脱近代宣言

  • 水声社
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  • Amazon.co.jp ・本 (297ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784801003507

感想・レビュー・書評

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  •  色々話されているが、シンプルなテーマで徹底的に対談が交わされている本。
     五感を超えた空間をデジタル技術で作成し、インフラとし、共通の道具によって結びついた社会の個が、道具を変えたら集団も変えるように流動的に生きて、虚と実のサイクルを道具を使いこなして巧みに処理して各々の価値となるリアリティを生み出しながら、「今」を意識して生きる。しかし、自然の複雑さや魅力と交わる人間と、デジタルネイチャーの中に生きる人間の違いはないのかあるのか。数値化された視点では、ない、と言えるし、数値化しなければ違いはあるといえる。そこまでの議論がなされているように思う。

     まず、デジタルネイチャーには、どうやっても、作っている側と作っていない側があると思われる。(本人達は否定しそうだけど)
     最初に、時代についていけない人間とそうでない人間を分けて考える。そうでない人間は、狂四郎2030のように、もしくはマトリックスのように、もしくは水槽の中の脳のように過ごしてそのままいたらいいと述べる。マッドサイエンティスト味が凄い。
     そして、選ばれし、近代を超えた人間はどういうものなのか。人間の五感を超えたところも制御の範囲として広げて、そこから恩恵を享受するシステムの中で過ごすのだ。
     古い人間は、局所的な、一部分が光るとか、歯ごたえがあるとか、そういうものに価値を置くが、これからは、虚と実、部分が全体となり全体が部分となるようなサイクルに価値を置くのだという。
     社会においては、国家や、天皇でもいいが、ある絶対的なものを求めて、それによって集団が作られるのではなく、道具によって集団が形成される社会となると述べる。
     その道具集団社会のなかで、個はどういうものであるかというと、原因から結果、結果から原因が重なり合うようなところにあるモナドとしての個となり、「今」を自覚する個となる。それは消費者としてただ受用する個ではない、真にリアリティを持てる個である。
     その後、動物と人間のもつネットワークの違いや、大人になることについて対談するのだが、はじめて衝突点が生まれる。
     結局、デジタルネイチャーと自然は、どれだけ設計者ががんばっても、公園に遊びに来た子供が不思議がるモンシロチョウ一匹の魅力には勝てないのではないかというところで、「そうなんだけれど、子供はモンシロチョウを解明しませんよね」と落合が述べ、やや意見がすれ違う。結局、デジタルネイチャーで、ビルがはやく建てられるという利便性か、フィクションから現実が生まれることの哲学を宣長や小林秀雄から考えるなど、議論が分散する。
     最後に、過去の文脈ばかり参照する旧態依然のアート業界に、理系の研究者が殴り込みかけたったらどうやねんみたいな話になってビールで乾杯を誓って話は終わる。

     以下、細かなメモである。
    【制作者と愚民に分けている?ポイント】
     ゴールドでもカメムシでもどっちでもいいという境地にいたる人といたらない人で分け、いたらない人間には、ネットゲームの世界に閉じ込めて永遠にギャンブル性のあることをさせて働かなくてもいいリアルゲームみたいな中で幸せに過ごさせる。

    【選ばれた人間はどこにいくのか】
     では、自分たちは何をしているかというと、たとえば空間のこの部分だけ音が消える。この部分だけ光が消える。そういう性質の素材はなんだろうか。自分たちの感覚の分析・自分たちの感覚の範囲を基準にした測定器でものごとを調べているけれども、人間の感覚器とは関係のない、決して捉えられてこなかった構造に注目して「メタ構造」に到達しようとする試みをしているという。人間の五感以外の外側にある波とか、そういう論理空間から、今あなたは何々すると仕事の効率があがるよと、言われるような時代が来る。

