- Amazon.co.jp ・本 (187ページ)
- / ISBN・EAN: 9784801000834
作品紹介・あらすじ
青春時代の思い出の断片から浮かびあがる亡霊のようなシルエット。かつての恋人の足跡を求めて、パリの街を彷徨するひとりの男。かすかな記憶の糸が、四十年の時を経て、恋人の生まれたベルリンへと誘う…モディアノらしさと、今までになかった新鮮さを味わえる記憶と夢想の物語。
感想・レビュー・書評
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『つまり、彼らはしょっちゅう隣り合わせにいるのだが、それぞれが異なる時間の回廊の中にいるのだ。互いに話をしたくても、水族館のガラスに隔てられた二人のように、お互いの言っていることが聞こえないだろう。彼は立ち止り、彼女がセーヌ川のほうへ遠ざかっていくのを見ていた。彼女に追い付いたところでどうしようもないんだ』
初めて読む作家。読み始めた途端、「アウステルリッツ」のW・G・ゼーバルトを彷彿とさせるフランスの作家パトリック・モディアノ。1944年ドイツ生まれのゼーバルトに対して1945年フランス生まれのモディアノ。1944年と言えばノルマンディー上陸作戦が敢行された年であり翌1945年はドイツが降伏した年。多くの西欧の都市が瓦礫と化した中で生まれ幼少期を過ごした二人の作家が同じように「記憶」に拘って書いているのは決して偶然ではないだろう。とは言え、モディアノはゼーバルト程に散文詩的ではなく、断片的でもない。翻訳者によるあとがきを読む限り本作の様式が典型的なモディアノの作風という訳でもなさそうではあるけれど、物語の道筋は案外とはっきりとしている。しかし、やはりゼーバルト同様に記述は切れぎれとなり、漂う記憶は川面を流れる泡沫のようにひどく脆くて留まることを知らない。そう書くとどうしても古典で習う有名な一節が口をついて出そうになるが、敢えて言わないでおこう。何故なら、ここは鴨長明よりも寧ろアポリネールだから。
『Sous le pont Mirabeau coule la Seine/Et nos amours/Faut-il qu'il m'en souvienne/La joie venait toujours après la peine』―『Le pont Mirabeau/Guillaume Apollinaire』
(ミラボー橋の下をセーヌが流れる/そして我らの愛も/私も思い出すべきだろうか/痛みの後にいつも楽しみが来ることを)
記憶というものは、ともすると不透明な水底からゆっくりと浮かび上がってくる泡沫のように水面に現れてくるもの。その印象は二人の作家に共通するように思うけれど、ゼーバルトの残した小説の中での記憶は、寧ろ、濃い霧の中からゆっくりと表れてはほんの一瞬だけすれ違いざまにその横顔を見せたかと思う間もなく、再び霧の彼方へぼんやりと消えてゆくようなものであるのに対して、モディアノの記憶は断片的ながらしっかりとした輪郭を持ち、指し示す先は不明ではあるものの何かを、あるいは何処かを指す強い矢印のような表象を持っているという違いがあるように思う。そのことは、物語全体を不連続ながらも繋ぐ確かな道筋を読む者に与える。そしてその道の先も、また。
『もうすぐ、僕らは新しい地平線を求めてパリを離れることができる。僕らは自由なんだ』
翻訳家によるあとがきはモディアノ初心者にとってその作品の理解を深めるのにとても有益。そして彼の他の作品を読んでみたいと思わせてくれる解説でもある。そして翻訳家が随分とモディアノに親しんできたことも伺える。とはいえ「地平線」に込められた意味を「未来」「希望」と捉えていることには、ほんの少しだけ違和感を覚える。これは寧ろ本文中にさり気なく幾度か出て来る「消失」という言葉と関係した題名ではないだろうか。
『そもそも、本当に彼女だろうか? あまり詳しく知らないほうがいい。少なくとも、疑いがある限り、彼はまだ希望の形、地平線に向かう消失線上にとどまっているのだから。時はおそらくまだその解体作業を終えてはおらず、まだ会う機会があるだろうと思われる』
