スター・ウォーズ 禁断の真実(ダークサイド) (新書y 335)

著者 :
  • 洋泉社
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本棚登録 : 108
感想 : 12
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  • Amazon.co.jp ・本 (255ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784800317643

作品紹介・あらすじ

遂に完結となるスター・ウォーズ。今まで語られてこなかった歴史を振り返る!

感想・レビュー・書評

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  • 雑誌『映画秘宝』の元アートディレクターであり、映画評論家、そしてイウォーク愛好家の高橋ヨシキ氏によるスター・ウォーズの解説書。自由連想的に、スター・ウォーズのあれこれについて作品ごとに考察した名著。

  • 『ミレニアム・ファルコンを作った男』を読み終わり、スター・ウォーズをまた振り返りたくなった。そこで、手にした一冊が本書。
    9部作(本書では8部作まで)あるスター・ウォーズを1作品ずつ公開当時の時代背景とともに解説したもの。スピンオフ作品の「ハン・ソロ/スター・ウォーズ・ストーリー」「ローグ・ワン/スター・ウォーズ・ストーリー」にも触れている。
    「新たなる希望」から映画館で見続けてきたシリーズで、LD、DVD、Blu-ray、4KーUHDと媒体が変わるたびにシリーズ全作品を買い揃え、年に数回鑑賞してきている。それくらい大好きな作品。
    こうした副読本は、購入しただけで満足してきちんと読むことをサボっている。なので、オタクの領域にはなかなか到達できずにいる。映画に関する書籍もたまには読んで楽しもうと思った。

  • ふむ

  • 〜2020/8/6読了
    著者の高橋ヨシキさんがアトロクに良く出演していて、本書を刊行している洋泉社が宝島社に買収されたことで本書の重版が今後成されないことを知り購入。
    Amazonや楽天と言った通販サイトでは軒並み売り切れていたため、書店のネットワークで購入した。

    あとがきで「禁断の真実(ダークサイド)」というタイトルは著者としては不本意ながらつけたタイトルであるという言及があったが、僕自身ちょっとタイトル負けした内容だなと思った。

    知らない情報も多々あったが、総括としては心に残らない作品だった。

  • 題名でごまかされるな。「はじめに」と「あとがき」は大事。ファンと評論家の中間くらいのレビューに感じた。新たな視点あり。

  • 高橋ヨシキという批評家がいる。あまり巷での知名度は高いと言えない彼だが、非常に高密度な思考を明晰に提示してきた、俊英である。そして、彼の作品に結実している論理の鋭敏さ、ラディカルさと、徹底的に明晰な文体、映画に対する愛、広大な知識、そしてそれらと紳士的で冷静な態度との両立を、私は深く尊敬してやまない。彼の著作を読むものは、その映画批評を読んでいるうちに、驚くべきことに映画そのものとぴったり密着したまま、そして映画それ自体から取り出されたその映画に内在する論理に最後まで伴走したまま、いつのまにやら哲学的思索へと連れて行かれてしまうだろう。未読の方は、『公式版 サウスパーク・コンプリート・ガイド』(洋泉社、2001年刊)がおススメである。ところで、最近、『スターウォーズ エピソード9』の公開に伴って、スターウォーズに対する総括や考察があらゆるところで惹起され、回顧的な研究調査の熱がにわかに再燃したが、それに合わせて公刊された高橋ヨシキの近著は驚くべき強度にいよいよ到達しており、その本内部に散りばめられた指摘はまさしく膝を打つものであった。なお、彼は「サタン」を信じているが、「サタン」とはその語源にまで遡れば、「敵」のことである。我々は「敵」を信じることができるほど誠実だろうか。自分の中に敵の声を聞けるほど、我々の思索は深いだろうか。少なくとも、彼はそう問うている。(『スターウォーズ エピソード4 新たなる希望』の初稿には、「フォース」は「フォース・オブ・ジ・アザーズ(他者の力)」であると書かれていた(p203)ことは、周知の事実かもしれぬが、一応指摘しておこう。)

    さて、これから以下に、彼の著作からいくつかの記述を引用させていただく。思考の弛緩した、凡百のスターウォーズ論に飽き飽きしている諸君にスターウォーズを愛するとはどういうことかその断片を示してみたいからだ。それでは、私からは以上である。私のこの投稿の読者諸君、フォースと共にあれ。

