ブッダに学ぶ「やり抜く力」

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  • 宝島社
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  • Amazon.co.jp ・本 (223ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784800268358

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  • 仏教集団が2500年間維持してきた律の教えは、人生を切り開いていく仏教の行動哲学ともいえます。
    好きなことだけをして生きること、つまり生き甲斐の追求は、出家的に生きることによって、自らを律し、自らを変革させることができるようななります。
    ブッダの言葉は、世界最高の自己変革メソッドです。

    (前略)「自分探し」や「自分らしさ」という言葉が、そもそも存在しないものをあるかのように錯覚させて、ないものを探させることで多くの人たちを惑わせたり、苦しめていることを思えば、やはり罪な言葉だと言わざるをえないのです。
    同じ理由から、「自己実現」や「自己啓発」という言葉にも大きな危険性が含まれていると思っています。
    「自己実現」や「自己啓発」にも、「絶対的な自己が存在している」という認識があり、もっと言えば「その自己はすばらしい存在である」という過大な思い込みがあります。
    今は思い通りには生きることができないけれども、自分という人間の核心にはすばらしい人生を生きられる理想的な自己がもとから存在しており、そんなすばらしい自己を実現したり、自身を啓発することでその自己に近づくことができる。「自己実現」や「自己啓発」という言葉の根底には、そんな自己認識があります。しかし、「絶対的なすばらしい自己」も刷り込まれた思い込みに過ぎません。 ー 34ページ

  • 19 出家の真の意味とは「自分の人生を充足させるため自力で生き方を変えて、やりたいことをやり続けること」です。…
     出家は必ずしも宗教に限ったことではないのです。日々の生活や仕事のなかで、「私が本当にやりたいことはこれだ」と決心し、その思いを実現させるために実際に立ち上がって行動に移すなら、それはすべて出家の道だと言えます。

    21 人はいくつになっても自分を変えることができる
     ひとつ注意してほしいのは、いつでも人生を変えることができるからといって、先延ばしにしてはいけないということです。人間は老いや死から逃れることはできません。自分を変えるのが遅くなればなるほど、その後のやりたいことができる時間、充足した時間はどうしても短くなってしまいます。自分を変えるのであれば、自分の持ち時間が十分にあるうちに行動するというのは重要なポイントです。

    25 強い意志を持って修練を重ねれば、誰でも変わることができる。
     仏教では、個々人の才能の差を認めながらも、「利根には利根の道、鈍根には鈍根の道があり、どちらも悟りに向かって進んでいくことができる」と教えている。両者の道に違いがあるとすれば、それは悟るための方法と悟りに至る時間の長短だけ。「悟りを開けるのは利根(才能のある人)だけで、鈍根(才能のない人)は悟ることができない」などという差別は一切ないのです。
    「人は誰でも悟りを開くことができる」ーーそれはすなわち「人は誰でも変わることができる」ということです。才能の有無は関係ありません。

    28 自己は実在しない
     人は誰もが自己変革を起こすことができる。私が確信をもってそうお伝えできるのは、仏教における「自己」の定義に依拠しています。
     釈迦の仏教では、自己は「存在しないもの」だとされています。
     では、われわれ人間の誰もが「自己」だと認識しているもの、「自分は今ここに生きている」という実感の正体は何なのか?
     ダンマパダ(法句経)では、次のように教えています。

    「見よ、飾り立てられた形体を。傷だらけの身体であり、要素が集まっただけのものである。病にかかり、勝手な思わくばかりが多くて、そこには堅実さも安定もない」(147)
     

     釈迦は人間を「いろいろなものが集まっただけ」の、要素の集合体と考えていました。つまり、肉体を作るさまざまな物質的要素と、心の内部を形作るさまざまな心的要素が集まって「自己という仮の存在」を生み出しているだけで、「絶対不変の自己」などというものはどこにも存在していない、ということです。…

    自己とは、かりそめの存在で、常に変わり続けている。その変化を、自分の望むかたちにできるかどうかは、自分の意思と行動にかかっている。自分の好きなことに向かって向上する意志を持って行動を起こせば、人は必ずその目的に向かって自分を成長させることができます。
     この、「この世のすべては時々刻々と変化するものであり、永遠不滅の存在など、どこにもない」という教えを、仏教では「諸行無常」と言います。また、「この世に私という絶対の存在など、どこにもない」という教えを「諸法無我」と言います。…
     「諸行無常」と「諸法無我」は、人が苦しみを離れ、満たされた人生を生きるためには、欠かせない考え方なのです。


