- Amazon.co.jp ・本 (336ページ)
- / ISBN・EAN: 9784797674071
作品紹介・あらすじ
野口健はモンスターか、善意の活動家か?
人が人に関わることの、真の意味を問うノンフィクション
野口健は登山家として本当に「三・五流」なのか?
なぜ小池百合子をあれほど応援したのか?
さまざまな社会貢献を続ける本当の理由とは?
25歳でエベレストに登頂し、七大陸最高峰世界最年少登頂の記録を樹立。
富士山清掃などの環境活動、ネパール大地震の災害支援など、社会貢献に取り組む野口健。
18年間で3度、野口健事務所を辞めた元マネージャーが、訣別を覚悟して「アルピニスト」の素顔を描く。
これは単なる評伝ではない。人と人とのっぴきならない関係を描く、新しいノンフィクションだ!
●本作に登場する人物
服部文祥、栗城史多、村上龍、八代英太、
石原慎太郎、小池百合子、橋本龍太郎……。
角幡唯介さん(ノンフィクション作家) 推薦!
「蟻地獄のような磁場に引き込まれてゆく著者の葛藤! 新しい人物ルポの誕生である」
佐々涼子さん(ノンフィクション作家) 推薦!
「一気読み必至! カリスマ『登山家』に魅入られた作者は、いったい何の山に登っているのか」
大盛堂書店 山本亮さん 推薦!
「人間と関わるのはどういうことなのか。根源的な問いを突き詰めた今読むべき本だろう。ただただ、必読」
小林元喜(こばやし もとき)ライター。1978年、山梨県生まれ。法政大学経済学部卒業。早稲田大学大学院公共経営研究科修了。法政大学在学中より作家の村上龍のアシスタントとしてリサーチ、ライティングを開始。『共生虫ドットコム』(講談社)、『13歳のハローワーク』(幻冬舎)等の制作に携わる。卒業後は東京都知事(当時)の石原慎太郎公式サイトの制作・運営、登山家の野口健のマネージャー等を務める。現在に至るまで野口健のマネージャーを計10年務めるが、その間、野口健事務所への入社と退職を3度繰り返す中で、様々な職を転々とする。現在は都内にあるベンチャー企業に勤務。
感想・レビュー・書評
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【感想】
「登山家」と聞いて私が思い浮かべたのは、「孤高の職業」であった。死と隣り合わせの職業であるからこそ、真摯に山と向き合い、頂上を目指して寡黙に登り続ける。無酸素登頂、単独登頂、未踏破ルートの開拓など、登山にはある種の「競技性」が帯びるが、どの方法も「己の限界」を超えるギリギリのところで戦っているのは間違いない。
だが、かつて七大陸最高峰世界最年少登頂の栄誉を成し遂げた野口健は、そうした「ストイックなアルピニスト」とは対極の人物だった。彼の登山方法はありふれており、難易度も高くない。
山岳ジャーナリストの服部文祥は野口をこう評している。「登山家としては三・五流」と。
本書は、野口健の元マネージャーである小林元喜によって書かれたノンフィクションである。小林は18年間も野口のマネージャーを務めていたため、野口の「裏の顔」が満載である。小林自身「野口と刺し違える覚悟で書いた」と綴っているとおり、暴露本としての意味合いが非常に強い一冊だ。
では、3.5流ながらも何故野口がここまで知名度を上げたのかといえば、ひとえに「人を惹きつける魅力があった」「大衆の心を掴むアイデアマンだった」からである。
野口は第一線から退いた後も、エベレストでのゴミ拾い、被災地支援、シェルパ基金等の様々な活動を行っている。登山家としての活動は長女の野口絵子(名前の由来は「ECO」だ)に譲っているものの、今なお山と関わりを持ちながら環境啓発を行っている。こうした「頂上を目指さず、美化に努めるアルピニスト」というのは野口が先駆者であり、彼の活動に影響されて山を目指した者も少なくない。