    【新たな価値について】
     チャキッ、チャキッとした歯ごたえがあるとか、時間方向の一部に刺激が強いみたいなもの、そういう局在する空間分布をもっている感覚器に対する性質のあるものを、やっぱり人間は好む。しかし、次の段階は、「実」と「虚」の回転の速さ、相転移のサイクル活動のはやさ、それは、価値が局在しているよりも価値があるという。
     ゆえに、「各々のリアリティを作れる環境になっているので、受け身になってたらダメ」というのは良かった。
     あと、茨木のり子の「敵について」という詩について落合陽一が紹介していて、二項対立の人と対話するのに良いと述べている。

    【道具集団について】
     ある道具をある集団がどう使い、どういう関係をもつかによって、その社会集団が出来上がっていくと考える。道具を巡る布置があって、その集団の性格を決める。道具と人間がじつは一体であり、それをまたシェアすることにより集団もできていく。近代は人間があって、「唯一の自然」があるという状態だったが、共通の敵などで自分たちの社会を動かすのではなく、道具集団によって集団の移動をたやすくしつつ、それぞれの世界があるという風に述べる。そのあと、VRゴーグルで赤ん坊のころに戻して、大脳を活性化させて認知症を治すといった話がされる。

    【今につながる体系について】
    「空」の話題になり、「中論」における

    1 すべては真である。
    2 すべては偽である。
    3 すべては真でありかつすべては偽である
    4 すべては真実であるわけでもなく、かつすべては真実でないわけでもない

     究極の肯定の思想。この4段階目が「空」だという。
     かつ、西田哲学をひいて、絶対矛盾的自己同一は、さまざまな「多の一」を形として作っていって、それをどんどん組み替えていくと、「一の多」にじつはなっているというものだったけど、「一の多」にあらず「多の一」にあらず、しかも一即多、それらがこの「今」において合一するというのはこの中論の第四段階と共通するという。
     この「一の多」は、目的因的な世界観であり、原因が未来にある。種はやがて樹木になるという目的をもつものである、という風に。鶏があって卵があるとやっていくと、次第に卵があって鶏があるとなって、そのうち鶏と卵が合流して「今」となるような感じか。
     上妻世海は「でも、そうなんでんすよ。結局消費するだけの人間って「今」がないんですよ。つまりリアリティがない。」と述べている。
     「部分かつ全体である状態は存在する」、一言で言えばモナドであるという。

    【人間以外のインターネットについて】
     落合陽一は「人間にとっての音と光のインターネットが、犬にとってはすでに匂いのインターネットとして存在しているかもしれない」と述べている。

    【大人になることについて】
     上妻世海は、西洋近代の価値観だと、大人になることは、全能感を捨て、自分の限界を感じて社会的な役割みたいなものを獲得していくプロセスを経ることであるが、アマゾンのある部族においては、大人になることは敵の視点から自分を見ることができるようになることを意味しているという。
     敵の目から見た自分を見れるようになることは、再度その視点を折り返して、敵を理解し、殺すことができるようになることを意味している。獲物を狩れてようやく一人前の大人なんです。(P190)

    【自然とデジタルネイチャーの対決】
     さて、ここであっさり流されそうで非常に重要な論点が出ている。シンプルでもある。P208~211にある、上妻氏が述べた、デジタルネイチャーと実際の自然の複雑さ、落合は公園に行くという情報と、公園に実際に行くという話はまったく変わらない話という。
     モンシロチョウがいるとして、なぜモンシロチョウは雄と雌の区別がつくのだろうとか、子どもは色々疑問を持つわけであると、上妻氏は述べるが、落合はこう言い返す。

    「そうなんだけれど、子供はモンシロチョウを解明しませんよね」

     そのあと、上妻は、物理的に大きな建物をたてると何年もかかるけれど、デジタルネイチャーなら物理領域で難しいことも簡単にできるといったことを述べている。
     清水は、小林秀雄の宣長論を出して、フィクショナルなもの、ヴァーチャルなものが、それこそ物として現れてくるのはどういうことなのかを、ずっと考えたものだと小林秀雄や宣長を評価する。

    【アート業界への技術者登場への期待】
     上妻が「僕には今のアートが、過去の文脈に沿ってほめられようとする技としか思えないのでおもしろさを感じないものが多いですね」と述べ、IPS細胞の山中伸弥さんが、僕がアーティストだって名乗ったらやばいよって。アート以外こそがアートである、と。

