世界はもっと豊かだし、人はもっと優しい

著者 :
  • 晶文社
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  • Amazon.co.jp ・本 (283ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784794965677

作品紹介・あらすじ

地下鉄サリン事件を境にして、日本のメディアの現場は「右へならえ」的思考停止状態に陥り、さらに9・11テロ事件以降、国際的なレベルでもこの思考停止の輪は広がった。いわく、狂信者、残忍な凶悪集団、ならず者国家、正義対悪の枢軸の闘い…。しかし、はたして世界は、このような善悪の二元論で単純化できるものだろうか。オウム信者も、アルカイダもタリバンも、イラクのバース党員も北朝鮮の工作員も、皆ひとりひとりは、笑い、泣き、怒りながら日々の生活を営む生活人。だが、そうした他者に対する想像力を失うとき、人びとの間に悪夢のような憎悪の連鎖が生まれる。「世界はもっと豊かだし、人はもっと優しい」。多様な価値観をもつ人々がお互いに共存できる社会に向けて、いまわたしたちにできることはなにか。気鋭のドキュメンタリー作家による、21世紀への希望を込めたノンフィクション・エッセイ。

感想・レビュー・書評

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  • あらがいがたい力を持ったタイトルだ。ちょっとガツンと来る本を読もうかなというくらいの気持ちで読み始めたのだが、すぐにバシバシと往復びんたをくらった気分になり、背筋を伸ばして読んでいった。本当に気がつくと私たちはざらざらした景色の中にいる。テレビをつければ、決まって誰かが誰かを攻撃している。賛美とバッシングはいつも背中合わせでどちらも過剰だ。いったいいつから日本はこんな国になってしまったのだろう。オウムから、と筆者はいう。集団としての日本人が、他者も自分と同じ人間であるという当たり前の想像力をなくし、ひたすら憎悪をむき出しにすることをためらわなくなったのは、オウム真理教による一連の事件への反応からであると。そうかもしれない。いやおそらくその通りだ。きっかけは何であれ、今の私たちは寛容さをなくした社会に生きている。筆者の言葉を借りれば「泣きたくなる。泣くぞ本当に。」本書は様々な媒体で発表された文章を集めたものだが、そこここに卓見があり、非常に刺激的だ。出版された時点では、筆者の監督したオウム信者を追ったドキュメンタリー「A」「A2」は、商業的には黙殺に使い扱いでビデオ化の目途すらないとあるが、調べてみたらその後ビデオ化され、DVDも出ているようだ。私は聞いたことはあるなあと言うぐらいにしか知らなかった「A」、読み終わってすぐさま注文することにした。タイトルが頭の中でこだましている。つぶやいてみたりする。

  • 当たり前のことを書くと、人は自分の価値観というフレームをなかなか出ることができない。そこから出るためにこそ、森達也のような心優しきアウトサイダーの声を聞き、そしてそれだけにとどまらず自分の内なる両親と自己内対話を重ねる必要があるのだろう。オウム真理教を相変わらず狂人の集団と見なすのもいいかもしれない。だが、そこにたどり着くまでにぼくたちは森が体験/実践しているような自己内対話と葛藤を繰り広げているだろうか。それについて考えるのも一興ではないかと思う。読みながらここまで自分のフレームを壊し続ける姿に畏怖する

  • 感想
    なぜを失った世界。道ですれ違う人にイライラし電車内の人に舌打ちする。その人にも事情があることも知らずに。思いやりの輪は広がらないのか。

  • はたして世界は、善悪の二元論で単純化できるものだろうか。皆ひとりひとりは、笑い、泣き、怒りながら日々の生活を営む生活人。だが、そうした他者に対する想像力を失うとき、人びとの間に悪夢のような憎悪の連鎖が生まれる。

  • 今年のオウム周年でホントに似た様な番組が一様に「これがジャーナリズムだ」とドヤ顔を隠しもせず垂れ流されているのをどこかに別な新しい視点があるはずと青くて淡い期待をもちつつ結局すべて観たもののそれはやはりどうしようもなく消化不良だったところに10年以上前の本書に出会いいろいろなことが腑に落ち気づき再認識された。文章文体構成力も人格も魅力的。