    【ナブーの首都が侵略されたこととナチスのパリ入城(1940年)の類似性】
    「ナブー侵略場面がナチスのパリ入城を模しているのは一目瞭然であり、かつまた共和国会議やナブーの宮殿などはローマ帝国を想起させる。ルーカスの意図は明白だ。ナチスとローマ帝国に託す形で、平和と民主主義がいかに崩れ去るのか示そうというのである。」(高橋ヨシキ著『スターウォーズ 禁断の真実』洋泉社、2019年、p34)

    【フォースとテクノロジーの共通性の指摘】
    「善にも悪にも転用可能だ、という意味でフォースとテクノロジーには共通点がある。『エピソード1』の製作を可能にしたテクノロジーにもまた、良い面と悪い面があったように。」(高橋ヨシキ著『スターウォーズ 禁断の真実』洋泉社、2019年、p38)

    【フォース概念の起源】
    「ここで「フォース」という考えができた経緯を簡単にまとめておこう。一般に定説とされているのは、アーサー・リプセットによる実験映画『21-87』(1964年)が「フォース」の起源だとする説である。この映画は編集室の床に散らばっていた他の映画の不使用フィルムの断片と、リプセット自身がモントリオールの街角で撮影した映像を組み合わせた9分半の抽象的な作品で、若いルーカスはこの映画を観て「こんな映画を自分も作ってみたい!」と思った。」(高橋ヨシキ著『スターウォーズ 禁断の真実』洋泉社、2019年、p42)

    【ジョーゼフ・キャンベルの『千の顔を持つ英雄』という研究書】
    「ジョーゼフ・キャンベルの『千の顔を持つ英雄』にルーカスが多大な影響を受けた、という事実はつとに知られているが、同書は「時代も場所も異なる膨大な神話には通底するパターンがある」ことを例証した研究書だ。『スター・ウォーズ』がキャンベルの「英雄伝説」の基本的な構造を踏襲しているのは明白であり、だからこそ20世紀の新たな「神話」たり得た、という「分析」もファンにはおなじみのものである。なお筆者(註:高橋ヨシキ)はそういう要素があったことは否定しないが、神話の構造を持っていることがサブリミナル的に作用して『スター・ウォーズ』の成功をもたらしたかのような「分析」は乱暴に過ぎると考えている。これは、同じく神話的な構造や物語をもちながら全くヒットせず、歴史の闇に消えていった数々のフィクションを考えればすぐにわかることだ。」(高橋ヨシキ著『スターウォーズ 禁断の真実』洋泉社、2019年、p48)

    【ジェダイとテンプル騎士団】
    「ジェダイの騎士たちは、騎士というより修道僧を思わせるところが多い。執着心を戒め、質素なローブに身を包んで瞑想を重んじる彼らの姿はフランチェスコ会の修道士のようでもあるが、常に武器を携え、戦闘に従事することを考えるとテンプル騎士団のほうがよりイメージに近い。」(高橋ヨシキ著『スターウォーズ 禁断の真実』洋泉社、2019年、p51)