    P270 落合の発言部分の輪るピンクドラムは、ピングドラムの間違い。

    【その他】
     後、落合陽一がビールを飲むというのが意外だった。

     全然関係ないが、グリーンバーグの話題が出てきていて、メモしておく。
    P18
    グリーンバーグはいわゆる媒体固有性の純化プロセスからモダニズムを定義してますよね……。絵画の絵画たる本質は平面的な表面、支持体の形態、顔料の特性といった媒体にあって、それらの条件のもとで平面性を探求してきたのが絵画の歴史であり、モダニズムであると。しかし、彼は媒体固有性にこだわるあまり、マネ、セザンヌからジャクソン・ポロック、ポスト・ペインタリー・アブストラクションへといった、単線的かつ本質主義的な仕方でモダニズムの文脈を描いてしまいます。

    P285
    クレメント・グリーンバーグが生み出した、抽象表現主義以降の動向、作品群を指す用語。また一九六四年に彼自身が催した同名の展覧会。絵画的特徴として、中心や焦点をもたず、「地」と「図」が区別できないこと、物語性や内容をもたず、平面的で形式的であることが挙げられる。明暗法による奥行や、透視図法によるイリュージョンを否定し、中心的な幾何学模様や登場人物を排除することによって、あらゆるヒエラルキーの否定を試みた。代表的な作家に、バーネット・ニューマンやマーク・ロスコがいる。

     さて、ここまで来て、おそらく特徴というか、まとめると、人間にとっての究極の「今」を自覚できる環境を道具と周辺に整えて、完全に環境AIのコントロール化のなかで生き生きと生きてもらう。しかし環境AIも人間の影響を受けるから、それはコントロール化ではない、とも言える。それを目指す落合陽一は自分の生命や魂までデジタル化して、不老不死か永遠の命かを考えているのではないか。デジタルネイチャーの最後のパーツに、自分の生命情報ごとデジタル化して取り込ませる落合陽一の姿が浮かびそうな対談本だった。ただの感想というか直観なので、そんなことまでしそうな感じがしたと思っただけだけど。

  • 落合陽一氏の他の著作から非常に感銘を受けたので、出している本はすべて読んでおきたく、これも手に取った。
    この本は哲学者である清水高志氏と、キュレーターである上妻世海氏との鼎談本。
    「キュレーター」というのは芸術作品や情報などを集めて展示、企画、解説などをする人らしい。今回初めて知った。
    つまりキュレーションする人、ってことか。

    落合氏はアーティスト、教授、経営者といった複数の顔を持っているように、
    彼を構成する要素も、アート、コンピュータサイエンス、テクノロジー、哲学、教育、仏教と幅広い。
    そしてそれら各要素が完全に入り交じり、既に「落合陽一とは○○の人である」とは言えないほどに融合、醸成されている。

    それがゆえに、彼のアウトプットは、受け取る側の理解の範囲を大きく超えてくる。
    ある1点の分野において基礎知識があっても、まったく異なる別分野の知識も同時に備えていないと置いてけぼりになる。
    各分野の深い教養や理解なしに、その真意を理解するのが難しい。

    読むとわかるが清水氏、上妻氏も同様に深い教養と多岐にわたる知見を備えていて、
    3人で哲学、アート、テクノロジーを縦横無尽に八艘飛びする抽象度の高い会話を繰り広げている。

    今回、3人は3回対談していて、それらを3章に分けて収録している。

    切り口や話題は各回の内でも変わるが、通底するのは「近代を引きづっている現代を超克する」という視点。
    デジタルネイチャーになった現在、というのを前提において、それと近代がどう違うのか、
    なぜ違うのか、どうすると脱近代できるのか、といった話を異なる視点から話し合い、3人それぞれの視点ですり合わせ理解を深めていく。


    デジタルネイチャーに関しては落合氏の以前の本を読んで理解していたが、
    正直なところ、「そういう見方もある」「いずれそのような未来が来る」程度の理解で止まってしまっていた。
    非常に浅い理解であったことを痛感した。