つまり、地平線は全ての消失線の収束するところ消失点の連なり、ということ。とすると、モディアノの記憶はやはりどこか遠いところへ向かって行きながら霧散してしまう類のものなのだという印象に繋がる。そうなるとアポリネールの詩の一段目が語るような、痛みの後の楽しみとも捉えることのできる少々ハリウッド映画が描くようなエピローグの示唆するものも、実態の伴わない夢のようなものに思えてくるし、地平線は希望というよりは淡い、あるいは儚い期待を意味するように読めてもくる。そもそも「ミラボー橋」はそんな大団円を歌った詩ではない(モディアノがアポリネールに言及している訳ではないです、念の為)。
『Passent les jours et passent les semaines/Ni temps passé/Ni les amours reviennent』―『Le pont Mirabeau/Guillaume Apollinaire』
(日々も過ぎ、週も過ぎるが/時は過ぎず/様々な恋は帰ってこない)
もっともこのことは、翻訳家が示唆する「新しさ」を実感する為にも、作家の他の小説も読んでみないことには確かとは言い切れないけれども。
『残念なことに、失われた時の探求がマルセル・プルーストのような鮮やかさや力強さをもってなされることはもうないという気がしています。彼が描いた社会はまだ安定していた十九世紀の社会でした。プルーストの記憶は、実物と見間違えるほどに描かれた絵画のように、もっとも緻密な細部に渡って過去をよみがえらせていました。今日では、記憶というものはずっと不確かなものになってしまって、絶えず記憶喪失と忘却に対して抗わなくてはならないように思うのです。あらゆるものを覆い尽くす忘却の塊や忘却の層のせいで、かろうじて過去の断片を集め、途切れた足跡をたどり、ほとんどつかむことのできない、とらえどころのない人間の運命をわずかに知ることしかできないのです』―『あとがき/ノーベル賞受賞式スピーチ』
この言葉はもちろん(ゼーバルトはノーベル文学賞を貰う前に亡くなってしまったので)モディアノの言葉だが、同じような時期に生まれ、戦争という枠組みの中であちら側とこちら側に生まれ合わせたゼーバルトにとっても彼の作風を言い表す言葉のように響いている。忘却に抗うこと、それが茫々とした街の残骸を肌で感じてきた作家たちの言わんとすることなのだろう。ああ、きっとゼーバルトにはまったように、まだ何冊かこの作家を読むに違いない。惜しむらくは、ゼーバルトが鈴木仁子という良き翻訳家に恵まれたように、モディアノにも専属と呼べるような翻訳者が居て統一された声で訳されていればなあ、ということ。例えば、ポール・オースターにおける柴田元幸、ジュンパ・ラヒリの英語による著作における小川高義のように。堀江敏幸翻訳による全集刊行とか、どうだろう。詳細をみるコメント0件をすべて表示 -
この作者の小説を読むのは初めてである。おもにパリを舞台に、追憶が語られ、古い時代の思慕が描かれる。そう書くと紋切り型のような感じもするのだが、さすがに文章そのものは非常にこなれていて、それでいてピンとこなかった、はっきり言えば自分の心に爪が立てられたと思えずにするすると読み終わってしまったのは、この簡素に見える物語があんがいハイコンテクストに組み立てられているからではないかと思う。ここに描かれた20世紀中葉のパリや、その前の占領期のパリについて自分の知識ははなはだ貧しい。まだらに淡い知識こそあれ、とてもその街路や人の面構えを想像できるようなものではない。あんがいパリは遠いのである。
もっとも、この小説を読み解くに当たって必要なものはそういう歴史的な事物についての知識というよりは、この作者、モディアノの作品をいくつか読むことによって培われるような類いの、歴史に対してこの作者が抱くフェティッシュな感慨のようなものではないか。そうでなければ、たとえばボスマンスがマルガレットに対して抱く執拗な、そしてなんだかピントのずれた執心の理由はわかりそうにない。
ある種の探求の物語であるには違いない。小説の主題として、探求とはごくありふれたものの一つだし、その探求に寄り添って視線が誘導されもすれば物語を掘り進んでいくこともできるのだけれど、本作についてはなかなかそうならないのがもどかしかった。全体的に淡すぎるのかも知れない。人物も、言葉も、さらさらと流れていって、たまさか奇異な行動に走る人間がいてもそれすら性急に時間のとばりの向こう側に姿を隠してしまう。なんだか残念である。
作者は2014年のノーベル文学賞受賞者である。しかしこれは率直に言って、フランスに生まれフランス語でパリのことを書き続けた作者だからここまで評価されたのかも知れないなという印象を抱いた。なんだかんだ言って、今に至るまで文学とは結局のところヨーロッパのものなのだろう。