- Amazon.co.jp ・本 (320ページ)
- / ISBN・EAN: 9784797673814
作品紹介・あらすじ
◎ベストセラー『エンジェルフライト』『紙つなげ!』に続く、著者のライフワーク三部作の最終章。
◎著者がこだわり続けてきた「理想の死の迎え方」に、真っ正面から向き合ったノンフィクション。
◎2013年に京都の診療所を訪れてから7年間、寄り添うように見てきた終末医療の現場を感動的に綴る。
200名の患者を看取ってきた友人の看護師が癌に罹患。「看取りのプロフェッショナル」である友人の、死への向き合い方は意外なものだった。
最期の日々を共に過ごすことで見えてきた「理想の死の迎え方」とは。
著者が在宅医療の取材に取り組むきっかけとなった自身の母の病気と、それを献身的に看病する父の話を交え、7年間にわたる在宅での終末医療の現場を活写する。
読むものに、自身や家族の終末期のあり方を考えさせてくれるノンフィクション。
佐々涼子(ささ りょうこ)
ノンフィクション作家。1968年生まれ。神奈川県出身。早稲田大学法学部卒。
2012年、『エンジェルフライト 国際霊柩送還士』(集英社)で第10回開高健ノンフィクション賞を受賞。文庫と合わせ10万部を売り上げた。
2014年に上梓した『紙つなげ! 彼らが本の紙を造っている 再生・日本製紙石巻工場』(早川書房)は、紀伊國屋書店キノベス第1位、
ダ・ヴィンチBOOK OF THE YEAR第1位、新風賞特別賞など数々の栄誉に輝いた。
感想・レビュー・書評
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皆さまの素晴しいレビューのあとで、この本の趣旨とは違う感想かもしれませんが本音を一応書きます。
本屋大賞だったので読みました。
私は現実を突きつけられて、読まなかった方がよかったとも思いましたし、読んでおいてよかったとも思う矛盾した二つの気持ちがありました。
200人以上の患者在宅医療で看取った看護師だった森山文則さんに2013年から2019年まで在宅医療で出会った人々を取材し、その姿を書き且つ、森山さん自身が在宅看護により癌でなくなるまでを全うした記録です。
この本に出てくる人々の多くは自ら死を選び取って果敢に亡くなっていきます。
自分はこんな風にできるものなのかと、こんな素晴らしい手記を読みながら考えに考えたけれど、答えはNOです。
NOと答える人が少しでもいなくなるようにと、著者はこのような本を書かれたのだと思いますが。
あまり直視したくない現実を目の当たりに読んだ気がしました。
私もいい歳ですが、自分の死後のことは考えたことがほとんどないので、一度良く考えておいたほうがいいと思いました。
私はなぜか「自分はぽっくり逝く」としか思っていなかったので、いい勉強でした。
もし癌になったら、この本を思い出してもう一度読んでみたいと思います。
人は誰もが亡くなるものだということをあらためて考えさせられました。 -
以前読んだ佐々さんのノンフィクション「エンジェルフライト」にいたく感動し、忘れられない書となったので、こちらもぜひ読んでみたかった
ちなみに「エンジェルフライト」は国際霊柩送還士のこと
海外で何らかの事情で亡くなった方のご遺体を日本の他へ戻す壮絶な職業だ
一方本書はエンゼルフライトでノンフィクション賞受賞後、在宅医療について取材を編集者から勧められたことがきっかけで執筆に至る
在宅医療とは、通院が困難な人や、退院後も治療が必要な人、自宅で終身医療を望む人などのために、彼らの自宅に医者や看護師が訪問して行う医療だ
「エンジェルフライト」の時は確か無かったと思うのだが、佐々さん自身のことに触れている
やはり「死」をテーマにしているため、「死」が集まってきてしまい
人の不幸を生業としてきたことに対する違和感を感じていた…とある
不幸を嫌いながら不幸を覗き込むことをやめられない自分
自律神経のバランスを崩し、長い間執筆活動が困難であったようだ
「エンジェルフライト」を読んでも思ったのだが、生半可なエネルギーでは立ち向かえないであろうし、まさに身を削る執筆活動であったと察する
だからこそ、多くの人たちに感動を与えたのだろう
そんな佐々さんがあるきっかけで再び執筆を再開することに…
今回の在宅医療の取材で出会った本書のメインとなる森山だ
彼は200名の患者を看取ってきた看護師であるが、ステージⅣの膵臓癌が発覚する
印象的な森山の言葉
〜僕は僕自身であって「がん患者」という名前の人間ではない