    量子物理学やコンピュータサイエンスの視点から、万物は波動であって、確率を含めれば、物質も知能も現象も、あらゆるものがなんらかの数値、パラメータで表せることが分かる。

    波動であるということは、定点においては定数で、それに時間をかけることによって波型の線が出来るということ。
    グラデーションである現象も、配列で表せてしまえる。
    あらゆる物質は、色、形、位置、重さ、硬さ、模様などを、数値で表しうる。
    材質も、分子、原子、その配合や密度を計算すれば導き出せてしまうだろう。

    そうすると、「今目の前にあって、触れるこの物」自体もデータで計算出来て、それはつまるところ、人工的に再現可能ということになる。

    また、人間の脳自体も、周りにある物質や、光や音といった波動を受け取って、0と1の二進数に変換し、脳で処理している。
    この処理はAIと同様だ。というか、脳の処理を模して作ったからニューラルネットワークなのであるが、人間は限りなく機械に近く、
    また機械であるAIももはや限りなく人間に近い。

    自分自身の中では、この目の前の、触れられる物質や現象にリアリティを感じていて、これは人工ではないと思いたがっている。
    しかし、夢をリアルに見たり、デジャビュを感じたり、酩酊して世界が回ったり、寝言で人と話したりと、
    我々は普段から現実が曖昧に感じる経験をしているものだ。

    普段からコンピュータサイエンスやテクノロジーを駆使して、新しい発見を繰り返し、仮説と実装で人類の英知の輪を広げている落合氏たちはもう気づいてしまっているようだ。
    もはや自然と人工、人間と機械、物質と非物質といった二項対立はもはや存在せず、
    その二項に見えるものは一体であり、包摂し合い、混ざり合っていて、対立でも対比でもないことに。


    お年寄りがインターネットサービスやパソコン、スマートフォンなどをなかなか受け入れがたいのと同様に、
    また自分が学生など若い子の遊びや考え方をいまいち理解しにくいように、
    生まれたときに当たり前にある環境は、その人にとって「自然」になる。
    ただそのままに当たり前に存在していることは、自ずから生じているように受け取られる。

    これまでは哲学や華厳経や量子物理学など、一般人が普段の生活で接することのなかった領域で見え隠れしていた理(ことわり)が、
    テクノロジーによって実装されつつある中で、どんどん一般化してきている。

    落合氏はとにかくこの近代を終わらせ、デジタルネイチャーを真に到来させようと動いている。

    自分は近代以前の人として、既存の思想や枠組みの中で生きることを選ぶのか。
    またはOSをアップデートして、脱近代した世界に飛び込むのか。
    割とその境目にいる。

    本書の第3章は、具体的な、脱近代のための考え方やアクションについて語っている。
    個人的には、特に「プロトタイプ思考」や、「やれ!」の考え方には打たれた。

    批評するのも、周りを意識するのも、全て「作る人と評価する人」、「自分と他者」という二項が前提にある。
    自分と、自分以外がすべてお互いを飲み込み合い、フィードバックループの中で進化をし合っていく世の中では、
    いちいち気にしているのが無駄になってくる。
    ただ自分がやりたいこと、やるべきことを、動いて、作って、切り開く。
    その反応を受け取って、また打ち返す。
    自分が書いたコードがOSSで他の人に修正され、それを第3者がさらに手を加えて改善し、そうやってソフトウェアの細胞となっていく構図もまた相互包摂、事事無礙法界の世界観である。

    ここに心根を置くと、既に肩の荷が下りるというか、安心感すら感じる。

    概ね納得し、自分の方向性も定まったものの、
    一点、自分の肉体の健康という視点だけ、懸念が残った。
    この一抹の懸念点については、今後自分の中で発酵させていこうと思う。

    ----
    加筆修正版はnoteにて。
    https://note.com/ronnio/n/na40b87a08b95

  • とても難解。3人の知識の開陳会のようになり、読者としては、置いてきぼり感が強い、と思った。ただ、落合陽一に関しては、「思想を実装する」ということを標榜していることから、役に立たない知識をひけらかしているだけではない、のだと思っている。

