フランソワ・ラブレ-の作品と中世・ルネッサンスの民衆文化

  • せりか書房
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感想 : 5
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  • Amazon.co.jp ・本 (432ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784796700702

感想・レビュー・書評

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  • 亡くなって復活か - 本はねころんで
    https://vzf12576.hatenablog.com/entry/2021/03/03/200513

    ミハイル・バフチン『フランソワ・ラブレーの作品と中世・ルネッサンスの民衆文化』笑いは世界を再生させる |
    https://uedanobutaka.info/official/2019/08/05/%E3%83%9F%E3%83%8F%E3%82%A4%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%83%90%E3%83%95%E3%83%81%E3%83%B3%E3%80%8E%E3%83%95%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%82%BD%E3%83%AF%E3%83%BB%E3%83%A9%E3%83%96%E3%83%AC%E3%83%BC%E3%81%AE%E4%BD%9C/

    フランソワ・ラブレーの作品と中世ルネッサンスの民衆文化 序論―問題の設定 その1 - garage-sale
    https://garage-sale.hatenablog.com/entry/20180606/1528263906

    せりか書房●思想・哲学 (川端香男里)
    http://www.serica.co.jp/search/book1.htm#kawabata

  • 非常に読みたい。優先度高い。

  • 大学1年生の夏に読破! ものすごく分厚かったが、中身は面白い。カーニバルと価値の反転、ポリフォニーについてあれこれと議論していた。バフチンの基本的な思考枠組みを知るための好著でもある。

  • この432頁におよぶ分厚い本は、私の読書傾向のエッポックメーキングとなったもので、思い出深いといえばそうに違いないのですが、10年余の間に三回読んではいますが、たしかに三度も読破したにはしましたが、いまだに未踏の山という気持ちは拭いきれません。

    若気の至りとはよくいったもので、あるいは無鉄砲・恐いもの知らずは若さの特権ですが、引用だとか援用もしくは参考文献の彼方まで飛翔するんだ、という能天気な心意気やよしとしても、いくら背伸びをしたところで、世の中には、どうしても凡人の頭では及びもつかない難解なものがあるのだということを、手痛いほど味わった最初の本でもあります。

    カーニバル・道化・祝祭的・グロテスクなどのキーワードが頻繁に出てくる本書は、もちろん圧倒的な山口昌男の影響のもとに読まれようとした本でしたが、彼の文化人類学的な著作より数倍手ごわい相手でした。

    哲学書などの、いわゆるふだん使い慣れていない言葉や概念から発する、手に負えない難解さとはまた別個の、単純に前提として深い教養が不可欠という、言いかえれば、こちらの教養のなさが原因でチンプンカンプンだということには、それこそお手上げ状態でした。

    まず、なんといっても分析されている対象のフランソワ・ラブレーのことをほとんど何も知りません。かててくわえて、その根底にあるキリスト教そのもの、およびキリスト教的な文化・文明についてもまったくの無知では話になりません。

    つまり、この本を読むためには、まずラブレーを読まなくてはならないし、それに彼を取り巻く幾重にも重なった西洋文化の理解・享受も合わせて追求するはめになったのです。

    それは、ちょうどそのころ近づいた高階秀爾の『西洋芸術の精神』や『美の思索者たち』あるいは『想像力と幻想』などの著作を読むときに感じたことでもありました。個々の画家の絵を凝視して味わい、彼らの主義主張や史的変遷を多少とも知っているだけでは、その絵のことは半分も理解できないのだということがわかったからです。

    100%は難しいとしても、キリスト教にまつわる文化・生活習慣・民俗などを理解・熟知すること。まずなにより、日本的発想に依拠した目で見ないということが必要だ、とまで極端になることはないのですが、その覚悟も必要かもしれません。

    それが契機でした。それからというもの、こうなりゃ矢でも鉄砲でも持ってこいという感じで、時代や国籍を問わず、小説はもちろん詩や美術にも、否、人類史そのものに大いにのめり込んでいった、といっても過言ではありませんでした、なんちゃって。

    バフチンから拡散して、さらにシュールリアリズムからアバンギャルドやダダへと飛沫した関心は、文学的には(それに社会学的にも)ベルトルト・ブレヒトやヴェルター・ベンヤミンを発見し、やがてロシア・フォルマリズムを経由して、ローマン・ヤコブソンの言語学や構造分析を媒介に、クロード・レヴィ・ストロースの人類学や、フェルディナン・ド・ソシュールやノーム・チョムスキーの言語学まで手を伸ばすに至りましたが、図書館や父の蔵書を借りて読んでいればいいものを、なんと身の程知らずにも高校生の分際で、高価な翻訳本もさることながら、とうていわかるはずのない原書にまで手を伸ばすという、狂気千万な不良行為・愚行にまで及ぶとは、いやはや・・・。

    この頃にはまだ、人生は短く人が成せることは限られているなどとは夢にも思っていなかったのでした。

    そんなことはともかく、本書の対象としているフランソワ・ラブレーの『ガルガンチュア』は、私も読んでみて驚いたのですが、ミハイル・バフチンのいうように、大笑いを誘い、ときに猥雑で、スカトロジック(糞便趣味)で、不謹慎・不真面目なこじつけと、どこか崇高ささえ感じる下卑たものへの執着や、お祭りどんちゃん騒ぎなどが混在した玩具箱をひっくり返したような物語なのです。

    筒井康隆やスラップスティックの洗礼を受けた現代の私たちからすれば、賛同と賞賛を持ってなんなく受容できるのですが、本書の出された1964年当時はそうはいかず、バフチンも≪グロテスク・リアリズム≫なる新概念を引っさげて、ラブレーの作品を通して中世・ルネッサンスの民衆文化の特色、すなわち近代とは違った、近代では忌み嫌うような、笑いが本質的であるような、しかもその笑いは対立する者が存在しない、私たちがイメージするような嘲弄や風刺ではなく、みんなで一緒にドッと笑うということ。

    笑いによって世界を相対化させ、崇高なものが引きずりおろされ、卑猥なものが神聖化され、死者が蘇生し、そうして世界は絶えることなく再生され、生者も死者も共存する共同体が夢見られるというのです。

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ミハイル・バフチンの作品

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