思想する「からだ」

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  • 晶文社
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  • Amazon.co.jp ・本 (238ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784794964861

作品紹介・あらすじ

からだを知ること。それは自らと出会い、人と出会うこと。本当のコミュニケーションとは何か。この十年の思索と実践のすべて。

感想・レビュー・書評

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  • ・ランランランとリズムに身をまかせるのは楽しいが、それは外から与えられたリズムに過ぎない。

    ・人は、ことばを、他者にふれるために、発しはしない、ほとんど、ふれないために、身を隠すために用いるのだ。

  •  演出家で障害児の指導もする竹内先生の本。内田樹さんの紹介。

     よんでみて、なんとなく大事なことを言っているが、まだピンとこない。かなり感覚的な記述も多い。

     大事だと思うのは、身体と頭は一体で、身体がほぐれて活発でないと、いい発想が生まれないこと。考え事をしたり、読書をしていると、自然と身体が硬くなってきて、読書ができなくなる。柔らかい身体でないと柔らかい発想ができない気がしてきた。

     あと日本人の歩き方。江戸時代まで相撲取りのように右手と右足を一緒にだして歩いていたと読んだことがあるが、能や狂言のかかとをつけてつま先をあげてすこし腰を落としてすり足であるくのが日本人のもともとの歩き方。農耕民族の泥の中を歩くにはふさわしい歩き方。

     それに対して、インド人とか欧米人は、モデルさんの歩き方にあるように腰をふりながら一本線の上に両足が来る歩き方。狩猟民族の歩き方という。

     日本人の歩き方、なんとなく格好悪い気がしていたが、歴史ある歩き方だと思うと恥ずかしくない。

     あと声の出し方。最近のどの調子が悪いので気になっているのだが、やはり、丹田に力をいれて腹から頭に突き抜けるように発声したい。最近の子供は口をあけず、歯をあけずに小さい声で話すらしいが、それでは、明るい人に届く声がでない。自分でも、丹田に力を入れて今日から声をだしてみよう。

  • ○言語からの変容はありうるか。
    ありうる。
    腹にたまった、深いどろっとしたものが或る時に限られる。
    からだに発生しているものを、言葉として目撃する、
    ないし、腹の底から出、他者としての自分の存在を知覚する時にそれは可能となる。
    その意味で、教典の暗記が果たす役割というのは、
    他者への変容の際に、その導きとなる言葉との遭遇の確率が上がるということになろうか。


    ○スキーランドでの状態。
    変容の、腹にどろっとした他者がたまっていった期間。
    習慣の変更と、他者との深いかかわりがそれをなした理由。
    必死に言葉を探せど、心がそこに向かず、
    ひたすらに時の流れに身を任せ、気持ち悪さへの適応に注力していたのは、
    決して間違いではなかった。
    一度自分を手放すことで、身に着かない部分もある。
    しかし、どこまで自分を手放すことができるのか、
    それが人間の奥深さ、器を決定することに繋がる気がした。
    ぎりぎりまで、それはもう病気と言ってもよい状態だと思うのだけれど、
    そこまでいかなかった自分への反省、
    むろん、変容を終えた自分がいるのは確かだけれど。
    習慣に埋没した時は、とにかく広げること、
    広げたのち変容し、矢印として突き進む態度のサイクルは覚えておきたい。
    たとえば遭難とか高山病とか。
    それを病気と捉えるかは、自己への探求心が試される。
    【自分でいられないところ】への埋没を定期的に取り入れることを、
    習慣化していきたい、他者の模倣ということになろうか。


    ○書道でのだめだし。離れること。

    ダメだしを、自分の手の中にある想像力の範疇で解釈し、改善に向かっていた自分がいたのは確か。
    ダメだしは、他者性への自覚の促し。つまり離れることの要請。


    ○はじめに言葉ありき
    とは、神のいない世界では、「はじめに行為ありき」に変化。
    ただそのからだに【感じさせる】のは自分の解釈では神。
    真理を創造した主への直観、たとえそれが勘違いであっても、
    そういうことを【知っている】ということだけでも、
    苦しみや、快楽性に大きな受け皿をもたらすと思う。