    33 「自分探し」や「自己啓発」の愚かさ
     仏教で言う「煩悩」とは、私たちの心の中にある、諸々の現象を苦しみに変えるシステムのことを指します。… 執着は数ある煩悩のなかでも特にたちの悪い親分格の煩悩です。こうした煩悩こそが、生きることの苦しみの原因になっていると仏教では考えています。そうした苦しみの原因である煩悩をひとつひとつ消していき、自分を変えていくことが仏教における出家の目的であり、それには長い時間の地道な努力が不可欠です。
     しかし、多くの自己啓発本では、ちょっと努力すれば自分を変えることができると言います。そうした態度は明らかに間違いでありあ、さらに言えば人間というものを軽く見すぎている。…
     目指すべきは、そもそも存在しない自己を探したり、あるはずだと思い込んでいる素晴らしい自己に(自己実現や自己啓発を通して)回帰することではなく、いちから自分という存在を作り上げていくことです。

    41 いきなりすべてを変える必要はない
     「やりたいことをやるレベル」を、私は「出家度」という言葉で表現します。出家的人生には、出家度1パーセントから100パーセントまでさまざまなパーセンテージがあります。…
     出家度を上げれば上げるほどに、人生の充足度は高まっていきます。当然ですよね、やりたいことを好きなようにやっているわけですから。しかし、その反面、好きなことだけをやっていれば生産性は下がってしまうので、日々の生活をどのように支えていくのかを考えなければなりません。
     この出家度と生産性のバランスを考えながら、どれだけ自分のやりたいことを実現し、人生における充足感を上げていくかが、現代社会における出家的人生の生き方だと言えるのです。

    47 途中で挫折してもかまわない
     出家の目的が「個人の充足感の追求」である以上、「今の状態では充足感を得られない」と感じたら、出家をやめたり、出家度を下げて、別の生き方を模索すればいいだけの話です。
     出家には我慢も根性も忍耐も必要ありません。大事なのは、好きなことをやること、それをやっていると楽しくてしょうがないということを実践すること、なのです。

    50 人生に成功も失敗もない
     出家的人生には「成功」も「失敗」も、「勝ち組」も「負け組」もない。
     なぜなら、そもそも出家的人生とはそうした世間の価値観とは別の生き方を目指すことだからです。…
     出家的人生を評価できる唯一の基準は、本人の充足感だけです。十分な充足感が得られていれば、それをさらに大きくすべく、さらなる修練を重ねるべきだし、もし不満や不足があれば、充足感が得られるように工夫をしたり、別の道を模索すればいいのです。

    53 生きる意味は自分で作る
     「人生に生きる意味はない」というのは、「定められた絶対的な意味などない」ということです。
     人間という生き物は、自分が生きていることに何らかの意味を見出したい本能的な願望があるため、「自分の人生には価値があるんだ」「自分の人生はすばらしいものだ」と自らを洗脳しようとします。そうすることで満足感や安心感を得たいのです。ところが、釈迦は、それが錯覚であることを見抜きました。
     人生に、絶対的な意味や価値はありません。ただし、意味や価値を、自分の意思と行動で作っていくことはできます。…
     一人ひとりが作り上げるということは、すなわち「答えはひとつではない」ということです。自分とまったく同じ人間がいないのと同じように、生きる意味も人それぞれ、人の数だけ答えがあります。
     大事なことは、生きる意味を作り上げようとする個々人が、「自分の生きる意味は、自分で作り出せるんだ」と強い確信を持つことです。


    58 自己変革の先駆者としての釈迦
     「自分の救済者は自分自身である。他の誰が救ってくれようか。自分を正しく制御してはじめて、人は得難い救済者を手にいれるのだ」(160)

     「釈迦の仏教」は、大乗仏教のように超越的な力、神秘的な力を信じることなく、あくまでも自分自身の自助努力によって、救いを得ようとします。その意味で、「釈迦の仏教」は宗教の枠には入らないのかもしれません。…
     「釈迦の仏教」の本質は何かと問われたとき、私はいつも「自己を変革するためのシステム」だと答えています。そこには、自分を変えるためのノウハウが詰まっています。