  • 図書館で借りてきた本。

    この本は、著者がいろいろな雑誌で連載した文章を集めた、所謂「エッセイ集」みたいなものだった。

    「世界はもっと豊かだし、人はもっと優しい」

    これはもともと「A2」の題名にしようかと考えて、結局キャッチコピーみたいなものになったらしいが、しかし、この一文は「A」撮影日誌で既に出て来てる言葉なんだよね。

    ってことは、「A2」を撮影するときは既に筆者の頭の中ではこの言葉があったはず。そして、彼の文章を読んでいると折に触れこの一文が出て来ている。おそらく、この一文は彼の根幹をなすものだと思う。この言葉が基本になって彼は何かを思い、何かを撮影し、何かを書く。

    この中で忘れられない話。

    著者が小学校2年のとき、大阪から転校してきた女子生徒がいた。その子は家が貧乏だったようで、学級費や給食費をいつも持って来なかった。いつも同じ貧しい身なりだった。

    同級生からは「臭い」だの大声で囃されていたが、その子はいつも薄い唇を噛み締めて無言で机の一点を見つめていたそうだ。

    あるとき、著者が家に帰る途中、その子と会い、著者はその子から「家に遊びに来ないか」と言われ、その子の家に行く。その集落(部落はと言った方がいいのか)はあばら屋が密集しているところで、家の横の溝には米屋野菜の切れ端が浮かんでいて悪臭を放っていた。そういうところに少女は住んでいた。

    著者が遊びに行くと母親はとても喜び、あめ玉を一つもらった。それから二人で遊んだのだが、その様子を同級生の誰かが見ていたらしい。

    翌日、著者が学校に行くと「アイツと遊んだのか」と言われる。「臭くなかったか」「臭くなかった」「あそこは朝鮮部落だぞ、お前知らないんだろう」と言われたとき、ちょうどその子が教室に来た。

    著者は言ってしまう。「見るなよ」「臭いんだよ、あっちにいけ」と。周りのみんなははやし立てた。と同時にその子の表情が微妙に変わった。怒りでも憎悪でもなく悲しみとも少し違う。

    30年も前の話だそうだ。だが、著者はそのときの少女の表情が忘れられないという。この経験は著者の「トラウマ」だという。しかし、このトラウマを抱え続けて生きていかなければいけない、と思う。彼女に見つめ返されたときに感じた泡立つような後ろめたさをこれからも絶対に忘れない。

    そんな話だった。

  • 人は悪意や自分の利益のために大量の人を殺せない。むしろ善意や大義を燃料とする時にこそ、愛する者を守ろうとする時にこそ、他者への想像力を失い、とても残虐になる。オウム事件をきっかけに、日本社会の他者への不安と恐怖は増大し(9・11以降のアメリカ社会と同様に)、他者への想像力を失った。
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    上記の説明がすべての、森さんならではの視点が満載の一冊。
    オウムからも911からも10年以上経っているのに、
    森さんの言葉は色あせてなくて
    むしろ現代への危惧が現実のものとなっていて。

    心に刺さる言葉が山のように。

    解決策や正義を求めてしまいがちな自分に、小さなストップを。
    ただ、解決はしたくなる。
    この世界のかたむきは直せるのか。
    そもそも直すことが正しいのか。
    つまり自分のすることに、すべて意味なんてないのではないか。