だが、彼の裏の顔は、完全なる「パフォーマー」である。登山を始めたそもそもの動機が「自分を落ちこぼれだとみなした奴らを見返してやりたい」というものであり、環境活動の発端も参院選に出馬して政治家を目指すための名売りであったように、彼の活動のきっかけはなかなか俗っぽいものだ。もちろん、きっかけは何であれ行動と結果が伴っているのだから文句は言えないが、野口のパフォーマンスを優先させる思想を巡って様々な人間が振り回されていく。
そして、そんな野口と出会ってしまったのが筆者の小林元喜である。小林は野口とは真逆の人間だった。野口のように自身が果たすべき「役」が分からず、モラトリアムに浸かりながら迷走を重ねていた。石原事務所と野口健事務所の二足のわらじを履きながら、小説家を目指して小説を書き続ける。かと思ったらいきなり両事務所と関係を切り、実家に戻って司法書士の勉強を始める。だが失ってしまったものへの後悔から心を壊し、精神病棟に入院してしまう。絶望の淵に立たされた彼を助けたのは野口健だった。そして、小林はすべてを野口健に捧げることを決めたのである。
だが、その先に待っていたのは破滅だった。野口は完璧主義者であり、食い違いを許せない性分もあってか、些細な間違いでもスタッフを責め、理不尽なパワハラを加えていく。数々の奇行を受け多くのスタッフが辞めていくが、筆者は3度退職しながらも再び野口のもとに戻ってきてしまう。
それはひとえに「野口のカリスマ性」にあてられたからだ。野口はこの間にも、ヒマラヤでの学校建設や自然保護の為の国際会議の設立など、様々な貢献活動を実行している。そうした野口の輝かしい活躍を前に、「自分にも何かできるはずだ」と思い込む。全ては野口健というカリスマが起こしたものなのであるが、その実績を「自分の才能」と勘違いし、ずぶずぶと泥沼にはまっていく……。
何故人は野口に執着するのか。それは、一人では何もできない野口に対して、ある種の庇護欲を抱いてしまうからなのかもしれない。野口は間違いなく素晴らしい人物であるが、同時に少し触れればたちまち壊れてしまう危うさも持っている。そこに人は惹かれ、寄り集まっていき、「野口さんには自分がいなければ駄目だ」と思わせてしまう。まさにカリスマ性が成せる技なのだろう。
――「僕が思うに、冒険には主体性と創造性と困難性といった三要素がある。その中で野口健が突出しているのは、まず創造性だと思う。たとえば七大陸最高峰にしても、そこに世界最年少『記録』という創造性を出してきた野口健はいま考えても凄いと思う。『世界最年少記録』を冠り、自分でお金を集めて、なんとか登って世に出た。
それで、その後に野口健を真似する若者が続くわけでしょう。(略)当然、真似する側は価値があると思ってやるわけでしょう。でも、本当は違う。価値があるのは野口健だけ」
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この本は、なにかに取りつかれた人間たちの回想録である。コンプレックス、嫉妬、依存、名声、承認欲求……。本書の結末は明るいが、そこに至るまでは暗い。野口という人間も同じで、外から見れば輝く聖人だが、その裏には誰をも飲み込む深淵が眠っている。
本書はノンフィクション本大賞2022の最終候補に残っているが、まさにそれに値する傑作だった。ぜひ手に取って読んでみて欲しい。
また、この本を読んだ方は、ぜひ『デス・ゾーン 栗城史多のエベレスト劇場』を読んでほしい。野口と同じく「アマチュア登山家」と呼ばれながら、野口と全く逆の人生を歩んだ人物だ。世間の注目を浴びながら山を降りた野口と、引き返せずに命を落とした栗城。対照的ではあるが、二人の根底には同じものが流れている。
https://booklog.jp/users/suibyoalche/archives/1/4087816958