    【プリクエルは、何を描かなかったのか。】
    「昼なお薄暗いモス・アイズリーの路地に、ものものしい雰囲気を漂わせた帝国軍の一団(ストームトルーパー)の一団が姿を見せる。ただならぬ気配に、隅っこでボウル鉢を片手に物乞いしていたと思しき貧民の女性や道行く人々が思わず身をすくめる。建物の壁を背に、おびえた目つきで彼らの姿を追う者もいる。たった4秒ほどの短いカットだが、この場面は『エピソードⅣ/新たなる希望』の中で非常に重要な機能を担っている。市井の人々と帝国との関係がわかるからだ。『新たなる希望』では、他に検問の場面、ならびにカンティーナにストームトルーパーがやってくる場面で帝国軍の日常への介入が描かれているが、前者はオビ=ワンが軽くいなしてしまうし、カンテイーナに集う強面の連中はストームトルーパーを前にしてもふてぶてしい態度を崩さないため、先の場面とは意味合いが少し異なる。路地のシーンではっきりとわかるのは、人々は帝国軍を歓迎していないが、といって彼らに楯突くわけにもいかず、重武装の歩兵が日常の風景に割り込んでくるのをおびえて見つめることしかできない、という帝国支配下の「日常」である。雰囲気としては外国の軍隊や国連軍の占領下にある土地の空気感に近い。『スター・ウォーズ』旧三部作にはいくつもの惑星が登場するが、人々の日常と帝国軍が交錯するのは『新たなる希望』のこの場面だけだ。そして、この場面だけがもたらすことのできた世界観の広がりこそがプリクエルに欠けていたものだと筆者は考えている。唯一の例外は惑星ウータパウでオビ=ワンがティオン・メイドンと会話する場面だが、こちらは「非日常」としての占領下であることが明白なので、一種の租界として登場するタトゥイーンの光景とは状況がやや異なる。タトゥイーンの路地にストームトルーパーがやってくる場面には、もっと『カサブランカ』(1942年)的なものがあるーーどちらもいかがわしく、砂まみれで、エキゾチックな異世界であり、法律(=帝国)の網の目をすり抜けてアウトローが跋扈しているところも共通している。プリクエル三部作で『スター・ウォーズ』の世界は、少なくともビジュアル的には旧三部作を遥かに凌ぐスケールに拡張された。だが、共和国やジェダイが、その世界に住む人たちにとってどのような存在なのか明示する場面はほとんどない。ジェダイが普通の人たちにとって面倒くさい存在だと思われていることを示唆する場面はわずかながらある。アナキンとオビ=ワンが賞金稼ぎザム・ウェゼルを追ってコルサントのバーに踏み込む場面(『エピソードⅡ/クローンの攻撃』)や、クワイ=ガン・ジンがワトーを「ジェダイ・マインド・トリック」で操ろうと試みる場面などがそうだ(「エピソードⅠ/ファントム・メナス』。なお『クローンの攻撃』でオビ=ワンがデクスターと話す場面は個人と個人の繋がりを示しているだけで、ジェダイがどのように社会に受容されているかを判断する手がかりにはならない)。言うまでもないが、これは『スター・ウォーズ』プリクエルに固有の問題ではない。多くのファンタジー映画やのSF映画が説得力を欠くように観客が感じるのは背景となる社会と、そこに暮らす人々(の生活)とのインタラクションをうまく提示できていないからではないだろうか?これは異世界をビジュアル的に作り込むことや、エキストラの人数を増やすことでは解決できない問題である。もちろん、だからといってビジュアル的な作り込みが無駄だというわけでは決してない。ビジュアルによって地域ごとの貧富の差だとか、社会が内包あるいは許容する差別の構造など多くのことが表現できるのは事実であり、背景や美術の重要性は指摘してもし足りない。たった一枚のマットペインテイングがシーン全体の雰囲気やエモーションを決定づけることはいくらでもあり得る。それでも、とある体制が「どのように」人々に受容されているのか、という実感をもたらすのが画面に映る人々の反応や態度であることは変わらない。」(高橋ヨシキ著『スターウォーズ 禁断の真実』2019年、p66-p69)

    【シーヴ・パルパティーンが皇帝になる過程は説得力に欠ける。共和制それ自体に内在する根本的問題を指摘できているのか。】
    「『クローンの攻撃』で惑星ジオノーシスに飛んだオビ=ワン・ケノービはドゥークー伯爵に率いられた分離主義者が強大なドロイド軍を準備していることを知る。この脅威を名目に、既に共和国最高議長の地位を手に入れていたパルパティーンに非常時大権が与えられるという展開はわかりやすい(し、画面でしっかりと描かれている)。しかし『シスの復讐』でパルパティーンがジェダイを反乱者と位置づけ、共和制に代わる強固な社会システムとしての帝国の創設を高らかに宣言する場面には違和感が残る(「こうして自由は死ぬのね、万雷の拍手の中で・・・」というパドメのセリフは感動的だが)。メイス・ウィンドゥ率いるジェダイの騎土たちがシスの暗黒卿と判明したパルパティーンを攻撃したのは事実だ。「彼らの襲撃によって私は傷を負い、顔も醜く歪んでしまった!」とパルパティーンは議会で滔々と語ってみせたが、果たしてその言葉だけで並み居る議員たちを納得させられるものだろうか?あるいは、たとえ議員たちが説得され得たとしても、観客の視点からはどうだろうか。観客はプリクエルを通じて、ジェダイの騎士たちが分離主義者やシスを相手に雄々しく戦うさまを観てきている。帝国の成立を成り立たせる前提としての「ジェダイへの忌避感や嫌悪」、また議会に蓄積しているとされる「共和制への不満」は観客に共有されていない。」(高橋ヨシキ著『スターウォーズ 禁断の真実』洋泉社、2019年、p73-p74)