    ○ことばにすることにより、存在の輪郭の明確化
    ことばとは、自己の変容であり、
    存在の認識。
    自分語りに恥じらいを覚えるのは
    離れたがっている時。
    そうでない場合は、
    矢印になっている時、もしくは習慣として獲得した時。

    引用。

    【話はあるところまで円滑に進む。ところが、それは、あるところを話そうとして声が喉まで出かかるまでなんだ。その箇所にさしかかると声の響きが変わる】

    【声はからだからことばが生まれ出て他者に至ろうとする、もっともなまなましいプロセスの現れだ】

    【ことばが沈黙する時、からだが語り始める】

    【話しかけるということは ひとつの決意で或る あなたへ わたしを差し出し あなたを動かし 世界を変えてゆく 行動の発端を踏み出すことだ】

    【ほとんどだれも、他の人にからだごと呼びかけていないのだ。ただ口先だけで音を送りだしているばかり。人と人とが話し合っているように見えても、声と声はそれぞれ別々に宙に散ってゆき、ことばとことばは行き違ったまま相手のからだからそれてゆく】

    【ひろし君という自閉症と言われていた少年が、まるで肉が内からはじきだしたようなニコっと笑った時。愛しているとか、信じているとかいった次元よりもっと深いところで人間と人間として出会えた、といったん書き、「いや、まだ少し違う、生きものと生きものとして出会った」といってもいい】

    【生きものから人間へ。この深さにおける出会いをわたしのからだは求めている】

    【人はことばを、真実を表すために語るのではない。人はウソを作り出すためにことばを用い、隠れるための城を築くために用いる。人はことばを発することにおいて生きるのではない。隠れるための目くらましとして使うのだ】

    【宮沢賢治が、「まことのことばが欲しい」と言い続けたのは、ことばとは、もともとそれほどまでに、「まことでない」ものであるのだろう】

    【名づけによる抽象と一般化、即ち概念の成立が、人を、常に変幻する感覚と反応の次元から、安定した秩序ある世界構造へと導いた。ということは、もはやわたしは、いわば、「まこと」の次元ではなく、「ことば」によって作り出された世界に棲むということで、ここに入りきらぬものは、「人間」から落ちこぼされるのだ】

    【抽象する言語たち、文学、哲学、言語学、心理学、記号論。が時にからだの深みを覗き込み、仄見える動きを捉えようと試みることがあっても、それは、ことばであるみずからを確定したまま対象を見極めようとするはたらきであって、からだとの結び付きを回復することによってみずから変容してゆく試みではない。だが、「まこと」と「ことば」の境界を越えて行きつ戻りつしたいという不逞な欲望が「表現」というきわどい、剣の刃渡りのような企てをそこに立たせる。演劇、歌、そして踊り…その先にたぶん文学のある部分が】

    【集中が深くなると、相手が人間と見えなかった、という場合がしばしば起こる。岩のように見えた、クマのようで怖かった、影のようで形がない、などと言われるのは、つまり異界のものに感じられた、ということだ。これを真相の意識が現れて来るのだと考えることもできるわけだが】

    【立つ次元を下層と表層であるとすると、少女の怖さはまざまざと分かる気がする。そしてかれの誠実さや人間としての優しい心遣いや慎重さは、心をこめて誠実であろうとつとめればつとめるほど、意識と言語によって織りなされた自分をより整えることに収斂していく表層の努力であって、その存在自体が、下層に立つから身体から見るとき、ますますウソと化してゆくことになるに違いない】

    【言語のうちで最初のもの、最も力強いものは、行為である。行為とは意味することだ】

    【言語の一部には、それ自体のほかになんらの対象も持たないものがある】

    【理解するとは模倣することだ。】

    【社会をつくるとは、人のことばの意味を知ることが主なのではなくて、まず理解されているのを知ることなのである。言い換えてみよう。わたしが手を挙げる。これはなにかの意味を伝える身振り言語ではない。敢えて言えば、(わたしはここに)いる!というだけのこと。そして向かい合って立つからだがすっと手を挙げる。これもまた(おお、わたしも、ここに)いる!である。答えでない答え。共に動くというだけのからだ。これは言語以前の、即ちことばの胚胎する下層次元におけるからだの出来事である。念のために言えば、これは自他の融合ではない。自他の原距離が現れているのだ。わたしが呼びかけた時ひろし君はニカっとした。それは応答というものではあるまい。存在が疼いたというだけのことだ。】