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【まとめ】
0 まえがき
野口健は1999年に、25歳でエベレストの登頂に成功し、七大陸最高峰世界最年少登頂の記録を樹立したアルピニストだ。登山活動と並行して、富士山やエベレストの清掃など環境活動や社会貢献に積極的に取り組んでいる。
筆者が野口健と初めて会ったのは2003年の6月だった。それから18年間、野口のマネージャーを都合三度も務めている。蜜月の時代もあれば、倦怠や互いに傷つけ合う不和の時代もあった。野口の優しさにひとり涙した時もあれば、二度と会わないと絶交を誓った期間もあった。ただ、どんな時も野口のことを考えない日はなかった。ずっと頭から離れない存在。そんな人間は43年間生きてきた筆者にとって、野口しかいなかった。
しかし、筆者はある時から「野口健を消したい」と思うようになっていた。
山岳ジャーナリスト、服部文祥は野口をこう評している。「登山家としては三・五流」。
1 山への挑戦
ロンドンにある全寮制の立教英国学院に在籍していた野口。両親は母親の不倫が原因で離婚していた。野口は机の前に座っているのが苦手であり、中学三年生では学年の最下位になる。
先輩を殴って1ヶ月の停学処分となった野口は、日本に一時帰国した。そのとき、人生を変える出会いを見つける。何気なく入った新大阪の書店で手に取った植村直己の 『青春を山に賭けて』である。
学業が上手くいかない野口は、有名な山に登って学校を見返してやろうと決意し、1990年、モンブランの登頂を果たす。同年の冬にはキリマンジャロの登頂にも成功した。「七大陸最高峰の最年少登頂」を目標としたのはこのときだ。
亜細亜大学に入学し山岳部に所属した野口は、早速行動を開始する。スポンサーを見つけるために各メディアに自分を売り込み始め、大学一年目はオーストラリア大陸最高峰のコジオスコと南米大陸最高峰のアコンカグア、二年目は北米大陸最高峰のマッキンリーに登頂した。
マッキンリーへの出発前にはマスコミ各社に対して、成功すれば五大陸最高峰の世界最年少登頂となることを通知してあった。まずマスコミ各社に対して計画を公にしてしまい、やらざるを得ない環境に自分自身を追い込む。すでにこの時点で、これが野口のスタイルとなっていた。
1994年12月に、野口は南極大陸最高峰のビンソン・マシフに登頂し、六大陸最高峰の世界最年少登頂記録を樹立する。この南極への挑戦は初のスポンサー企業の獲得のみならず、メディアへの露出という観点でもこれまでとは異なったステージへと飛躍する契機となる。
兄・哲也から「マスコミに手紙を書け」と言われた18歳の時からコツコツと続けていた手紙作戦が功を奏し、マッキンリー登頂による五大陸最高峰登頂の際には通信社の取材を受け、全国に記事が配信された。野口の活躍は様々な雑誌にも取り上げられるようになっていた。
1997年に初めてエベレストに挑むが、7,800メートル地点でリタイア。二度目は天候不良により8,350メートルで下山。1999年の三度目の挑戦で、見事に登頂に成功した。
実際のところ、野口はエベレストに登れる自信など、ずっとなかった。だからこそ「僕はエベレストに登ります」と言い続けてきたのだ。そして、自分自身にも俺は登れるんだ、と言い聞かせてきた。まるで自分自身に暗示をかけるように。そうでもして自分自身にプレッシャーをかけなければ、とてもじゃないがこの山には登れそうもなかったのだ。
一躍時の人となった野口は次なる一手を考える。それはエベレストの「清掃活動」だ。
2000年の春に、世界初となるチベット側での「エベレスト清掃登山隊」を実現させるために、スポンサー集めに駆け回った。そして約2ヶ月後、6,600メートルから最終キャンプの8,300メートルまでを清掃範囲とし、総勢28人の清掃登山隊を組織した。これは山頂を目指さない挑戦であり、世界で初めてのことだった。この清掃活動では、100本を超える酸素ボンベをはじめ、テント、ロープ、空き缶、食器、生ごみなど、あらゆるゴミを計1.5トン回収した。
