「ビックリハウス」と政治関心の戦後史 サブカルチャー雑誌がつくった若者共同体

  • 晶文社 (2024年7月25日発売)
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  • 本 ・本 (348ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784794974365

作品紹介・あらすじ

「政治に関心がない」とされがちな若者の第一世代である「しらけ世代」。彼らはほんとうに政治や社会運動に関心がなかったのか? そして、なぜ現在に至るまで非政治的だとみなされているのか? 糸井重里、橋本治が編集に参加し、YMOやタモリもたびたび登場した伝説的サブカルチャー雑誌『ビックリハウス』(1975―1985)から、「若者」たちの心のうちと彼らの”運動”の実態、その意図せざる帰結を実証的に明らかにする。
各メディアで活躍する社会学の新鋭が「若者の政治離れ」の源流に迫る渾身の一冊。

感想・レビュー・書評

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  • 「若い頃が最強」は幻想。社会学者 富永京子さんに学ぶ「社会の気長さ」 - MIMOSA MAGAZINE(2024-03-05)
    https://mimosa-mag.prudential.co.jp/_ct/17685347

    富永 京子 プロフィール | 文春オンライン
    https://bunshun.jp/list/author/5c36a8dd7765615c7f000000

    一枚岩にならない個人化時代の「社会運動サブカルチャー」 - 富永京子 | ISSUE01 | RESEARCH STORIES | 社会学研究科 | 立命館大学 大学院
    https://www.ritsumei.ac.jp/gss/research-stories/issue01/story03.html/

    富永 京子 – 立命館大学生存学研究所
    https://www.ritsumei-arsvi.org/member/member-29/

    「ビックリハウス」と政治関心の戦後史 | 晶文社
    https://www.shobunsha.co.jp/?p=8312
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    (yamanedoさん)本の やまね洞から

    • 猫丸(nyancomaru)さん
      ◆パロディで笑い飛ばす[評]小林哲夫(ジャーナリスト)
      <書評>『「ビックリハウス」と政治関心の戦後史 サブカルチャー雑誌がつくった若者共同...
      ◆パロディで笑い飛ばす[評]小林哲夫(ジャーナリスト)
      <書評>『「ビックリハウス」と政治関心の戦後史 サブカルチャー雑誌がつくった若者共同体』富永京子 著:東京新聞 TOKYO Web
      https://www.tokyo-np.co.jp/article/349371?rct=book
      2024/08/27
    • 猫丸(nyancomaru)さん
      エッセイ > シニシズムの時代の終わり ちづこのブログNo.165 | ウィメンズアクションネットワーク Women's Action Ne...
      エッセイ > シニシズムの時代の終わり ちづこのブログNo.165 | ウィメンズアクションネットワーク Women's Action Network(京都新聞2024年11月17日付け1面コラム「天眼」から版元の許可を得て転載)
      https://wan.or.jp/article/show/11629
      2024/12/17
  • 「ビックリハウス」という雑誌は一度も読んだことはないが、いかに自分がその影響を間接的に、しかしどれほど受容し内面化してきたかを突きつけられた本。学術書なのに、何度も動揺し胸が締め付けられた。

    まず『第1部 日本人は政治と社会運動に背を向けたのか?』において、日本の「代表制民主主義」が、一般的な「私生活を享受する人々」にとっては「公的参加をコストとみなすため、自ら政治に参加するより代議士たちに政治を委託するほうが望ましい」という記述に、痛いところを突かれた思いがした。「参加民主主義」における政治参加は価値あるものになるが、他者に政治を委ねる「代表制民主主義」では社会運動や政治参加をコストと考えてしまいがちという指摘に自分が該当してしまうことに反論の余地がない…。

    そして社会運動を忌避し、揶揄・冷笑するようになった源流は、「規範」「大義」「強い力」「べき」で人々を引っ張ろうとした先行世代に対して強く反抗・対抗したものであったことを、本書を読んで理解し納得。

    しかしそんな先行世代に対抗した当時の世代の原動や動機などつゆ知らず、政治や社会に対して問題意識を持つのはダサくて笑いのネタにするのを良しとする価値観だけを当時のサブカルによって植え付けられた結果、無意識に『「政治参加・社会運動への揶揄・冷笑・攻撃」と「差別を笑いにする態度」』が私のうちに内面化されていた…。

    そして、本書の『おわりに』にある著者の記述した態度に身に覚えがありすぎて震える。

    『「私ブスだからさあ」で始め、幾度となく披露した自虐と下ネタ。ぬるくなった場の空気をどうにか波立たせたくて放つ、ブラックジョークというには洗練もされてない不謹慎な毒舌。一方で空気が悪くなれば「まあ、とはいっても人それぞれだからね」とお茶を濁す。なぜそれほどにも私は、規範や啓蒙を嫌い、ときには「価値観の押し付け」として忌避し、「本音」という名の露悪に突き進んだのだろうか。ほどよく閉鎖された共同体で繰り返す冗談やおちょくりの渦は、公正や平等といった価値を「きれい事」や「偽善」とみなす方向に、私の心を知らず知らずのうちに巻き込んでいった。』

    あの時代の主流は、メジャーなトレンディーものか、ヤンキーやギャル文化のほぼ2択で、どちらも相容れなかった自分にとっての逃げ道はサブカルしかなかった。天邪鬼な性格の自分との親和性が高かったのもあり、存分に享受してしまったが、近年のフェミニズムの流れや社会に真摯に向き合う韓国文学に出会えて、昭和後期〜平成のサブカルがどれほど無責任で文化的マチズモをぬくぬくと醸成していたかに気付くことができた。そして過去の自分の無責任な言論を恥じ入り、時代の限界があったと分かりつつも、多感な時期にその文化を無防備に受け入れてしまったことが悔しくてたまらない。