    【べろりとむけた時、そこにあなたがいた、現れた。その時、わたしがー自分を眺める目を持つ以前の、自覚せぬからだがーなまなましくむき出しになって、あった。いるよ!男女の性の分化を孕みつつ、なおはるか以前の、タナトスとふれあい混ざり合う混沌の息遣い。そこで他者に出会うことの目も眩むようなゆらぎ。生きものと生きもののなまなましいふれあい】

    【下層にあるからだ-生きものとして、と言ってもいい-を保ちつつ、表層の言語の最も精緻な最も高い達成を探り習熟ししかと遊ぶこと、この二重性の世界を同時に生きることが、人間である、あるいは人間になる道なのだ。二つを性急に結び付けようとすれば、たとえば、感覚と切り離された抽象概念の組み合わせによる思考へは入ってゆくことが出来ない】

    【慣習のことばでは、また精緻な学術的な用語でも、言語以前の闇はとらえることができない(解釈はできても、だ。)その闇に共に棲むこともできない。その裂け目にいかに立つかが問われているのだ】

    【ユダヤ虐殺の隊長。まったくありふれた俗物で、悪魔のようなところもなければ巨大な怪物のようでもなかった。悪とはそれへの意志は必要なく、考えることの欠如から生じはしないか】

    【考えないということは、わたしたちのくらしの中では極めてありふれたことだ、と彼女は答える。くらしの中で、立ち止まって考える、などという時間はほとんどないし、そうしたいとも思っていない。常套句、決まり文句、因習的で規格にはまった言い方や行動様式というのは、現実から我々を守るという社会的に認められている機能がある。すなわち、それによって現実の出来事が生じているときに、思考が注意を向けないようになるのである。もし我々がいつ何時でもこうした出来事に注意を向けるように求められたら、我々はほどなく疲れきってしまうだろう。】

    【考えるとはなにか。考えるとはふつう、慣習としてのからだとことばの結合から、自覚化された言語使用へ、つまり中層から表層次元へあがってゆくこととイメージされている。が、それは慣習を精密に言語化する結果にしかならないことが多いことを私たちは知っている。】

    【みずからの慣習に申したて吟味し始めること、自分の無知を知ることはどこからはじまるのか。異議申し立てをするのは「だれ」か?ひそかに違和を告げてくれるのは、今の私には、からだの下層次元の、深いなまな感じというほかないのだが。ならば表層の言語によって言語自身を超え、からだとのかかわりの下層次元へ引き返し、そこへ呼びかける「ことば」がありうるだろうか。謂わばからだとことばの「上層」が。】

    【イエスはまず「まず」という一言で、いきり立った群れに埋没していたひとりひとりを呼び覚ました。イエスは、慣習としてのことばとそれに縛られたからだとを疑うこともなかった当事者に、そのことばを鏡として、自分のからだ=存在をみさせた。表層の言語として精密に確立された律法の理論を、他人ではなく、みずからを裁くことばとして担え、と投げ返す。当事者、つまり群れの行為に混じっているもの、は一挙に行為の主体としてそこに立たされた自分を発見する。匿名性に逃げ込むことはもはや不可能だ。ひとりのからだが、イエスに向かって、光の中で裸になる。言語以前の世界化、言語を超えた次元でか、人は行動をひとり選ばなくてはならない。かれは責任の主体として立ち、沈黙のうちに去る。考えるという行為の、最も根元の形がここに初めて成った。】

    【人間として、人間を呼び戻す行為だった。これが人間が人間に問う、ということの人間であることの責務であり、その愛は、女にというよりも、むしろ慣習に立てこもって激昂する人に向かっている】