2002年と2003年にはネパール側を舞台に同様の体制で清掃を行い、当初の構想通り4年間のエベレスト清掃登山プロジェクトをやり遂げることになる。酸素ボン約500本を含む合計7.7トンのゴミを回収し、日本各地でゴミの展示会や講演会を行い、環境意識の啓発に努めた。
野口はエベレストや富士山の清掃等の環境保全活動へと軸足を移しつつも、山頂を目指す登山家としての挑戦も続けていた。2005年春の再挑戦で野口はヒマラヤにあるシシャパンマに登頂。2007年春には念願のチベット側からエベレスト登頂に成功する。そして、この時の挑戦で「第一二回植村直己冒険賞」を受賞する。冒険家にとってまさしく栄誉であり、野口の登山家としての価値は揺るぎないものに映った。
2 転身、政治家への野望
野口がエベレスト清掃登山を企画した真の動機は、参院選への出馬であった。
野口は元総理大臣であり登山家でもある橋本龍太郎に接近するため、岳龍会に入会する。橋本との面会では、橋本が総隊長を務めた登山隊がエベレストに残してきた酸素ボンベを持ち込み、本人の前で披露する。これが橋本の心を掴み、急接近。良好な関係を続けた野口は、2004年の参議院選挙の比例区に推薦された。
筆者と野口が出会ったのは2003年のこと。中華料理屋での会食で野口に惹かれた筆者は、野口の所属事務所からの脱退をサポートし、同時に、有限会社野口健事務所を設立する。新たな公式サイトを起ち上げ、スポンサー企業をはじめ、メディア関係者、代理店といっ関係者に挨拶して回り、講演会やイベント、メディア出演等を調整し、全国を野口と駆け回った。
同時に政治への動きも進んでいた。毎晩自宅で酒を飲みながら、政策の議論を交わす。いつしか筆者は野口健にのめり込んでいった。
だが、最後まで選挙に臨む態勢をつくれなかったことで、出馬を断念する。自民党が御膳立てをして選挙スタッフを派遣してくれるわけでもなかったため、野口は暗に筆者に期待していた。神輿を担いでくれ、ということだ。だが、筆者は石原事務所で仕事をしていたこともあり、これを無視し続ける。2007年、2010年と政治家から声をかけられるも、結局出馬までには至らなかった。
そのうちに、政治との関わり方はかたちを変えていく。野口はなぜか積極的に議員の応援演説をするようになったのだ。
はじめは小池百合子の応援だった。2009年の衆議院議員選挙では、小池とともに行う街頭演説のかたちもあれば、個人演説会場で野口単独で小池の支持者に話をし、皆と握手をするといったこともあった。次第に他の議員からも応援演説の依頼がかかり、これを選挙期間中、延々とやりつづける。もちろん無報酬だ。
出馬を諦めたのに、政治の世界と縁を切れない。どこかまだ政治に色気がある。それを見透かした政治家たちが「ぜひ、野口さんのお力を」と寄ってくる。そこには、野口でなければダメなんだという切実さはない。有名人であれば誰でもいいのだ。
しかし、街頭演説を繰り返す野口を見ていて、ふと、わかった。「あ、当然、そんなこと健さんはわかってるわ。わかっていてやってるんだわ」と。
選挙カーの屋根の上に立つことで政治家を疑似体験し、そのことで熾火のようにくすぶる出馬欲求を抑えているのだと、筆者は考えるようになっていた。
3 豹変
このころから野口の性格がどんどん変わっていった。赤ちゃんの泣き声に対して嫌悪感を抱くようになり、睡眠薬が手放せなくなる。妻との関係は悪化していった。
とはいえ、その頃は野口も事務所も対外的にはまさに絶好調だった。売り上げは過去最高を更新し続けており、植村直己冒険賞をはじめ、坂口安吾にちなんだ安吾賞や東久邇宮文化褒賞等の受賞も続き、スポンサー企業の契約も順調だった。だが、野口は「おかしい。こんなのおかしい。こんな状態がずっと続くわけがない」と情緒不安定になっていた。
