パラレルな知性 (犀の教室)

著者 :
  • 晶文社
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  • Amazon.co.jp ・本 (296ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784794968128

作品紹介・あらすじ

3.11で専門家に対する信頼は崩れた。その崩れた信頼の回復のためにいま求められているのは、専門家と市民をつなぐ「パラレルな知性」ではないか。そのとき、研究者が、大学が、市民が、メディアが、それぞれに担うべきミッションとは? 「理性の公的使用」(カント)の言葉を礎に、臨床哲学者が3.11以降追究した思索の集大成。危機の時代における知性のあり方を問う哲学的考察。

感想・レビュー・書評

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  • 哲学

  • 倉下さんが引​用されていたが、Amazonコ​メントは今ひとつ​だな。。

  • ふむ

  • 以下の記事にて紹介。

    <a href=\"http://rashita.net/blog/?p=11830\" target=\"_blank\">【書評】パラレルな知性(鷲田清一)</a>

  • 著者は文章がうまいし、文学者あるいは広告のライターみたいな斬新な表現を使うから、それを読むだけでも楽しい。
    ただ、中にはあえて論理のアクロバティックを楽しもうと無理くりひねり出したような論考もある。そのアクロバティックさを楽しむにはいいけど、鵜呑みは危険。

  • 大学論があるときいたので読んだ。
    鷲田清一の本の中では、かなり面白い方ではないか

  •  リスクを回避するためにあらゆる手立てを講じるというのは、あたりまえのことである。人生ではあたりまえのこのことが、社会という規模になるとあたりまえとは言えなくなる。どこかで割り切りということが必要となるからだ。

  • 晶文社で鷲田さん。

    こういう本の選び方が出来るようになったことを実感した本。

    鷲田さんに関しては
    並行読みをしている
    しんがりの思想で語るとする。

  • よかった!扱っているテーマ的に、鷲田さんの本で読んだなかではいままでで一番好きだ。


    専門知、現時点で何が確実に言えて、何が確実に言えないのか掴んでいなくてはいけない。自身の判断を一旦かっこにいれ、問題をさらに聞きなおすこと、別の判断とすり合わせた時に時にそれを優先すること。

    フクシマ:学者のいうことはすべて信じられるーから逆への転換(学者のいうことはすべて信じられない)への転換。心配。

    住民:どんな専門家がいい専門家ですか?「一緒に考えてくれる人」(市民に変わって答えを出してくれる人ではない)
    信頼の根:学者がその知性を自分の利益のために使っていない。(理性の公的利用)知性を自分のためでなく、他者たち、人類のために使うこと。
    この逆(知性の「私的使用」、知性を自分のために使うことではなく、特定の社会や集団のなかで自らにあてがわれた立場に従って振舞うこと)=上司の指示に受動的に従う、割当られた職務に無批判にふるまう

    バイオテクノリジー:存在の値踏み、人が別の人の存在価値を決定すること

    市民は専門家に判断を丸投げするでなく自分の頭で考えること。

    ほとんどが<見えない>なかで行われていて、信頼が台無しになりかけている。(でもこの<見えなさ>が日本の文化、ハイコンテクストカルチャーの基幹にあるのでは?)

    何が確実に言えるかという<限界>の知は科学外の利害関係や希望的観測によって歪められてはいけない。

    やりとりを回避しようとしている「読み上げ」発表が連発する学会。
    コミュニケーションをあらかじめ遮断するようなコミュニケーションの形式。
    相手を説得する、説き伏せる。自分が構築した理論を公衆の前に晒し、反論にさらに反駁することでさらに強固なものに鍛え上げる。あるいは反論を受け入れて自分の理論をより広く妥当するものへと変容させる。そういう研究者としての欲望がやせ細ってきているのか?