    【ヒトみずからには意識することのできぬ、上へ伸びてゆく力こそヒトが生きる力の根幹であって、これをいかに捉えなおすか、つまり、立つ力の自覚が、ヒトが人間として存在することの秘訣であろう。腰の痛みは、立つ力、生きる志の衰えである】

    【どこか全身が「浮いている」感じんなのである】

    【「いきいきとする」っていうのはどういうことか、について。入れた力の大きさと抜いた時の落差が大きければ大きいほど、そしてそれに加えて、その変化のスピードが速ければ速いほど、いきいきとしている】

    【力は抜こうと思ったら、それだけ入るもの。力はからだの重さを大地か他人にすっかりゆだねることが出来た時、結果として抜けている。これ以外に力を抜くことはできません】

    【或る日、たとえばセリフの言い方にダメを出されたとすると、次の日、その出されたダメを自分で理解する限りにおいて、その通りに実に正確に直してくる。私にとってみると、ダメを出すというのは、その人が今まで自分の持ち合わせの技術で何とかこなしていたことを突き崩して、新しい想像力でもう一度自分の表現を見つけ直すために提出するサゼッションに過ぎないのであるが、かれらはそれを、最終的な結果を指示したことばとしてしか受け取らない】

    【型をとるということは、その型をなしているイメージを受け取る、あるいは自分の中で発見する、そのイメージをかもしだすからだを、みずからのうちに発見すること】

    【型と言うと、東洋特に日本ではあらゆる表現、特に芸術的表現につきもののように思われており、それに比べて、たとえばヨーロッパなどでは、もっと自由であるようにおもわれている。だがそこにはいかにもヨーロッパ的ないくつかの身振りが複雑に組み合わされている。つまり組み合わせが自由なだけであって、そのものはパターンであるというようなことが多い。そしてそれが文化というものであるに違いない。】

    【ひとつの型を支えているからだの感覚、からだの創造力を読み変え、そして組み替えていくという作業】

    【二流の役者がセリフに取り組むと、ほとんど必ずまず、そのセリフを主人公に吐かせている感情の状態を推測し、その感情を自分の中に掻き立て、それに浸ろうと努力する。】

    【感情そのものを演じることを捨てねばならぬ。本源的な感情とは、激烈に行動している「からだ」の中を満たし溢れているなにかを、外から心理学的に名づけて言うものだ】

    【悲しみとか怒りとかいう名づけも、身の内の激しい動きに距離をとり、対象化しうる状態に至った時、初めて行うことが出来るのだ。根源的なからだの動きそのものには、まだ名をつけることができない】

    【イリーナの嬉しいということばは、「なんだってこんなに」ということばに先行されている。ということは、イリーナはなぜ「嬉しい」のか自覚していない。ということ。まだ未分化なからだの全体の感じを仮に名づけようとすると、嬉しいという単語が浮かび上がってきた、ということに過ぎない。】

    【「ことば」とは、「からだ」=全存在の志向と身動きが生みだし、分泌し、そしておのれに対峙させるもの、ということができようか。みずから生み出したそれと対立し、それに導かれ、それを裏切りつつ、からだは生き進む。この意味で分泌された「ことば」とは、(からだ)の志向を仮定するものであり、それ故に、それに拠って選ばれる行為は常にひとつの賭けである】

    【離陸したことばが人を封殺する状況に対して、そのことばによって人間存在を獲得しようとする試みもまたありうる】

    【「約束」とは、単に意志によって一つの行為あるいは存在の仕方を選ぶことにとどまるのではない。選ぶことによって排除された自然人としてのからだの他の部分は、抑圧され、無意識の領域において「影」として生き延びるであろう。「誓い」は単なる意志的行為であることを超え、全身心が新たな地平において、新たな生命として働き始めることを意味する。即ち、ひとたび語られたことばの火によって「影」さえもが焼かれ鋳直されて、今まで存在しなかったなにかが生まれ出てること。からだから離陸した「ことば」の先に、「外なる光」あるいは「火」としてのことばが要請されねばならない】

