瞭な発音を教え込もうとする。ことばはその時、人間として他者へ差し出される表現ではなく、社会に流通する通貨としてのみ認識される。

    他者へ向かい、学ぶ、想像力がいる。

    人と人が出会うとはどういうことなのだろうかということを、私はここ数年考え続けています。立っている次元が違っていたら、人は絶対に出会うことはない。それに苦しみ傷つくのはいつも深いほうの次元にいる人であって、浅い次元の人は、人間として触れ合えていないことさえ気付かず、のんきに、たとえばしゃべりつづけている。他者と同じ次元に立つために、人はどれだけのものを、たとえば常識とか思惑とか、その他さまざまなものを捨てなければならないか。

    情念の表現とも縁を切って、たとえば習慣、儀礼、あるいは事務的な情報の交換に化してしまった時、つまり制度としてのことばでしかなくなったとき、確かにことばは発音されているけれども、主体としてのからだの真の表現では既になくなってしまっている。

    症状と呼ばれる現れを、医師は病い、欠陥とみる。しかし私にとってはそれはまず、その人のいきざまとして立ち現われる。

    変ろうとあせらなくなった時、人は変わり始める。今の自分を受け入れること、そこにしか生きるはない。

    ことばを獲得することで、人は人間らしくなるという強烈な西欧的人間観

    からだの奥深くから眠っていた感覚が呼び覚まされて来、それが今まで別の次元で感得されてきたいくつかの印象とふれあい重なり、ひとつのコトバとして結晶する。

    サリバンが与えた文化をヘレンはそのまま受け入れない。だが他者との関係に基づく関係をつくりだすものとして、気付き、そして自らの意志で生活に取り入れた。

    この取っ組み合いが、結局は教育上必要なもの、正しいことと確信してやりぬいたわけでない。今は力を尽くして立ち向かうしか、人間として向かい合う方法をもたぬ自分を必死になって支え続けているだけ。

    商業的な演劇が保証する、自らは侵害されない安全無害な感動

    一生懸命と集中力は別

    一生懸命に集中しようとしているのが、ただそれにとらわれているだけのことがある

    他者適応過剰型。

    いろんなものへの身構えをとる。だんだん他人目から強制されている礼儀とか恐怖から解き放たれ、自分のからだと心の感じることに正直になる。

    甘やかさないというのは、いまの企業社会の論理にいかに適応するかということになっている

    今日はもうじゅぎょうできまへん、といいぶっ倒れた。言葉も標準語を使うようになった。

    教師と言うのは教師だからちゃんと教えないといけない教師だからこうしないといけないということにがんじがらめになっている。

    ほんとうにこどもが求めているのはそういうことなんだろうか、こどもがこちらにつきあってくれるのではないか。

    変わりたい、変えてもらえるだろう。かれらは今から逃げたがっている。

  • 本館図書書庫琉大(和) 371.45

  • この本を手にとったきっかけは2つ。ひとつは、幼少期の子どもと触れ合う仕事に携わるようになったこと。もうひとつは、最近こころとからだを見つめ直したいとボイストレーニングに通いはじめたこと。自分の軸を頭と身体両方の観点から考え直したい方には良書です。(大将)

  • 目からウロコがバリバリ剥がれ落ちる。
    (07.10.20)

  • 分類=からだ・竹内敏晴。83年1月。

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著者プロフィール

1925年、東京に生まれる。東京大学文学部卒業。劇団ぶどうの会、代々木小劇場を経て、竹内演劇研究所を主宰。宮城教育大学、南山短期大学などで独自の人間教育に携わる。その後「からだとことばのレッスン」を創造・実践し現在に至る。著書に『ことばが劈かれるとき』(ちくま文庫)、『「からだ」と「ことば」のレッスン』(講談社現代新書)、『からだ・演劇・教育』(岩波新書)、『癒える力』(晶文社)、『竹内レッスン』(春風社)、『声が生まれる』(中公新書)などがある。

「2007年 『生きることのレッスン』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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