    61 出家とは、社会の常識を逸脱すること
     釈迦が生きた古代インド社会は、バラモン教世界であり、カースト制度という身分制度がありました。…
     カーストは生まれや血筋によって絶対的に決まっており、そのカーストのなかで与えられた務めを果たすことが当時のインドの人々にとって当たり前の生き方であり、幸せにつながる道だと考えられていました。…
     しかし2500年くらい前に、このバラモン教世界に異を唱える人々がたくさん現れました。そうした人々の新しい思想や哲学が、やがて仏教やジャイナ教をはじめとした新興宗教へと繋がっていきます。
     それらの新興宗教の共通点として、「出家修行を重視したこと」が挙げられます。出家修行を通じて、バラモン教世界における既存の生き方や幸せの枠組みを否定し、自分達の人生を充足させるための新たな生き方を目指したのです。
     つまり、出家とは「既存の社会の常識や価値感から抜け出し、自分達が信じる別の生き方を追求する行為」だと言い換えることができます。…
     釈迦の時代の常識はバラモン教世界観でした。では、現代社会の常識は何かと言えば、例えば資本主義的価値観がそれにあたるのではないでしょうか。今の世界においては、より多く稼ぎ、より多く手にした人が成功者であり、幸せだとされています。しかし、そうした経済的な基準ではない幸せのあり方を模索するのが、現代的な出家なのです。

    68 苦しみを克服するには、やりたいことをやればいい
     注目すべきポイントは、「釈迦の仏教」の目的が「生きる苦しみを克服すること」にある点です。…
     もし人が望まない生活をやめて、やりたいことが心ゆくまでできる充たされた人生を生きたいと思うならば、自らの心にある煩悩や執着をひとつでも多く消し去って、今の自分を変えていくことが不可欠なのです。
     

    72 何事も合理的に考え、行動せよ 
     どうすれば、煩悩を消すことができるか?…
     自分中心の誤った考え方を捨てて、この世のありようを合理的かつ客観的に見ること
     また、そのような見識に基づいて、日々の行動を律すること

     数ある煩悩のなかで「無明」とは、もっとも悪質で、すべての煩悩の生みの親となる、おおもとの煩悩のことです。… 「ものごとを正しく、合理的に考える力が欠如している」という本質的な暗愚さを示しています。

    100 自助努力は、目的に向かってこそ意味がある
     明確な目的意識を持たないまま、ただやみくもに努力を重ねているだけでは、精神修養にはなるかもしれませんが、いつまで経っても自己変革はできません。…
     自分を変えるために行動を起こすときは、かならず「自分をどう変えたいか?」「どこに向かっていきたいか?」という目的意識を明確にしなければなりません。
     明確な目的があり、そこに向かって懸命な努力をしているとき、きっと心から充足感が溢れてくるはずです。

    104 「やりたいこと」「好きなこと」を目的に
     出家的人生の目的は、社会の一般的価値観の外側におくべきです。そうしなければ、自分自身を変えることはできません。「もっと稼ぎたい」とか、「有名になりたい」では、いまある価値観を延長しているだけです。そうではなく、たとえば「給料が下がってもいいから、やってみたい」と思える目的こそが出家的であり、自己変革にもつながるのです。

    108 「人のため」「社会のため」は必要ない
     出家的人生の目的は、自分自身の「好き」や「やりたい」という情熱が核になります。誰かのためになるとか、社会のためになるとかは、考える必要はありません(ただし、人のため、社会のためになることが、自分の「やりたいこと」であれば、話は別ですが)。…
     実を言えば、「釈迦の仏教」に対しても「自己のことしか考えない利己主義だ」と批判がなされたことがあります。たしかに修行の目的は、自分の煩悩を断ち切り、自己を変革することによって自分の苦しみを消すというものであって、他者のことや社会のことは一切考えていません。自分という世界で完結する、徹底した個人主義の教えなのです。
     そして、釈迦はその目的を達成した後ではじめて、その道を弟子たちに教える側にまわり、たくさんの人々を助けました。
     繰り返しになりますが、出家的に生きるには、まず自分の「好きなこと」「やりたいこと」に全身全霊で向き合ってください。人や社会のことを考えるのは、その後でもぜんぜん遅くはないのです。

    116 なりたい自分になるために何を捨てるか?
     自分が望む人生を手にいれたいと思ったら、その代わりに今ある人生の何かを捨てなければなりません。…
     人はいつでも自由に変わることができます。可能性は無限にあるのです。ただし、ここで言う無限の可能性とは、「どのようにでも変わることができる」ということであり、人生のキャパシティそのものが無限に増えるというわけではありません。人生という升の容量が100あるとしたら、どれだけ努力をしてもその容量を120や150に増やすことはできません。升の容量は決まっていて、100以上のものは入らないのです。ですから、もし自分の人生において「好きなこと」を実践して、充足感や幸福感を高めたいと思ったら、今ある100のうちから何かを捨てなければなりません。