    【ハンソロ、ルーク、チューバッカの友情関係の原型としての『ガンガ・ディン』(1939年)】
    「『ガンガ・ディン』は『ジャングル・ブック』で知られるイギリスの詩人・小説家ラドヤード・キプリングの詩をもとにしたアドベンチャー大作で、多くのキプリング作品と同じく19世紀、イギリス統治下のインドが舞台である。」
    (高橋ヨシキ著『スターウォーズ 禁断の真実』洋泉社、2019年、p76-p77)

    【グンガン人の名前の由来は『ガンガ・ディン』である】
    「またグンガン人(Gungan)のジャー・ジャー・ビンクスが「ガンガ・ディン Gunga Din」に由来することも明白だ(これもstarwars.comに記載されている)。」(高橋ヨシキ著『スターウォーズ 禁断の真実』洋泉社、2019年、p79-p80)

    【キャッシークの闘いの意義】
    「シスが復讐を成し遂げ、暗雲が宇宙を覆った後にも「新たなる希望」は残る。抵抗し続ける「宇宙のベトコン」がいる限り。戦場で勇敢に立ち上がる『ガンガ・ディン』がいる限り。『シスの復讐』でキャッシークの闘いがフィーチャーされているのは偶然でもファンサービスでもない。それはイウォークの闘いへと連なる、終わりなき「力を持たぬ者たち」の戦いが始まったことを示していたのである。」(高橋ヨシキ著『スターウォーズ 禁断の真実』洋泉社、2019年、p92)

    【ポスト・モダンとしての『スター・ウォーズ』と『ブレードランナー』。それに対して、ポスト・ポスト・モダンとしての『ローグ・ワン』】
    「『ブレードランナー』と『スター・ウォーズ』はどちらもスタイルと物語の両面において「ボスト・モダン」を体現した、キメラ的なイメージの集合体として登場した。「大きな物語」に疑いの目を向けているところも両者の共通点だ。人間と機械、テクノロジーと魔術の境界線がぼやけ、ミクロコスモスとマクロコスモスが重なるところに『ブレードランナー』や『スター・ウォーズ』はある。続編『帝国の逆襲』でルーク・スカイウォーカーの父親であることが明かされる以前、1作目のダース・ベイダーが端的に言って機械の体を持つ魔術師であったことは常に想起する必要がある。ベイダーは同時に伝統的に不具者として描かれる「海賊」の表象でもあり、「巨人」であり、「剣術使い(サムライ)」であり、何より擬人化されたナチス・ドイツでもあるわけだが、ベイダーがそれぞれ起源も文脈も異なる概念をまとった、いわく形状しがたい存在であることは、巷間言われるような「神話」の枠組みを超えて彼が「ポスト・モダン」的であることを示している。だが『スター・ウォーズ』1作目の「ポスト・モダン性」については改めてじっくり検討することにして、ここでは『ローグ・ワン』の、いわば「ポスト・ポスト・モダン的」とでもいうべき立ち位置と、それを可能にした状況の変化というものについて考えてみたい。『ローグ・ワン』を成立せしめたものは、「『スター・ウォーズ』考古学」とでも呼ぶべき調査研究であり、その「考古学」を踏まえて旧三部作時代の『スター・ウォース』の世界を再構築せんとする職人技である。これを例えて言うならば、身元不明の頭蓋骨に肉付けをして生前の姿を明らかにする「復顔法」か、あるいは失われた古代の神殿の在りし日の姿をCGIで「再現」する試みに似ているが、大きく異なるのは「復顔法」や「古代神殿の再現」とは違って、『ローグ・ワン」の場合は「実物の映像」が参照できたということだ。構造や内部機構から外観を想像するのではなく、あらかじめ分かっている外観(イメージ)に基づいて、オリジナルと違和感なく接続できる映像をものにすること。文脈から切り離された断片のミクスチャーが「ポスト・モダン」的な映画に結実したとすれば「ポスト・ポスト・モダン」であるところの『ローグワン』においては、過去の作品の断片ひとつひとつを、まさに考古学的な、あるいは解剖学的な細心さを持って同定し、それをバーチャル空間内で均質化されたピクセルを用いて再構成することが求められた。(高橋ヨシキ著『スターウォーズ 禁断の真実』洋泉社、2019年、p127-p130)