病気は僕の一部分でしかないのに、がんの治療にばかり目を向けていたら、がんのことばかり気にする人生を送ることになってしまう…略…
普段はがんを忘れ、日常生活という、僕の「人生」を生きていきたい〜
彼の命の閉じ方は彼の生き様でもあるのだと、痛感した
他にも様々な事情で在宅医療や在宅介護をしている人達の真実の物語がいくつもある
介護する側もされる側もやり場の無い怒りや悲しみがじっとり張り付く
綺麗事などひとつもない
その中にも救われる様な、家族愛の話しもあるものの、出会う医師や病院により途方もない格差がある事実も知ることに
その中でも印象的なのは、佐々氏のご自身のご両親の話だ
佐々氏のお母様は難病を患い、完全看護の必要な状態であり、お父様がご自宅で看ておられる
自身は他人の介護医療の取材をしているが、自分の母親の面倒は父親に任せきり…
と、複雑な心中を明かす
リアルな介護内容であり、身内のそのような姿を赤裸々に描くのは、相当な勇気を持って書かれたことがよくわかる
愛情を持って手厚くお世話しているお父様と、一時入院され、看護師が業務的にお世話された時のあまりにもの違いに驚いた
こういう看護師さんばかりではないと思うのだが、これほどの差が出るとは…
自分自身が介護に関わったことが一切なく、家族や親族の病院へのお見舞いさえも気が重くなる
こんなんでいいのか…という自問自答があり、一度はこういう本を読むべきだと思ったが…
もちろん目を逸らしたくなる内容や、受け入れ難い事実も沢山ある
介護される側の人の気持ちや、死を前にした人の心境
わかっているようでわからない、自分がその立場にならないと理解できない事実もたくさんある
その人の肉体の生死を超えた、存在意義みたいなものの尊さ
自分が誰かに与えられるとしたら…
そう、誰かの中で存在し続けるのだ
死があるから生がある
生があるから死がある
もしかしたらある意味イコールなのかもしれない…
決して誰もが避けて通れない
嫌でも向き合う時がくる
読んで良かった
本書の出会いに感謝する
(佐々氏のノンフィクションはどうやら自分的に受け入れやすいようだ) -
ズンときた。
200名の患者を看取ってきた訪問看護師・森山のガンが発覚する。ステージⅣで余命が決して長くないという。森山の患者との過去の関わりと自らの死との向き合い方、選んだ最期の生の生き方を交互に描くことで、決して長さでは測れない「命の質」について浮かび上がらせる。
僕ら健康な者は、なぜ、未来は永劫続くような錯覚をするのだろう。
誰でもいつか死ぬ運命のはずだ。余命宣告されたがん患者とのちがいは、死の訪れがいつなのか予測がつかないことだけなのに。
そして、限りがあることに気づいた時、何が見えてくるのだろう。
エリザベス・キューブラー=ロスは死の受容のプロセスを5段階に分ける。
1.否認と孤立:頭では理解しようとするが、感情的にその事実を否認している段階。
2.怒り:「どうして自分がこんなことになるのか」というような怒りにとらわれる段階。
3.取り引き:神や仏にすがり、死を遅らせてほしいと願う段階。
4.抑うつ:回避ができないことを知る段階。
5.受容
この本で森山は、この5段階を経て、安らかな「命の最後」に至る。200人看取っても、否認や怒り、取引の段階がある。
だか、結末は重く苦しいものだけはでない。
森山は懸命に生ききる。そして、生ききったことへの満足がある。なぜか読後感は暗くならず、未来すら感じる。
ー 亡き人がどう生き、どういうメッセージを残したかは、残された人に影響を与える。
ー 死は遺された者へ幸福に生きるためのヒントを与える。亡くなりゆく者がこの世に置いていくのは悲嘆だけではない。幸福もまた置いていくのだ。
だからこそ、命の閉じ方は大事だと思う。
そして、死の訪れがまだいつか分からない者は、死との対比で生を考える機会を持つことが必要だと思う。
人は生きてきたようにしか死ねない。
大切に生きよう。
・がんサバイバーは、若いのにかわいそうって言われるのが一番つらい。
がんになることによって、時間の進め方や、景色の見え方が変わる。がんになっても、素敵なことや、幸せなこと、喜びもいっぱいあるのに、若いからってどうして悲劇のように言うのかと。自分の人生の何がわかるのかと。
・病を得ると、人はその困難に何かしらの意味を求めてしまう。
人は意味のないことに耐えることができない。 -
