古代史研究の最前線邪馬台国

制作 : 洋泉社編集部 
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レビュー : 2
  • Amazon.co.jp ・本 (271ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784800306265

作品紹介・あらすじ

最新研究では、邪馬台国はどこまでわかっているのか。纒向遺跡はどこまで解明されたのか?「魏志倭人伝」最新の読み方とは?ほんとうに、近畿説が有力なのか?知っておきたい「論点」を、第一人者がわかりやすく解説!

感想・レビュー・書評

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  • 研究者12人による、最新の邪馬台国論。私は邪馬台国の所在地そのものには興味はないが、弥生末期の歴史には大いに興味がある。その視点で面白かった点を以下に羅列する。

    (西川寿勝)
    ・古墳発生直前の墳丘墓(石塚、勝山)の木製品の年輪年代測定法は、200年前後が伐採年。さらには、箸墓は歴博の放射性炭素14年代測定法によると、240ー260年造営であり、魏志倭人伝で卑弥呼が使者を派遣していた頃。
    ・107年、倭国王の師升等、生口160人を献じて請見を願う。147ー188年、倭国大いに乱れ。
    ・書紀、三国史記、魏志武帝記、後漢書から193年前後、中国から朝鮮半島、日本列島にかけて異常気象が起きて(イナゴ発生、疫病多く、霜、等々)、民が半数以上死んで、反乱起こった可能性がある。大和河内の集落衰退、纒向台頭と整合。

    (編集部)
    ・纒向の大型建物は、三世紀前半で卑弥呼活躍時期と重なる。桜井市は平成24年に纒向学研究センター開設。

    (松木武彦)
    ・金印(倭奴国)より一世紀中頃までは、倭国の中心は北九州にあった。前方後円墳体制が近畿に作られる三世紀中頃までの200年間に、日本社会の安定的構造が形成されるプロセスがあった。その中で生じたのが、倭国乱であった。
    ・倭国乱に対応する二世紀後半の土器は、庄内1-2式、山陰の鍵尾式、瀬戸内中部の上東才の町式、北陸では漆町3-4群。
    ・二世紀前半の大型墳丘墓は、楯築50m、西谷3号40m、鳥取の西桂見40m、福井の小羽山30号26m。この地域では、それまでの青銅器祭祀が一様に後退する。墳墓の儀礼が青銅器を必要としない、「社会を統合する主要宗教の交代ないしは革新が起こった」ことを意味する。つまり、「古墳時代的宗教による社会の再統合が他地域よりも一歩早く進んだ」(←近畿は未だ青銅器圏内)。内容は、有力者の死を墳丘墓で祀ること。基は中国。楽浪郡を起点として、木槨墓が紀元後1ー2世紀に朝鮮半島を南下する。つまり、これらグループは、「互いに連携しつつ中国と結び、新しい世界観・思想やそれによって立つ権威を見せることで列島での覇権を握ろうとした」可能性が高い。彼らは師升等の活動を反映している可能性がある。
    ・この墳丘墓体制は、二世紀後半には変容する。吉備・出雲は墓が小さくなり、因幡や越では後継者が出ない。丹後には赤坂今井(方形、39m)が現れる。
    ・三世紀前半になると、円形や方形の墳丘に一カ所だけ短い突起をつけた「纒向型前方後円墳」ないし前方後方墳が、近畿、九州、東北南部まであらわれる。円形が60-70mの前方後円墳は奈良盆地東南部に集中、これは「列島の広い範囲を覆う有力者たちの宗教的・政治的連携が、大和を中核ないし頂点として出来上がった状況を反映しよう」。
    ・集団墓から区画墓への変容。「すなわち、多人数からなる共同体全体のまとまりが、そのまま墓に表される習俗から、それまでは共同体全体に埋没していた個々の血縁単位がそれぞれに墓を営む、墓の社会的意味合いが変わった」。これは「古墳」の出現であり、青銅器祭祀の消滅と連動していた。土器の地域間移動が示す人の流動性の高まり、纒向遺跡のような広域センター機能などの「新たな世の」始まり。

    (赤塚次郎)
    ・二世紀は大変な気象変動期。400年周期で起こる「長周期変動期」が二世紀段階で始まっていた(中塚武「環境の日本史1」)。豪雨・旱魃が長周期で続く。127年は、過去二千年間でも想像を絶する雨量が予測される?

    (森岡秀人)
    ・紀元前1世紀ごろ「夫れ楽浪海中に倭人あり分かれて百余国を為す。歳時を以って来たりて、献見すと云う」(班固「漢書」)が始めて出てくる弥生時代中期倭国の様子。この頃、唐子・鍵遺跡の楼閣絵画壺、亀井遺跡の計量用の分銅石製品。漢人の往来の可能性。
    ・建武中元二年(57年)、倭奴国が後漢光武帝に朝賀す。「倭国の極南海なり」(「後漢書」5C)東夷の絶域の意識。
    ・107年、師升が生口160人を献じる。資料に初めて「倭国王」が登場。小国王と協力して多数の戦争奴隷を供出。範囲は近畿・東海西部までひろがっていたか。(見返り品は銅製品原料インゴットか)
    ・ヤマト外縁地域の交流が活発、淀川水系から近江南部、近江南部から尾張北部、尾張から北伊勢、丹後と近江湖西の交通網・物資移動ルートあり。湖南起源の手焙り土器の浸透。ここに、倭国乱以前の原倭国の中心がいて、師升はその中心。近江南部の伊勢遺跡はその場所で、卑弥呼共立儀礼の場。そこから纒向に移動。しかし、師升の墓は楯築。

    (仁藤敦史)
    ・公孫氏189年遼東太守。
    ・魏志韓伝によると、公孫康は楽浪郡を3世紀初頭に南北分割、南に大帯郡を置く。公孫模・張しょうを使わせて、韓と濊の難民を集めて、韓と濊を討つ。このあと、韓と倭国は太帯に属した。

    2015年5月初版発行

    2018年3月読了

  • 畿内説、九州説含め、いろんな角度から、それぞれの研究者による論考が読めて、まとめ本としてよく出来ている。が、素人が読むには一部に専門的過ぎたり偏り過ぎたりするきらいはある。巻末のまとめの文章は、オススメ本の紹介などもあり有用だった。

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