    【『スターウォーズ』は「過去の物語」である】
    「「遠い昔、遙か彼方の銀河系で・・・」で始まる『スターウォーズ』は当然のことながら「過去の物語」である。SF的な装いを凝らしてはいるものの、『スターウォーズ』はその前提からして史劇あるいは時代劇の変種であって、一見、未来的に見える異世界のガジェットが「古びている」のはそれが古城や百戦錬磨の海賊船を舞台にしたコスチューム・プレイであることを如実に物語っている。よく、レトロ風味のSFヴィジュアルを指して「過去から見た未来」という言い方をするが、『スターウォーズ』の世界は「未来のように見える過去」として描かれている。だから、本来『スターウォーズ』の世界観に「更新」は必要ないはずだった。ルーカスはデヴュー作『THX-1138』(1971年)を2004年に「ディレクターズ・カット」という形で改変しているが、これは『THX-1138』が未来社会を描くものだったからだ。『THX-1138』は周到に撮られた作品で、そのコンセプチュアルでシンプルな未来像はなかなか古びないかに思えたが、30年以上の年月を経て、さすがにやや「古臭い」と(ルーカスに)思えるような箇所があったこと、ならびに違和感なくビジュアルを拡張できるCGIという絵筆をルーカスが手に入れたことが「ディレクターズ・カット」を生んだわけだ。一方でルーカスは二作目の『アメリカン・グラフィティ』(1973年)には手を加えていない。『アメリカン・グラフィティ』は製作された年「より前の」過去、1962年を舞台にした「時代劇」だから、更新する必要が生じないのである。「未来像」は時代によって変選するので『THX-1138』には手を加える必要があった(とルーカスは思った)。『新たなる希望』の設定は、その意味でとてもトリッキーなものだった。明らかに未来のように見えるにも関わらず、「これは遠い過去の話だ」と主張しているのだから当然ともいえるが、今なお『スター・ウォーズ』の話をしていてつい「あの未来像は・・・」と言いかけて、あわてて言い直すという経験のあるファンは多いはずだ。」(高橋ヨシキ著『スターウォーズ 禁断の真実』洋泉社、2019年、p153-p155)

    【『クローンの攻撃』におけるドゥークー伯爵戦では顔にライトセーバーの光が反射する】
    「ドゥークー伯爵とのライトセーバー戦は、人物の顔にライトセーバーの光が目まぐるしく反射するという斬新な表現が画期的だった。ドゥークー戦以前の『スターウォーズ』ではライトセーバーの光が人物や環境に反射することがなかったからである。」(高橋ヨシキ著『スターウォーズ 禁断の真実』洋泉社、2019年、p169)

    【アニメーター、レイ・ハリーハウゼンの影響】
    「『クローンの攻撃』の長大なクライマックス場面は、ジオノーシスの闘技場に引き出されたアナキン、パドメ、オビ=ワンの3人が、獰猛で巨大なクリーチャーの生費にされそうになるところで始まる。このシーンでオビ=ワンが衛兵の持っていた槍を奪ってカマキリのような怪物アクレイに立ち向かう姿を見て、思わず息を飲んだ人は多いと思う。槍を構えたオビ=ワンと怪物を横からとらえたカットがレイ・ハリーハウゼンのダイナメーション映画そのものだったからだ。」(高橋ヨシキ著『スターウォーズ 禁断の真実』洋泉社、2019年、p171)