在宅医療をテーマにした本を書くため京都の診療所を取材した著者は、6年後、診療所で看護師として働く森山からがんに罹患したことを告げられる。看護師向けの在宅医療の教科書を執筆したいから協力してほしい、という彼の希望に応じ取材を始めた著者だが、病が進むにつれ、森山は意外な反応を見せていく。
在宅医療の取材と6年後の森山の取材、自身の母を看取った経験を織り交ぜながら、在宅医療、終末期医療、医療全体のあり方を考えるノンフィクション。
森山の取材を始めた著者だったが、彼からは在宅医療について一向に話される気配はなく、家族との旅行や買い物につきあい、雑談を聞くことに終始する。
彼は治癒を信じることでがんを消滅させることができる、と語り、これまで従事してきた西洋医療を否定するかのような態度をとるのである。
本書では、著者が6年前に行った在宅医療の取材の様子が描かれ、その間に森山の取材が挟み込まれる構成となっている。6年前の取材によって森山がどれだけ在宅医療に熱心に取り組んできたかがよくわかるだけに、病を得てからの彼の態度は、著者にとっても読者にとっても不可解に感じてしまう。
いよいよ死期が迫った彼は、おだやかに身辺整理をはじめていくが、それでもなお在宅医療について著者に語ることはしない。
これが最後のチャンス、とそのことを問う著者に対し、森山はふふふっと笑ってこういうのである。
「何言ってんですか、佐々さん。さんざん見せてきたでしょう。」
本書では、様々なケースの在宅医療患者や家族が描かれる。最後の一瞬一秒まで家族との思い出を作ろうとする患者。季節外れのどじょうが食べたいと森山に町中を走らせる患者。苦しみに耐えながら生きる意味を見つけられず、家族に当たり、離婚に至る患者。近しいからこそ手のかかる患者に怒りをぶつけてしまう家族。在宅医療は選択肢の一つではあるけれど、決して正解ではない。
森山は、在宅医療で携わった患者さんたちから生きざまを学び、自身は最後まで自分らしく生きるために、医療や看護を受けることなくただ遊んで暮らすことを選んだ。看護師をしていた時は家族と向き合う時間が少なかった彼にとって、残された時間を患者としてではなく、普通に生きている人間として家族と精いっぱい楽しむことが理想の終末だったのである。
「かわいそうとか、大変だとかいう言葉で片づけてほしくない。そこには長さでは測れない、命の質というものがあるはずなんです。」
「生きてきたようにしか、最後は迎えられないからね。自分が生きてきた中でどうしたらいいのか、世の中のしがらみの中でだけ生きてきた人は、その時になって考えろって言われても、どうしていいかわかんないんじゃないかな。でもそれは、その人のせいというわけじゃなく、そういう風に生きてきたことを、周囲も自分も許してきた中での結果だから。」
人はいつ死ぬかなんてわからないのに、そのことを考えずに日々暮らしている。森山の言葉が綴られた本書は、看護師だけでなく、何気なく生きている私たちにとっても、これまでの、これからの人生を考え直すための教科書である。 -
「エンド・オブ・ライフ」
読書ノート、いま30冊め。
そして、このブクログの記録。
これらも、一つのあゆみ、足跡。
だから、匿名ではなく、リアルに記載しています。
1.2019年に読みたいに登録
2018.01.23。
検査が終わった病室で、告知を受けました。
外には、家内と娘が待っていました。
病室から出て、彼女らと面会するまでに、考えたことは、なんで、、、と、さて、どうしよう?
というものでした。
2018年、二回手術して、いまも、薬との戦いです。
2018年から、読む本が変わりました。
がんの本、こころの本、笑いの本。
ビジネス一本の人生が少しだけ、自然に方向が変わりました。
その過程で、この本のタイトルに惹かれて、読みたいに登録したのは昨年でした。
2.がん家族は、第二の患者である。
入院した病棟は、同じ部位の手術の人々でした。
人生で初めての手術、入院は、検査を含めて戸惑いも、不安もありました。
40台の私は、周りと比較して若いため、色々と教わる立場になりました。
自然に。
ある患者さんから、「あなたもつらい。でも、あなたの家族も同様に、いやもっとつらい。なぜならば、あなたを理解したいが、理解できないから。」
突き当たりの廊下で、窓の外を見ながら、教えてもらえたこの言葉に、涙が止まりませんでした。
告知を受けてから、初めて流した涙がこれでした。
堰をを切ったかのように、流れました。
3.エンド・オブ・ライフを読みながら。
ある患者さんが、在宅医療の過程の中で、周りに問います。
「俺の人生の意味はなんだ?!