このときから筆者を含むスタッフへのパワハラが始まった。野口には精神科病院から助けてもらった恩があるため、昔みたいに遠慮なくモノを言える関係ではなくなっていた。
一瞬でも機嫌を損ねると、「外し」が始まる。講演会やイベントへの同行のみならず、スポンサーやメディアの担当からも外され、別なスタッフに任せる。電話をしても出なくなり、メールも返事がこない。それがしばらく続き、今度は別なスタッフがターゲットとなる。
そんなこんなで大変な日々の中で、野口の感情の起伏は激しさを増すばかりだった。原稿を書いていてパソコンがフリーズし、データが消えてしまった際に、野口がパソコンのモニターをピッケルで破壊してしまったこともあった。
無理難題を言われ、それを筆者が処理するといった悪しき流れは加速するばかりだった。そのうちに無理難題の処理が追いつかなくなり、何をしても噛み合わなくなってきた。
結局「絶対辞めない」と誓ったにもかかわらず、その後、さらに二度も事務所への出入りを繰り返す。
4 野口との決別
三度目の退職後、野口と会食をした。
帰りのタクシーでは、「俺はありがたいと思っているんだ。小林が去った。俺が落ち目だから小林が去った。ならばもう一度、這い上がることで小林を取り戻せる。これは神が与えてくれた試練だ」と野口は繰り返していた。
それを聞いて、心の底では喜んでいる自分がいることに気づいて、異常だなとも感じていた。そして、だったらなぜ「小林、悪いけどこの関係は長くは続かないと思う」なんて言ったんだと思った。
そういえば、辞めると三回告げても一度も慰留されたことがないことに気づいた。なんで、その時とめてくれなかったんだ。でも、戻れば同じことになる。それだけはしてはいけない。もう会わないほうがいい。そんなふうに思った。
仕事を辞めても、自分が労働市場でまるで価値がないのを思い知らされた筆者は、再び精神を壊し、二度目の精神科病院に入院する。1ヶ月後に退院するが、どこにもまともに就職できない。家計は崩壊寸前で、妻との関係は冷え切っていた。しかし、心のどこかでは「最後には野口がいる」という気持ちがあった。野口だけが自分を評価してくれる……野口に連絡すれば……。
思い詰めていた筆者だが、今度は心臓の病気で入院してしまった。
「互いに本当に困った時は 『SOS』を出そう。その時は助ける」と六本木のカフェで野口と約束したことを思い出す。筆者はそれをどこか最後のよりどころにしていた。今こそが「本当に困った時」だと思った。LINEで状況を伝え、最後に「SOS」とだけ送った。すぐに既読になったが、数日過ぎても、ついぞ返事はこなかった。
縁を切ろう、そう思った瞬間だった。
5 野口健劇場
ある時、筆者と同じように野口の事務所へ出入りを繰り返していたスタッフのひとりがこう言ったことがあった。
「あの人は私がいないと生きていけないですから」。
その言葉を聞いたとき、まるで自分自身を見ているようだった。
「いや、別にあなたがいなくても健さんは生きていけるよ」と。
これは冷静に考えれば筆者にも当てはまる話のはずだ。でも、自分のことになると途端にわからなくなる。完全に自己喪失する。野口と会うたびに磁石に引き寄せられる砂鉄のように引きずられ、透明な水に墨汁が一滴たらされたかのように侵食してくる。グラスに注がれた水の量が増えていき、表面張力を超え、閾値を突破してあふれ出す。
精神科病院への入院中、様々な依存症を見てきた。アルコール、薬物、性行為、リストカット、自殺。そして、物質や行為だけでなく、人間は人間そのものにも依存する。
筆者が野口に魅了されたのは、野口の物事を実現する力だった。それは時に現実を歪曲してしまう力を持つ。ストーリーを立て、そのストーリーを信じ込む。その力が想いやイメージを確実に現実化していく。これこそが、野口の最もすさまじい能力である。