    (反論が人格否定になったりするからこうなる気が.....相互作用で生まれる自閉的コミュニケーション。それは個人じゃなくてシステム全体の問題というところが大きいと思う)

    市民たちの研究者とは違った視線、違った関心をそれとして理解しようとせず、自分の専門領域の、内輪の符丁で相手を抑え込もうとするものはそもそも専門家として失格。ーーだれも責任を取らない構造がますます修復不可能になっていく。

    知的想像力:見える現実をそのように編んでいる見えない構造へ向けて潜航していくこと。自分と他者との隠された結びつきに気づくこと。感性も知性も不在のものに向かうという心の動きとしては等しい。

    想像力:現実を編んでいる見えない構造や媒介、それに届くような眼差し。科学も宗教も政治、芸術、倫理もその意味では想像力がいのち。

    今目の前で起こっている出来事がどんな見えない規則や構造によってそういうふうに起こっているのかを探求する科学の思考。この世界をその外部に視点をとってそっくり捉えなおそうとする宗教の思考。偶然の事件や相手の思惑などさまざまな不確定要素が重なるなかで、見通しもきちんとつかないまま即座になんらかの決定を下さなくてはならない政治の思考。曖昧なことを割り切るでなく曖昧なままに正確に表現しようとする芸術の思考。じぶんたちの行動をなすべきという原則の視点から指示する倫理の思考。

    米本昌平(職業科学者の大衆性に絶望し、大学院に進学せず証券マンになって独学で研究を続けた)

    『独学の時代 新しい知の地平を求めて』

    じぶんを問うというのはじぶんがこうである、あるいはこうでしかありえないその条件に問いを向けること。そしてその条件は見ようという強い情熱のなかでしか見えてこない。<知>の制度全体に口をはさむ権利が市民全体にはある。<知>と見えるものがより深い無知へとじぶんを誘う。

    専門家主義がますます市民の知的体力を削ぎ、受動的な存在にしている。

    教養を失った専門家:オルテガ、大衆の反逆(科学者について、今日のもっとも教養ある人が歴史的無知におちいっている)「じぶんの限界内に閉じこもって慢心する人」、彼らは選ばれた人間が己に課していた「じぶんを超えじぶんに優った一つの規範に注目し、自ら進んでそれに奉仕する」という使命をもはやうちに感じることはない。

    イリイチ「専門家時代の幻想」:専門家こそ全知全能だという幻想を受け入れた時代、専門家サービスは人を無能にする援助にもなりうる

    専門家と非専門家の間のインターフェースが欠如していることによるディスコミュニケーション。結構深刻。ハラスメントの正体でもある?(加害者・被害者という対立的側面ばかりが目につく)一方方向の伝達、旧来の科学モデルが原因か?相手の話を聞いて自らの意見を変える覚悟がなければコミュニケーションとは言えない。

    大学と社会の連携で大事なのは科学技術のリスクにさらされた市民をサポートすることで科学への信頼を取り戻すこと。

    大阪大学CSCD, 専門家と一般市民の間のコミュニケーションを媒介するメディエータの養成が緊急課題。

    日本のアヴァンギャルド派に感染したヨーロッパの若者(イッセイミヤケ、ギャルソン、ヨウジヤマモト)がアントワープ派を形成。

    博士号を苦労してとったところでそれに見合う職がない、社会的評価も見合わない。優秀層が研究者を志さなくなっている。

    モード、(流行)という世界が政治や経済、技術の領域まで浸透している。
    思想も芸術も宗教も、死ぬとわかっていて生きようとする、理由を探求するところに生まれた。

    「実業」つまり行政や産業活動にかかわる人たちはそれぞれのやり方で幸福な社会をもたらそうと働く。しかしその「幸福」の吟味なしに、慣習や流行に従って活動することほど危険なことはない。

    大学がもし本気でブランドであることを望むのなら有名ブランドが記号(=ファッション)として流通し、ブランド自身がそれに巻き込まれてしまう、そうした逆立した事態からまずは身を剥がす必要があるだろう。

    大学とメディアが共有している使命とは同時代の社会が直面している諸問題をそれを煽るマジョリティの熱い意見から距離をとって正確に分析し、その問題解決の提言をなすこと。その”距離感”こそ大学とメディアは社会から委託されている。