    んーーーー、難しい。

  • 戦争はなくならないとか、いじめられる方も悪いとか、そんなこと言うやつが嫌いだ。
    「敢えて目を塞ぎたくなるような表現を使いました。こうしないと分からないでしょ?」」みたいなフィクション映画が嫌いだ。
    もっと理想を語ろうよ。映画は笑えたり泣けたりするものにしようよ。確かに現実はそううまくはいかなくてめちゃくちゃだけど、この本のタイトルのように、世界はもっと豊かだし、人はもっと優しい、はず。反中反韓の人に、擁護するような事を言ったら、お前は何も分かっていないと言われるかもしれない。でもさ、もっと視点を変えていこうよ。まずは中国韓国に行ってみて、クーリエジャポンを読んだり、歴史をもう一度勉強したりしてさ。もっと想像力を持って、時には一人になって考えて、流れに乗っていることを自覚しないと。
    なんだかまとまりのない感想。でも、この本の内容もそんな感じ。答えなんて結局ないんだ。何事においても。でも、だからといって考えるのをやめたらダメだ。例え間違ってても、ただの理想論でも、周りにただ流されるんじゃなくて客観的に見て自覚して、考え続けないといけない。そうしたらいつか自ずと、「世界はもっと豊かだし、人はもっと優しい」という気持ちになる、そんな気がする。

  • タイトルたる所以。
    ・「表現」とは自分の「フィルター」で世の中を再解釈して、再び場に戻すことと知る。
    ・世の中の無意識の「憎悪」に気づかず、フィルターを通した世界で思考停止していることに気がつく。言わば「客観」

  • 友達にファン会に参加するほどの森達也ファンがおり、彼女にすすめられて読んでみました。

    とにかく「A」「A2」を観てみたくなりました。
    野田秀樹の「ザ・キャラクター」は私にとって本当に世界との関わり方として転換点になった作品だったけれど、きっとこの映画も同じように自分が持たねばならない、まさしく「自覚」を教えてくれるのだろうと思った。

    でもね、森さん。
    森さんは「被写体はオウムだけど、そこから写しているのは今の日本の社会そのものだ、あなたたちが映っているのだ、といくら主張してもオウムへの嫌悪感から、動員数は伸びない」というようなことを言っていたけど、そうじゃないと思う。
    まだ、オウムの実態を見せられる方がいい。
    そこから見える私たちが崩れてしまった姿こそ、一番みたいくないし、考えたくないのじゃないかしら。
    宣伝方法、誠実が故に間違った気がします笑。

    きっとぐらぐらと私たちの足下を揺すってやまない映画なのだろう。

    私はオウムの事件のとき、まだほんの子供だったし、母がテレビ中継をずっと見続けていたことくらいしか覚えてない。

    でも森さんが言う「憎悪がむき出しになった」ということを、すごく感じます。
    私の場合は、特にワイドショーをみていて感じます。

    こんなにゆるやかとも思えるほど緩慢に、憎悪がお昼の日本からじわじわと浸食していっているのがそら恐ろしい。

    大人になれないことは、ある「罪」だと思う。

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著者プロフィール

森 達也(もり・たつや)
1956年、広島県呉市生まれ。映画監督、作家。テレビ番組制作会社を経て独立。98年、オウム真理教を描いたドキュメンタリー映画『A』を公開。2001年、続編『A2』が山形国際ドキュメンタリー映画祭で特別賞・市民賞を受賞。佐村河内守のゴーストライター問題を追った16年の映画『FAKE』、東京新聞の記者・望月衣塑子を密着取材した19年の映画『i-新聞記者ドキュメント-』が話題に。10年に刊行した『A3』で講談社ノンフィクション賞。著書に、『放送禁止歌』(光文社知恵の森文庫)、『「A」マスコミが報道しなかったオウムの素顔』『職業欄はエスパー』(角川文庫)、『A2』(現代書館)、『ご臨終メディア』(集英社)、『死刑』(朝日出版社)、『東京スタンピード』(毎日新聞社)、『マジョガリガリ』(エフエム東京)、『神さまってなに?』(河出書房新社)、『虐殺のスイッチ』(出版芸術社)、『フェイクニュースがあふれる世界に生きる君たちへ』(ミツイパブリッシング)、『U 相模原に現れた世界の憂鬱な断面』(講談社現代新書)、『千代田区一番一号のラビリンス』(現代書館)、『増補版 悪役レスラーは笑う』(岩波現代文庫)など多数。

「2023年 『あの公園のベンチには、なぜ仕切りがあるのか?』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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