あと、20年は働きたかった。
痛みで、歩くもできない。
なんなんだ!!」
彼は、結果として、自殺という結論を選択したと記載がありました。
告知を受けてからの二年間で、本を通じて、自己を棚卸ししてきました。
僕が僕を知るために です。
その中で、私が私を受けいれるにあたり、腹落ちした言葉がいくつかありました。
手帳に記載して、毎日観察してから、仕事に入っています。ルーティンの一つです。
「人生に意味なんてないんだ。
意味を見出す、意味をつくるのは、あなた次第。」
「なった原因を考える。
仕方がない。
でも、少しずつ、なった意味について考えよう。」
「人生は、問題集のようなものだ。
今、目の前の問題は、解けるレベルだから、
現れた。
だから、解いてみよう。
正解なんてないのだから、まずは、向き合おう。」
登場するひとりひとりの人生に寄り添いながら、
私は、また、何かを勉強させてもらっています。
4.エンド・オブ・ライフを読み終えて。
不惑を過ぎて、50は知命。
日々の営みに、感謝を忘れないで、一つひとつ、進みます。
読み終えて、考えていること。
①当人にも、迷いも惑いもあること。
②それは、自然なこと。
③人がひとらしくありたいと願う、根源の希望は、主治医、看護師、ケアスタッフ、そして家族のみんなの理解と支えがあってできること。
何想う
これまでの道
一日(ひとひ)とも
小径(こみち)の草木
生命(いのち)励まむ
#エンド・オブ・ライフ
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今までたくさんの「最期」を扱った本を読んできた
しかし、それはあくまで小説でありフィクションだった
しかし、これはノンフィクション
京都で訪問医療を行っている渡辺西賀茂診療所に訪問看護師として働く森山文則さんに癌が見つかった
この本は、彼の依頼で後輩のために、森山さんがどうがんと向き合い最期を迎えたかを記録したものである
森山さんの闘病記録というには、ちょっと語弊がある
闘病というよりは、森山さんが最後の最後まで自分の意思でどう自分の命を生き切った記録といった方が適切だ
「予後を気にして生きていたら、それだけの人生になってしまう。僕は僕自身であって、『がん患者』という名前の人間ではない。病気は僕自身の一部分でしかないのに、がんの治療にばかり目を向けていたら、がんのことばかりを気にする人生を送ることになってしまう
普段はがんを忘れ日常生活という、僕の『人生』を生きていきたい」
と抗がん剤治療等、一切の西洋医学の治療を放棄された
普通に家で家族と過ごし、行きたいところに行き、食べたい物を食べ、自分のがんの声を聞きながら、最期を迎えられた
医療従事者であり、自分の身体のことも把握できているからの覚悟をもった言葉ではあるが、頭を後ろから殴られたような衝撃を覚えた
告知された途端、かん患者としてのレッテルを貼られ周囲は腫れ物に触るように接するだろうし、自分も恐る恐るの生活を送るだろう
森山さん以外にも、在宅医療で家族に看取られ理想的な最期を迎えられた方の事例は、悲しいというより感動的ですらあった 遺体に縋って泣き崩れるのではなく、家族や親族が拍手で臨終を迎えるなんて聞いたことがない
死にゆく人は、ただ世話をされ助けてもらうだけの無力な存在ではない。精一杯生ききることで、たくさんのことを残された者に教えてくれていることが分かる
高度先進医療を選択しない、別の豊かな世界があるはずだという。自分が意思表示できる環境であるならば、本人が日頃から治療方法について意思表示しておくべきだという
現代の医療や病院の抱えている問題にも鋭いメスが入れられていた
この本に出てくる人たちのように、信頼できる医師に巡り合え、良好な関係を築いて、理想的な最期を迎えられれば、それに勝るものはないだろうが、現実はそう簡単にはいかないだろう
私にはない視点を提示してくれたり多くの示唆を与えてくれた本だった
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この本で一番印象的なセリフ。
『人は生きたようにしか最期は迎えられない』
いきなりあと数ヶ月の命と言われても、人は生き方を変える事は難しい。
自分の意見を尊重できる環境下で生きていた人は、死ぬ時もちゃんと自分の考えを尊重出来るだろうし、逆に人に振り回されて生きて来た人は、最期も家族に振り回されてしまうもの。だからこそ常日頃から悔いがないように生きていきたいけれど。
私は在宅医療が絶対!とは思わないし、この本を読んでやはりそれは強く思った。いくら本人が望んでも、家族の負担は相当に重い訳だし、かと言って在宅医療ができない事を家族の愛情不足などと責めるのもまた違うと思う。本当に難しい。正解がないからこそ。
