• Amazon.co.jp ・本 (304ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784794968180

感想・レビュー・書評

並び替え
表示形式
表示件数
  • 作家、政治学者、映画監督、精神科医、哲学者、生命科学者などがそれぞれの立場から、日本における反知性主義について書いている。
    立場が違うことから、反知性主義そのものに関する解釈も違う。
    そもそも反知性主義というのは、イデオロギーであるから個々の立場によって、その解釈が違うのは当然だろう。
    言葉の意味を理解しようとしていたのだが、一筋縄ではいかないということはよく解った。
    そもそも「知性」の意味そのものが、人それぞれに違うであろう。

    ちなみに、平川克美氏によると反知性主義とは、「現場での体験の蓄積や、生活の知恵がもたらす判断力を、知的な営為や、想像力が組み上げた合理性よりも信頼するに足るという保守的イデオロギーのこと」だという。
    また、内田樹氏は、「知性というのは個人に属するものというより、集団的な現象」で「個人の属性ではなく、集団的にしか発動しない」という。

    頭が良いというのは、単に勉強が出来るということではないように、知性的というのは単に物知りだということではない。
    ものの考え方の問題である。
    自分にとっての「知性」「反知性」とは何であるか、一度頭の中をフラットにして再考したい。
    考えることを止めることが、なによりも反知性主義態度であると思うから。

    濃厚で面白い本だった。

  • 内田氏の御仲間たちではありますが、いろいろな
    思想を持っている方々の反知性主義にかんしての
    論述。
    今回の内田先生の内容は、いつもとは少し違った
    切り口だったような気がします。でも内容的には
    納得し、なるほどと思うところがいつもと同じく
    多くあったと思います。
    他には、若手の白井聡氏。いつもの鷲田清一氏の
    論述がよかったと思います。
    中でも平川克美氏の話が一番わかりやすくて
    個人的には秀逸だったと思います。

  • 反知性主義を批判する言説自らが反知性主義に陥る恐れを内包するので気を付けなければならないのでしょう。拙い譬えですが、私個人の振る舞いとしては、たとえ意見のまったく合わない厭な奴と思っている人の意見も取りあえずは聴いて、とにかく会話の場を持つってことになるのでしょうか。それはともかくとして、鷲田氏が補足した巻末のT・S・エリオットの文章が秀逸です。「地方的問題を地方的に論ずる演説は、全国民に向かって呼びかけられた演説よりも意味が遥かに明瞭である場合が多いのであります。そうして、意味の曖昧と、まるで雲を掴むような一般論の掃き溜め場所というものは、とかく全世界を相手として呼びかけられた演説のなかに存することが観察されるでありましょう。」首相の戦後70年談話がこうなることを、いや元へ、ならないことを切に願うのであります。

  • 知性とは水の如くしなやかなもの。
    昨今は一貫性のある人柄や意見を
    ブレない、と評価する声が多い。
    しかしそれはあくまで会社的な価値観。
    議論すれば第三の道も見える。
    多数派が間違いを犯すこともある。
    知性と効率主義は、相容れない部分が多い。
    お役所はお役所的な考え方を捨てちゃダメ。
    そもそも民主主義は成功するシステムじゃなく、
    失敗しにくくするためのシステム。

  • 反知性主義とは、要するに、知ったかぶり、学歴批判、全体主義的な傾向、歴史に顧みられない短絡的な政局運営などのこと。

    論者として印象的だったのは、内田、赤坂、高橋。
    知識人に対して、反知性を突きつけることの難しさがある。

  • 反知性主義とは余裕のなさがもたらすものだという想田和弘氏の意見が一番納得できました。長年の不況によって余裕をなくした企業、「決められない政治」を嫌った有権者が選択した第2次安倍内閣、検索によってすぐに「答え」が出てしまうインターネットと今の日本は反知性主義におちいる環境になってしまったと思います。

  • ざっと一読した後、ずいぶんいろいろ考えた。その通り!と溜飲の下がる思いで読んだ箇所もある。複数の方が橋下大阪市長について言及している。やはり「日本の反知性主義」と言って真っ先に思い浮かぶのは、安倍首相よりこの人だろう。特に名指しされていなくても、ずっと橋下氏の顔が(攻撃的な物言いと共に)浮かんでくる。特に編者の内田先生と、今をときめく論客の白井聡氏による批判が舌鋒鋭く、読ませるものになっている。