    ビックリハウスという雑誌を形成し支持した世代にとって、先行世代が押し付けた綺麗事や根性論に対してアンチテーゼな態度を取るのは必然だったろう。しかしその時代が終わっても冷笑主義が現在でも脈々と引き継がれている功罪を思うと、どうにかしてこのような姿勢を断ち切りたいし、私を含む古い世代の価値観がいまの若い世代への悪影響になっていないか自問し続けたい。ネットもSNSも無い情報の乏しさと選択肢が少ない時代を過ごした世代にとって「多様」さはありがたいものだが、情報過多が当たり前の世代の現行の苦しみを軽んじず、旧世代の言論でかき消さないようにしていきたい。

  • 読みながら、いまの”ネトウヨ”的な空気の源流に『ビックリハウス』に代表されるノリがあるのではないか? という仮説が頭をよぎった。

    イナカを笑うというのは如何にも80年代的な”ナウい”時代のテーマであると思うが、紹介されている投稿をみると、おそらくは、自虐であり、都会に憧れながらもナニクソと感じている10代の叫びのようなものも感じるが、バレない様に差別用語を言い換えようというのは、まさしく”冷笑”的態度であって、なるほど”しらけ”ている。

    冒頭のような仮説が頭をよぎったのは、そういった冷笑的態度と自虐がない交ぜになったところにネトウヨ的なモノがあると考えるからである(そこと反知性主義との出会い)。

    七〇一八〇年代の消費社会論や私生活主義論において、消費社会における私生活を通じた共同体は政治的・社会的コミットメントを行ったにもかかわらずそうとはみなされなかった。それがなぜなのかを考える上で、①対抗性・政治性を有している可能性があるにもかかわらず、◎政治的・社会的コミットメントに至らない主体としてみなされた、かつ、③読者共同体が学術的分析の対象となりうるレベルで可視的である雑誌が適切だと考えたため、筆者は「ビックリハウス」を選定した
    ─ 104ページ

    著者はこのように理由を書いているが、その前段に糸井重里に代表される人たちが活躍した場ということで『ビックリハウス』を選んだのではないか? と『ビックリハウス』を知らない世代としては考える。

    『ビックリハウス』の読者参加について鶴見俊介が”大衆が大衆に対して感じ(プライヴェイト・メッセージを訴える場」だと説くのに対して、椎名誠が編集者が作り出す「ウケウケの傾向」「ヨロコビそうな話やセリフ」を察知して投稿しているのにすぎないと批判していることが紹介されているが(278頁)、これなぞは正にいまのXではないか。

    如何にもネトウヨに受けそうな排外主義を声高に口にするジョーカーなぞはハガキ職人が政治の世界に打って出たようなものである。

  • 若者は政治に関心がないと言われるが、本当にそうなのか?
    実態は関心がないわけではない、しかしどのようにそれを表現すればいいのかがわからない。1960年代〜70年代にかけて醸成された規範(反戦平和や女性解放運動、サブカルチャーの受容のあり方)へ対抗意識が1980年代の若者共同体にあった。一方でその規範自体の矛盾が1980年代の若者共同にいて花開いた。
    つまり、前の世代が求めた多様性が大事という価値観を受け継ぐが、多様な価値観を獲得してきたその運動自体が、新しい規範となってしまう。
    ビックリハウス内の読者投稿欄においては「反戦平和運動」的なもの、「女性解放運動」的なもの、「ロックは反権力としてメッセージを受容すべき」的なもの、が拒否される。これは多様な価値観を目指す運動がその目的をある程度達成し、その運動に内包していた「〇〇すべき」という強制力がその多様な価値観=「祖父は戦時中に〇〇したらしいけど、それは私たちにとっては面白い投稿として受容できるよね」、「バリバリのキャリアウーマンになって真面目ですごいけど、面白いの?」「自分はロックを自由に聴いているだけ」などのように茶化して受け入れることで、80年代の若者共同体のオリジナルな受容、自分達らしさを表現していた。
    それは「政治に無関心な若者」、つまり政治に関心がないわけではないが、政治活動や運動という表現を忌避する若者という現象がそこには現れていた。

  • 配架場所・貸出状況はこちらからご確認ください。
    https://www.cku.ac.jp/CARIN/CARINOPACLINK.HTM?AL=10282069

  • 社会運動に対する忌避、揶揄、冷笑の裏には、ビックリハウス編集者の世代にある、その先行世代が掲げた規範や大義などの「かくあるべき」という枠組みにたいする反発があり、ひとそれぞれ、という多様性を尊重した結果だった。

    著者が研究の間に考えていたという、過去の不謹慎な発言や振る舞いに対する償い、という言葉には身につまされた。

  • 東2法経図・6F開架:309A/To55b//K

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著者プロフィール

1986年生まれ。立命館大学産業社会学部准教授。シノドス国際社会動向研究所理事。専攻は社会運動論・国際社会学。東京大学大学院人文社会系研究科修士課程・博士課程修了後、日本学術振興会特別研究員(PD)を経て、2015年より現職。著書に『社会運動と若者──日常と出来事を往還する政治』(ナカニシヤ出版)、『社会運動のサブカルチャー化――G8 サミット抗議行動の経験分析』(せりか書房)、『みんなの「わがまま」入門』(左右社)。

「2024年 『「ビックリハウス」と政治関心の戦後史––––サブカルチャー雑誌がつくった若者共同体』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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