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森山文則看護師(48)の仕事は、患者が死を受容できるように心を砕き、残された時間を後悔のないように生きるよう導くことでした。
この数年間で彼は200人以上看取ってきました。
そんな彼自身がすい臓がんになり、
「命の閉じ方」を伝えます。
ライターである佐々涼子さんのお母様の死と
対照的に描かれていると思います。
たぶん多くの読者が、森山さんの閉じ方のほうが良いと思うことでしょう。
いえ、お母様も、彼女を愛するご主人の献身的な介護を受けていたのだから、幸せだったと言えるでしょう。
でも…。佐々涼子さん、よく書いてくださいました。
実のお母さんのことを…、お母さんだから、遠慮なく書けたのでしょうか。
自分、まだまだ先とは思いますが
本当にいろいろ考えさせられる本でした。
本屋大賞2020ノンフィクション大賞
おめでとうございます。 -
2013〜2019年、在宅医療で出会った人達のこと。
患者の最期の望みを献身的に叶えていく医師と看護師たち。
ノンフィクションだからこそ現実を感じる…。
そして終末期のあり方を考えさせられる。
訪問看護師も自身の知識、経験、技術などで人を救うだけではなく、どうやったら好きなものを食べさせることができるか考える。
「出かけたら身体に悪い」ではなく、どうやったらその人の気持ちに寄り添えるか知恵を絞る。
この本では実際に患者にそして家族にも寄り添った終末期を過ごさせていたと思う。
在宅の最も幸福な過ごし方をしてみたいと誰もが感じるだろう。
自分の好きなように過ごし、自分の好きな人と身体の調子を見ながら「よし、行くぞ」と言って好きなものを食べて、好きな場所にでかける。
そうしたい。心から思った。
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佐々淳子は、寡作のノンフィクションライター。2012年「エンジェルフライト 国際霊柩送還士」で開高健ノンフィクション賞受賞。2014年「紙つなげ!彼らが本の紙を造っている 再生・日本製紙石巻工場」でもいくつかの賞を受賞。そして本書は2020年発行、同年の本屋大賞のノンフィクション本大賞受賞作となっている。私は、本書で全作を読んだことになるが、寡作で、じっくりとした作品を書くライターという印象だ。
本作は終末期医療、在宅医療をテーマにしたノンフィクション。京都にある、渡辺西加茂診療所の活動と関わった人たち、そこで看護師を務めていた森山さんの終末期、そして筆者自身のお母様とお父様の物語などを中心にストーリーが構成されている。
印象に残るエピソードが沢山紹介されている。
京都の37歳の女性は末期の食道がんを患って入院している。家族は夫と小学校5年生の娘。その患者が一時帰宅をする。助からないと分かってはいるが、家族と思い出をつくるための退院だった。その機会に、家族は京都から愛知県の知多半島の海まで潮干狩りにでかける。それは、医療スタッフ等が付き添い、また酸素ボンベを沢山携行するような大掛かりな旅行であった。海での家族での時間を楽しんだ後、京都の自宅に帰宅してすぐに、その女性は息を引き取ってしまう。
その日の家族の様子の本書中の描写は感動的だった。余命いくばくもないことが、というよりも、これが家族で楽しむ最後の機会であることを、本人も家族も分かっているし、相手がそれを分かっていることをお互いに知っている中での小旅行。それを精一杯に楽しみ、お互いの愛情を確かめ合う機会となる。また、残された家族にとっては、ある意味でふんぎりがつくような機会となっていく。その様子が粛々と描かれていた。
このようなエピソードが本書中に沢山紹介されている。
それは他人のことであるが、それを読み、自分にとって生きることとはどういうことなのか、また、自分の家族との関係はどうなのか、といったことを自然に考えさせる作品となっている。
著者プロフィール
佐々涼子の作品






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今度逝く時は、若い人が自ら命を粗末にするのは良くない。と思って貰えるようにしたいなぁ〜
今度逝く時は、若い人が自ら命を粗末にするのは良くない。と思って貰えるようにしたいなぁ〜
「確かに」なご意見ですが、
>今度逝く時は…
って、猫丸さんは「100万回生きた猫」だったのですか?
よくわからない??...
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よくわからない???
にゃ〜
にゃ〜