    哲学はメタ学問:「知の知」「技術の技術」
    ここに求められているのは広範な知識をもって社会を、そして時代を、上空から眺める高踏的な教養ではなく、むしろ何が人生の真の目的かをよくよく考えながら、その実現に向けてさまざまな知を配置し、繕い、まとめ上げていく技術としての哲学。ヨーロッパでの教養はそういうもの、高みから時代の社会を眺めるのでなく、時代の社会のなかに深く入り込もうとするもの。
    一つの問題に対して必要な幾つもの思考の補助線を立てることができる、複眼的思考。

    重要なことはわかることよりもわからないことを知ること、わからないけれどこれは大事ということをしること、そしてわからないものにわからないまま的確に対処できるということ。
    複雑性の蓄積のなかで思考の耐久性が求められている。人が学ぶのはわからないという事態に耐え抜くことの出来るような知性体力、知性の耐性を身につけるためではないか?

    この仕事は自分でなくてもいいのではないか?ーそうである。そんな不安が常に付きまとう大人。給料をとっているという事実のみが喜び。

    幼稚な大人が増えたのは社会構造の問題。

    絶対になくしてはならないもの、あればいいけどなくてもいいもの、端的になくてもいいもの、絶対にあってはならないもの、また「これ以上進めば取り返しがつかないことになるという臨界点の感覚」を備えていることが教養。(最後が特に大事な気がする)

    「自立」は誰ともかかわらない孤立ではなく、いざとなったらいつでも助け合うことができる人的ネットワークを持っていること。

    芸能や宗教などの人の魂を揺さぶる文化は無縁の場ー誰にも所有されない場所であり避難場所とも言える場所ーに生まれ、無縁の人によって担われてきた。言ってみればこの世のしがらみとしての縁が解除される場所であり、都市とはあるいは宗教施設は元来そういう場所として人を惹きつけてきた。

    よく気がつく人は危険のサインや兆しに敏感な人である。そういう人は自分の責任範囲をわきまえているだけでなく、誰の責任にも属さないからこそ放置されたままの隙間に敏感で、身を震わせている「助けて」のサインにも敏感である。あるいはこのままだと危ないという感覚を事業の途中でも持つことができる。虫の知らせのように。(高い想像力が必要)

  • 311以降、専門家に対する信頼は失墜したという。本書のことばでいえば、専門家は特権的超越的立場である「レフェリー」ではなく、社会を構成する市民と同じ「プレイヤー」へと変わったという。「プレイヤー」として専門家は市民に届く言葉で自分の専門を語る必要があるし、市民も専門家からなにか言葉をもらって満足せず、当事者として社会のなかでふるまう必要があるという。

    研究者の特権性について、ぼくは自分自身がとうていそういう特権的な立場からものを言うことができないとずっと思っていた。立場としてもそういうことをするのは嫌だし、能力的にもそうだ。だから、首肯できるところも多々ある。ただ、本書のいうように専門家についての信頼が失墜したとまでいえるのかどうか、そこのところは疑問である。大学という組織、研究者という権威は、いまだ続いているように思えてならない。

    本書の魅力は、そのことばの選び方だと思う。「パラレルな知性」という言葉もそうだけど、「届く言葉」を選ぼうという作者の心構えを感じることができる。ぼくはそこを肯定的に評価したい。

    ところで「臨床哲学者が3.11以降追究した思索の集大成」とamazonの紹介文にはあるけれど、実際には2011年以前のものも多く含まれているし、知性の問題だけでなくメディアのあり方についてのエッセイも多い。まあメディアが知性的でない、ということでそんなにタイトルと離れた内容ではないのだけど。

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著者プロフィール

鷲田清一(わしだ・きよかず) 1949年生まれ。哲学者。

「2020年 『ポストコロナ期を生きるきみたちへ』 で使われていた紹介文から引用しています。」

鷲田清一の作品

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