    【最清浄より流れゆくことばとは、衆生の「身に触るる」光という姿でもあろう。「からだ」の大地より離陸してゆくことばは結局大気圏を這うばかりで、「天上」より来ることばのみが、「からだ」を根底的に変えるのである】

    【ゲーテはファウストをして「初めにタート(行為・はたらき)と修辞せしめた。これが近代の人間宣言、即ち「からだ」宣言であるとすれば、さらにこの先の逆転こそ、おそらく現代が近代を拒絶し、離陸してゆくことばをみることになるのであろう】

    【こえによって谷川俊太郎の詩をヨムということは、私にとって、存在の始まりの内に身を置くことになる。そこから存在の方に動いていくのか、表現の方向に歩み出すのか、さだかには判らないのだが、そして、やがて、私は新しい私-ことば-に出会うのだ。】

    【「誰でもないわ」と一音一音を十分な音の重さと息の深さで発する時、「誰でもない」という「こと」が、そこに立ち現われてくる】

    【言いたいことがからだ中に渦巻いているのにうまく外へ出てこない人が、自分を突破しようと身もだえしている】

    【情報伝達を正確にという任務へのひたむきな努力。これはなんだ。これは生きている話しことば、熱い人間のほとばしりではない】

    【今、豊かな消費社会のシステムの中に閉じ込められて、絶望することも希望することもないからだたちが歩いている】

    【どちらにも行かない中途半端な地点に立ちどまったままでいるのが、ムカつくなのだ】

    【しないという行為こそ、人間らしい表現への第一歩なのだ】

    【そのことばのイメージが曖昧か希薄であって、その人の深いところがことばと出会っていないことが露わになる。つまりは概念の理解に止まっているということだ。自分の深いところの表現として感じとっていない、自分ななどどこにもいないということなのだ。】

    【ただ、あなた自身は、からだがこれだけはっきり現わしていることを、頭のほうでは受け入れていない。自分の全身で表現していることの意味を認めることができなくて】

    【ことばの下のメッセージが語っている】

    【誤り。言語を学ぶことによってのみ人間は野獣ではなく人間になれるのだ、という極めてヨーロッパ的な理性主義的言語観と人間観の狭さ】

  • 内容(「BOOK」データベースより)
    からだを知ること。それは自らと出会い、人と出会うこと。本当のコミュニケーションとは何か。この十年の思索と実践のすべて。
    内容(「MARC」データベースより)
    からだを知ること。それは自らと出会い、人と出会うこと。じかに触れあい、コミュニケーションすること、人間が人間であることの源を探究してきた著者の、この十年の思索と実践のすべてをあかす。

  • 筆者は学生時代、本多流で引いていた
    そのエピソードが非常に面白い
    ヘリゲルの「弓と禅」に対応する話

    著者のもう一冊も読むと、エピソードが補完される

  • もっとからだからのことばを聞こうと思いました。
    からだは雄弁に語っているようです。
    普段忘れていること。パソコンにはからだはいらないから。

  • 「からだ」と「ことば」との関係をうまく築いていけるかどうか。その必要性と方法が示してあるのだと思う。<br>
    “死んでいる”形骸化してしまったことばをいかに身体感覚を伴った“生きた”ことばにするか、そして身体が感じていること、その動きをいかに(ことばにして)表現するか、そういった話。<br>

  • 分類=からだ・竹内敏晴。01年4月。

  • これこそが<わたし>

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著者プロフィール

1925年、東京に生まれる。東京大学文学部卒業。劇団ぶどうの会、代々木小劇場を経て、竹内演劇研究所を主宰。宮城教育大学、南山短期大学などで独自の人間教育に携わる。その後「からだとことばのレッスン」を創造・実践し現在に至る。著書に『ことばが劈かれるとき』(ちくま文庫)、『「からだ」と「ことば」のレッスン』(講談社現代新書)、『からだ・演劇・教育』(岩波新書)、『癒える力』(晶文社)、『竹内レッスン』(春風社)、『声が生まれる』(中公新書)などがある。

「2007年 『生きることのレッスン』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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