野口の妻である靖子はこう語る。
――あの人のサポートをしていて感じるのは、いつも同じことです。たとえばヒマラヤでの森林再生計画にしても私の感覚では、大企業が何億円もかけてやるもので、とてもできるわけないと思っていました。それでも 『やりたい』と言うんです。やっぱり無理なんじゃない、と思いつつも 『無理』とか 『できない』という言葉が大嫌いな人なので、とにかく事務的な手続きを進めていた。
でも、不思議なことに、ああでもない、こうでもない、とやっているうちに、あの人の情熱が周りに伝播して、最終的にはかたちになっていくんですね。四六時中そのことを考えていて、発信し続けているうちに、その時その時でつながっていくわけです。決して計画的にというわけではなくて、どちらかというと直感的にやっているのだと思います。だけど、最後には必ずかたちにしてしまう。
あの人がそこまで見えているのかはわからないけど、その直感には乗ったほうがいいな、とは思うようになりました。結局、最終的に実現してしまう何かがあるんです。それが何よりもすごいと思います。
対する野口は、栗城のエベレスト挑戦を通じて、「冒険」について次のように語っている。
「僕は冒険というのは、舞台役者が舞台で役者をやっているようなものだと思う。つまり演じている。スポーツとはまったく一ミリも考えていない。アスリートとかスポーツ選手なんて思ったことは一度たりともない。落ちこぼれの野口さん、ニートの栗城さん、その人たちが一生懸命やって人に勇気を与える。それはストーリーになる。(略)でもね、演じていたとしてもいいんだよ。エンターテインメントであり表現者なんだよ。劇場と言うと馬鹿にしたような言い方だけど、本来的な意味でエベレストを舞台に自分の劇を演じたんだよ。そして、それを講演やメディアを通じて人に伝える。ここまで含めてショーなんだよ」詳細をみるコメント0件をすべて表示 -
野口健に興味を持ったことも有りませんでしたが、登山という事を切っ掛けに社会進出を遂げた、登山家ではない登山家という事が良く分かりました。
登山に魅せられて、誰も立った事の無い頂に立つ事を追求する、誰も登った事の無いルートを攻略する。という事を目指すのが登山家とすれば、野口健は自己アピールする為に登山というツールを利用したという事なのでしょう。それ自体は全然非難される事ではありません。でも服部文祥が3.5流と言ったのも致し方ない事ですね。 -
野口健を題材にしているが個人伝というよりも筆者の思いの方が強く出ている。
作家を目指していたというだけあって文章は読みやすく上手い。 -
登山家・野口健の半生に迫ったノンフィクション。丁度昨年のYahoo!ニュース|本屋大賞 ノンフィクション本大賞にノミネートされた、栗城史多氏をモチーフにしたデス・ゾーンに重なる部分もあり購入。
本著は野口健の生い立ちから登山家としての活動、さらには現在に至るまでマネージャーとして携わった小林氏の視線も交え描かれている。そして後半よりその小林氏の自著伝ともなるような、野口健と交わり離れていく様子も描かれている。
彼はアルピニストではない。登山家としては市民ランナー。しかし、清掃活動や被災地支援など活動家としては周りからの評価は高い。
何か栗城氏と重なる部分を感じた。突出すべき行動力を持っていると、否が応でも周りをも幸にも不幸にもする。
野口健の人間性はわかりつつも、やはり彼のやっている活動は素晴らしいものがある。
今後の彼を注目したいと強く思った。 -
野口健批判の本ではない。
好きすぎて依存した筆者の自伝。
野口健の話ではなく筆者の自分語りが多い。
なので野口健への否定的なことはほとんど出てこない。
タイトルはうまいことつけたなと思う。
野口健への依存とさよならしているだけで野口健への暴露とか批判はない。