    【グリーヴァス将軍とカーリー神像】
    「ロボットや彫像をストップモーションで動かした例は『帝国の逆襲』以前にもあった。最も有名なのはやはりハリーハウゼンがアニメートした『アルゴ探検隊の大冒険』に登場する青銅の巨人タロスや、『シンドバッド黄金の航海』に出てきた金属製のカーリー神像だろう。シンドバッド一行とチャンバラを繰り広げたカーリー神の像は合計6本の腕があり、そのひとつひとつが剣を持っていたのだが、その姿は4本の腕に4つのライトセーバーを構えたグリーヴァス将軍を彷彿とさせないだろうか?」(高橋ヨシキ著『スターウォーズ 禁断の真実』洋泉社、2019年、p179-p181)

    【カンティーナでグリードを演じたのは女性である。】
    「「カンティーナの酒場」の場面が1976年と1977年に、それぞれイギリスのエルストリー・スタジオとロサンゼルスのラブレア・アベニューにあるスタジオで2回にわけて撮影されたことはよく知られている。メイクアップ担当のスチュアート・フリーボーンが体調を崩し、満足のいくクリーチャーが揃えられなかったからだ。そこでアメリカで追加撮影を行うことになったのだが、このときにリック・ベイカーやロブ・ボッティン(当時はリック・ベイカーのアシスタント)、フィル・ティペットやダグ・ベズウィック、それにジョン・バーグといった面々がさまざまなエイリアンを提供したことで、カンティーナの場面に厚みと豊かさがもたらされた。酒場で演奏するバンドもロサンゼルスで撮影され、バンドのメンバーの中にはフィル・ティペットとジョン・バーグも入っている。グリードがハン・ソロを脅すシーンもこのときに撮られたもので、エルストリーでグリードを演じたポール・ブレイクに代わってマリア・デ・アラゴンという若い女性がハンと対時するグリードを演じた。『新たなる希望』のメイキング写真でグリードがパンプスを履いているものがあるのはそのせいだ。」(高橋ヨシキ著『スターウォーズ 禁断の真実』洋泉社、2019年、p193-p194)

    【ジャバ・ザ・ハットと『マルタの鷹』】
    「犯罪細織ハット・カルテルの首領で、巨大なカエルのような姿をした悪党ジャバ・ザ・ハットは『ジェダイの帰還』で初めてスクリーンに登場した。『新たなる希望』のカット場面でジャバを俳優(デクラン・マルホランド)が演じていたこと、その場面がジャバをCGIに入れ替えて『特別編』で復活した経緯などについては有名な話なので割愛する(1997年の「特別編」バージョンの方が、見た目をより『ジェダイの帰還』に近づけた2004年版よりずっと間抜けな感じで愛らしい、ということは言っておきたいが)。ジャバ・ザ・ハットの造型に際し、ルーカスがイメージしていたのは「マルタの鷹」(1941年)でシドニー・グリーンストリートが演じた「太っちょ」ガットマンと『ゴッドファーザー」(1972年)でマーロン・ブランドが演じたヴィトー・コルレオーネだった。」(高橋ヨシキ著『スターウォーズ 禁断の真実』洋泉社、2019年、p197)

    【エピソード8は想像の余地を潰した】
    「『エピソードⅧ/最後のジェダイ』は映画の冒頭を飾るオープニング・クロールでまず躓いた。レイが古代のジェタイ寺院にルークを訪ね、ライトセーバーを渡す・・・という、感動的な『エピソードⅦ/フォースの覚醒』のエンディングから間を置かずに繋がるシーンを入れてしまったからだ。『最後のジェダイ』監督のライアン・ジョンソンは「ライトセーバーを受け取ったルークがそれをどうしたのか、ぼくはどうしても観たかったんだ」と言っているが、エピソード間の隔たりをなくしてしまうということは、オープニング・クロールの存在価値が消え失せるということであり、観客の想像の余地を潰してしまうということでもある。」(高橋ヨシキ著『スターウォーズ 禁断の真実』洋泉社、2019年、p228)