    130 努力の方向を見定める
     自分のやっている努力が正しい結果と結び付くように、努力の方向性を見定める力を、仏教では「知慧」といいます。悟りを開くという目的に向かって、今自分がやっていることが正しいかどうかを判断するのも知慧ですし、もし間違っていた場合に正しい方法に修正するのも知慧です。…
     正しい知慧をみにつけるには、やはり教育が基本になります。正しい人から正しい教えを受けることで、自分の努力を正しい方向へ導くことができます。
     ときには、その教えが正しいと思って進んでいたのに実は間違っていたということもあるでしょう。そのときは、気づいた時点ですぐにその教えを捨てて、新しい教えを学び直す必要があります。それも知慧です。…
     教えを受けることは大切です。
     しかし、それと同時に、自分で考えることも大切です。
     教えを受けながら、自分でも考え続ける。まさに「自灯明・法灯明」の教えです。そうした多面的な努力を続けることではじめて、自己変革が実現できるのです。

    146 劣等感をエネルギーに
     仏教用語の「慚愧」とは、「自分の行いを反省して、心に深く恥じること」であり、「自分はまだダメだ」「他の人と比べてまったくなっていない」「自分の未熟さが恥ずかしい」と思うことです。「劣等感」ということになるでしょうか。…
     出家的人生を歩み、自分を変えていくには、劣等感はいちばんの駆動力になります。心に劣等感を抱くからこそ、人は向上できます。…
     劣等感の比較対象は二つあります。ひとつは「昨日の自分」です。
     昨日の自分と比較して、今の自分はどうか。… たいていの場合は「もっとここが改善できたのではないか」…という反省点が目につくはずです。そのとき感じる劣等感が後押ししてくれるおかげで、「今日の反省を生かし、明日はもっとよくしよう」と、目的に向かってさらに歩みを進めることができるのです。…

     釈迦の仏教では、他人との比較を否定し、常に過去の自分を比較の対象にせよ、と教えている。
     ただ私は、現代の出家的人生においては、もうひとつの比較対象である「他者」も重視すべきと考えています。「今の自分」と「他者」を正しく比較することでもやり抜く力を生むことができるのです。…
     仏教の出家修行のように自分の中だけで完結できる目的であれば、過去の自分との比較だけで十分でしょう。…
     一方、科学者やスポーツ選手のように、成果が客観的基準で評価される世界のなかで何かを成し遂げることが目的であるならば、やはり他者との比較は必要になるでしょう。
     大事なことは、どちらの場合においても、常に自分の目的を意識することだと思います。
    他者との比較はともすると嫉妬などの煩悩に結び付きやすいので注意は必要ですが、自分が実現したい目的を心に留めながら正しく比較すれば、そこから生まれる劣等感は必ず目的実現のためのエネルギーになります。

  • ●読後の感想
    ・読んでいてそれは違うんじゃないかって思ったところがいくつかあったが、「現代風なブッダ的な考え」と言う着地点でいいと思った。

    <まとめ>
    ◎日常生活に「仏教を学ぶ」ことを取り入れると、日々の暮らしにハリが出る。
    ◎「自己実現」や「自己啓発」には大きな危険性が含まれている→「絶対的な自己が存在している」から
    ◎ちょっと軽くなった心など、またすぐに重くなってしまう
    →本質的な問題を解決せずに、目先のごまかしをしているだけ
    →本当の意味で「やりたいことをやる」「なりたい自分になる」ためには、何の役にも立たない
    ◎社会と適度な距離を置く
    →「仏教的エッセンス」
    ◎「好きなこと」「やりたいことをやる」のが現代の出家的人生である

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著者プロフィール

1956年福井県生まれ。花園大学文学部仏教学科教授。京都大学工学部工業化学科および文学部哲学科仏教学専攻卒業。同大学大学院文学研究科博士課程満期退学。カリフォルニア大学バークレー校留学をへて現職。専門は仏教哲学、古代インド仏教学、仏教史。著書に『宗教の本性』(NHK出版新書、2021)、『「NHK100分de名著」ブックス ブッダ 真理のことば』(NHK出版、2012)、『科学するブッダ』(角川ソフィア文庫、2013)ほか多数。訳書に鈴木大拙著『大乗仏教概論』(岩波文庫、2016)などがある。

「2021年 『エッセンシャル仏教 教理・歴史・多様化』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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