野口健の凄さも登山家としてイマイチなこともよくわかる。
面白いとは思うけれど得るものはない。 -
二人の男の評伝。
アルピニスト(現在はその肩書きは名乗っていない)野口健とそのマネージャーを務めた著者の歩んできた記録。
人の人生は同じ方を向いていると思っていてもずっと同じでいるなんて事は無いんですよね。寄り添っていたと思っていても二人はいつかはどこかで分岐する。
野口を信用できなくなり、職を失い、心と身体も壊した著者が、かつて輝いていた時代を振り返りながらも、本当はただの無能であり価値のない人間なのは全て自分のせいだと心から思い自分は根本的に間違っていると思い付くシーンがある。
頑張ってきた人ほどきっと強くそう思ってしまうのかも。 -
暴露本との事だったので、ものすごく辛辣な内容を予想していたのに、辛辣どころか普通に擁護本だった。「俺の野口健」への愛情しか感じられない。
野口健氏の悪評を片っ端から訂正しつつ「腐れ縁愛」とでもいうような、野口氏との濃密な絆を自慢していてすごい。読んでないけど『愛される理由』を思い出した。これが男女だったらますます叩かれてしまうだろうに男同士だから許されるってのも変な話だ。
2人の関係はあきらかに共依存だと思う。筆者はもともと、権力をもつ男性に強烈に惹かれる性分の人で、政治嗜好とは関係なく石原慎太郎氏に熱烈アプローチするくだりは、下準備が丹念すぎてストーカーめいている。
野口健氏の方も母親との別離や、混血を元にいじめられた経験から、自他の境界線があいまいで、やることなす事地に足がついていない印象を受けた。
こんな2人が出会ったら、そりゃそうなるわなぁとしか思えない展開。
著者が野口健にモラハラされても、理不尽に扱われても、「俺は彼のことなら何でも分かるんだ。はちゃめちゃな彼のことを、心から理解して受け止められるのは自分だけなんだ」とばかりに、非常に良心的に解釈してみせるところなんて、しょっちゅうDVクソ旦那・彼氏の愚痴を言いつつ別れようとしない女そのもので、色々思い出して軽く鬱になった。
まぁ、もしかしたら意図的に書いてるのかもしれないとは、少し思う。この男同士のドロドロ共依存劇場のおかげで、SNSで拡散された強烈なアレコレが多少影薄くなるだろうし。そもそも野口健氏も承知で本を出させたはずだし、2人にはそういった抜け目のなさも感じた。1番リアルに感じたのは、もしかしたらその部分かもしれない。
仲良くサイン会などして、SNSにまでアップして、少しも野口健と別れる気のない著者に、微笑ましさと呆れが同時にくる。どうぞ末永くお幸せに。
本当は購入して読む予定だったのだが、ちょうど図書館にあったので良かった。評判が良かったので期待しすぎた。自分にとってこれは何度も読みたくなる本ではなかった。 -
登山家たちは「アルピニスト 野口健」は登山家としては3.5流だという。
実際、野口健のおいたちと山への向き合い方を見ると、山は自己実現の道具にみえる。だとしても、スポンサーをあつめ、メディアに取材させ、有言実行で記録をつくってしまうのはすごいというしかなく、その素直さやバイタリティに周囲の人が魅せられるんだろうな。
承認欲求がいささか強すぎる作者の体験や意見をもう少し控えて、野口健にフォーカスしていればもっと良かった。 -
作者の私小説としては興味がないが野口健のバイタリティーはすごい。登山家ではなく起業家に近く、自己認識力も高い。作者のノイズがすごいのが勿体無い。もっと客観的にやってほしい
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野口さんの面倒な人柄二振り回される著者の回想録。面倒だけどなんだかほっとけない人間力もあり、登山家と断言できないメディアの裏側もあり、野口さんのイメージがひっくり返る内容。
個人的には著者の話より、野口さんだけの話の方がよかった。