    【エピソード5の手際の良さ】
    「『フォースの覚醒』と『最後のジェダイ』の間にタイムラグがないことは、別の問題も引き起こした。先に、タイムラグがあった場合、前作を観ている観客は「この数年間で、おなじみのキャラクターにどのような変化があり、情勢はどうなってしまったのかな」と思いながら映画館に向かうと書いた。そして彼らは新作のオープニング・クロールで、その「数年間」のあらまし=今回の物語の前提を知り、そこから映画が始まる。映画の冒頭部分はキャラクターを紹介し、それぞれの関係性を説明する時間だ。観客の知らない「数年間」の間にキャラクターは成長しているだろうし、彼らの関係にも多少の変化があるに決まっているので、この部分は絶対に必要だ。『帝国の逆襲』の冒頭部分における、キャラクターとその関係性を見せる手際の良さは抜群だ。ハン・ソロが氷の惑星ホスの基地に戻ってきてからわずか2分半ほどの間に、ソロとチューバッカの関係、反乱軍とソロの関係、ソロの借金事情、さらにレイア姫とソロがお互いに好意を抱いていながらそれを素直に表現できていない状況にあることが完全にわかる。繰り返すが、これらすべてが2分半の間に余すところなく表現されているのである。」(高橋ヨシキ著『スターウォーズ 禁断の真実』洋泉社、2019年、p236-p237)

  • 著者曰く、サブタイトル「禁断の真実」は営業側の要望で付けたタイトルだということで、別にそういったセンセーショナルな内容ではない。公開年ではなく、物語内の時代に沿って各作を語っていく構成(つまりep1から始まりep8までを語っていく。『ローグ・ワン』『ハン・ソロ』もそれぞれの作中年代に合わせてep3と4の間に配置)。
    各作ごと、あるいはスター・ウォーズ全作を通じての突っ込んだ評論というわけではなく、著者一流の膨大な知識に裏打ちされたフワッとしたエッセイ、読み物といったところ。私自身は正直、スター・ウォーズにそれほどの思い入れがあるわけではないのだが、ep9鑑賞前のサブテキストとしてサクッと楽しく読むことができた。

    旧三部作およびプリクウェルまではルーカスらオリジンを生み出した制作者の手にあったため、例えどんな内容であれファンは(最終的には)受け入れざるをえなかったし、制作者側も(結果はどうあれ)新しい挑戦ができた。しかし、ルーカスの手を離れディズニーのIPとなって以降、関わるクリエイターたちはまず何よりも自らがこの超有名シリーズの新作を継ぐに相応しい者であるという正当性を、つまり自分もまた勉強熱心なファンボーイなのだということを、ファンコミュニティに対して必要以上にアピールしなければいけない状況があり、それはあまり幸福なことではないのではないか……という話が途中出てくる。これはスター・ウォーズに限らず、超有名IP(そう、“作品”というナイーブな対象ではなく“IP”というビジネスの問題だ)の続編をオリジンクリエイター以外の者が作り続けなければいけない現在のエンタメ業界全般に関しても言える話で、ちょっと気をつけて考えていく必要があることだろう。

    ep9公開に合わせての出版ということで、急いでいたのか校正がけっこう甘い。誤記のためたぶん筆者の主張と反対のことになっている箇所が終盤にあり、そこはマイナス。

  • 当然エピソード8までしか取り上げていない。それはいいのだが・・・。何だがはぐらかされた感じ。

  • いよいよ最終章が公開される「スター・ウォーズ」の各エピソードを映画内容の時系列順に並べて解説・解読していく。特に映画技術の発展と他の映画との関連や時代背景と照らし合わせる点では他のファンブックとは異を放っている。‬

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著者プロフィール

1969年生まれ。映画ライター、アートディレクター、デザイナー、チャーチ・オブ・サタン公認サタニスト。
著書に『悪魔が憐れむ歌――暗黒映画入門』(ちくま文庫)、『高橋ヨシキのサタニック人生相談』(スモール出版)、『高橋ヨシキのシネマストリップ 戦慄のディストピア編』『高橋ヨシキのシネマストリップ』(共にNHKラジオ第1「すっぴん! 」制作班・編/スモール出版)、『ヨシキ×ホークのファッキン・ムービー・トーク!』(てらさわホーク・共著/イースト・プレス)などがある。

「2021年 『ヘンテコ映画レビュー』 で使われていた紹介文から引用しています。」

高橋ヨシキの作品

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