    ただ、それぞれの論者の問題意識にはかなり幅がある。そのせいもあってか、じっくり考えれば考えるほど、「反知性主義」とは何なのか、曖昧になってくるような感じがある。確かに日本の社会が、どんどん「非知性的」になっていっているということは多くの人が感じているだろう。「幼児化」といってもいい。そうではあるけれど、それは反知性「主義」と呼べるものなのだろうか。それが事の核心なのだろうか。読み返しつつ、もう少し考えたい。

  • 最初と最後のあたりをしっかりと読むべき

  • 誰にも、いつでも反知性は舞い降りて、支配される。グローバル化や合理化が反知性を生み出す要因というのは少し飛躍しすぎかもね。読みどころは内田先生と名越先生の掛け合いのところかな。

  •  「歪み」を見つけること、そして、その「歪み」を描くこと。それが「知性」だ。「歪み」が見えることを、「知性」がある、っていうんじゃないかな。クラムには、「知性」があった。「知性」は考える前にある。それは「視力」なんだ。だから、(目が見えない)誰よりも、「速い」ってわけさ。(p.124)

    「ヤンキー論」が論壇を一回りした後に、恣意的な引用や聞きかじりのコピペをネタに語られはじめている「ヤンキー2.0」は、事実関係の当否や論理の整合性よりも、ページビューを呼びこむ見出しのどぎつさや、読み物としての刺激の強さを重視している分だけトンデモ方向に舵を切った物語になっている。
    よって、「ヤンキー」という言葉を無批判に大量使用している文章は、信用できない。参考にすらならない。(p.183)

    知性は大切なものだ。
    そして、学問はありがたいものだ。
    私たちはそれらを自分たちの手に取り戻さなければならない。
    テストの成績をネタに友達と引き離されたことを、私たちは、心の奥底で恨んでいる。
    で、犬のクソを踏まされた子供が犬嫌いになるみたいにして、学問に敵意を抱いたりしている。(p.198-9)

    僕がレヴィナスを読んだときに感じたのは、いくら文章を読んでもわからないけれど、レジなすが今思考している一番中心の、核の部分で熱く脈打っているものに直接触れたいという渇望だったんだと思う。理解できないけれど、触れたい。だから、写経するような気分でずっとレヴィナスを読んで訳してきたわけですよ。でも、写経していると、どこかの段階で自他の同期が起こるんですよね。僕自身の考え方や語り口がレヴィナスに感染して、レヴィナスに憑依されてしまう(笑)。僕は確かにレヴィナスの読み方をレヴィナスから学んだのだと思う。レヴィナスのテクストの解釈の仕方をレヴィナス自身から学んだ。(p.229)

    どうしてもその杭を中心とする同心円から出てゆけない。どんな新しい経験をしても、全部古い経験のスキームの中でしかその意味を解釈できない。トラウマって、そういう種類の病気ですよね。このスキームへの固着からどうやって自分を解き放つか。僕の眼には、今日本全体がある種のトラウマ的な状態に陥っているように見えるんです。みんなが「今・ここ・私」に居ついている。(p.240)

    いろいろなことがほんとうに便利になってきた。標準化や定型化により、それぞれの研究室からでデータを比較検討することがたやすくなるのだから、科学の進歩という面ではすばらしいことばかりである。しかし、標準化や定型化といった方向性が示されていれば、それにしたがって研究をおこなうことが前提になる。考える必要がないとまでは言わないが、創意工夫のはいる余地が少なくなってきてしまっている。すなわち、型が大事になって、個人の「知性」があまり必要ではなくなってきているのだ。(p.264-5)

全53件中 31 - 40件を表示

著者プロフィール

うちだ・たつる 1950年東京生まれ。武道家(合気道7段)。道場兼能舞台兼私塾「凱風館」館長。神戸女学院大学名誉教授。翻訳家。専門はフランス現代思想史。東京大学文学部卒業。東京都立大学大学院人文科学研究科修士課程修了。ブログ『内田樹の研究室』。



「2019年 『そのうちなんとかなるだろう』 で使われていた紹介文から引用しています。」

内田樹の作品

ツイートする