  • 資本主義がネイチャー化しているように、AIやインターネットがネイチャー化することが脱近代だ、と言う理解をした。

    トゥルーマンショーやマトリックスの事例があったが、現実か仮想的な現実か、はたまた現実が仮想現実か、的なことが自然的に起こりうる世界観なんだなぁ。

    デジタルネイチャーが少しづつ理解できてきたように思う。

  • ・四法界説
    ・中論
    ・エジソンは片耳聞こえなかった
    ・福沢諭吉 経済的に自立して初めて自由が手に入る
    ・フォード式生産 トヨタ iPhone
    ・野口英世、仏教、GHQ

  • たぶん、P.226〜237だけ読めばいいかも。
    半分以上はなに言ってるかわからんかった。



    詳細
    再魔術化のあたりは、レベルが高すぎて?横文字多過ぎて、何言ってるのかわからない。脳内では、意識高い人たちがしゃべってるのを凡人が理解できないけど理解しているふりをする地獄のミサワ的シチュエーションが再生された。もはやミサワ。

    人による近代を終わらせ、新しい自然観を構築するのが落合のライフテーマ。

    エジソンと一休が好き。

    人間以外がインターネットへコンテンツを供給する世界。人間の五感とは違う感覚での行動がとれるようになる?

    全員が比較的平等なツールをもっているのに、不満を述べたり、誰かに対してネットで上から目線で攻撃するのは20世紀的発想であり、ダメ。

    リアリティをみんなが作れる。受け身になっていたらダメで、参戦しないと話にならない世界観になりつつある。

    トランプのプロモーションやってたケンブリッジ・アナリティカという会社はFB解析やってた。好きなミュージシャンやファッションから政治的思考を推測し、それに対しどのように広告を打つか、ということをやってた。ボランティアにもアプリを配り、これから会う人はこのような考えである可能性があるので、このように話しましょう、というガイドをしていた。

    人間は生まれる時に特微量(黒丸三つを画像で出すと人の顔に見える)がプリインストールされているので、子供の頃は壁や天井のシミや模様が人の顔に見えやすい。

    認知症になっても特微量は失っていないかも?

    LSDを使うと大脳機能不全になるが、特微量は残っているので「いっぱい顔が見える」状態になるのでは…幻想を見るのではなく、単純に顔認識が激増する。赤ちゃんはラリった状態(笑)

    エアーマウンテッド・ディスプレイ
    メタマテリアル・ホログラフィ
    何もかけなくてもVRになる。

    人の感覚外の外部接触やらも可能だし、動物のインターネットは本当にインターネットにつなげることができるかも?兵器にもなれば、優秀な道具にもなる。

    西洋近代の人間中心主義✖︎

    P.226〜237
    近代化による規格化。それにより同じものを大量生産する必要がかあった。大量生産の工場の補完的なものとして、教育の力を借りながら均質な人間を増やしてきた経緯がある。
    この均質な人たちは変化を嫌う傾向をもっている。傾向をもつように教育されてきた。=作られた。

    未来価格が予想できているものに対して、現在価格で価値を手に入れられるという資本主義のテコを小学校では習わないので、元手がないとなにもできないと思ってしまう。

    身体は資本、というのは労働力商品だということ。

    ベーシックインカム付き資本主義のほうがよい。ライフラインを確保できたら、好きなことを探したり制作したり熱中する勇気がもてる。
    ある程度人が欲するような水準になったら生産にもなる。今は、嫌なことでもやらないと家賃や食費が払えない!死ぬ!となってしまっている。

    全員が生産手段をもっている。

    標準化教育の弊害。機械による効率化が職を奪うところとそうでないところがあるということを考えないといけない。
    テレビベースの社会はある種の国民国家の理想郷を目標としていて、同質のサービスによる平等性を探していた。
    だが、多様性がある社会ではいままでの尺度では出てこなかった人がたくさん出てくる可能性がある。

    過去の人が残した情報や知識、統計的アプローチにあたれるような手法がもっと増える。



    華厳の法界縁起。四法界説。

  • デジタルネイチャーという考え方、物の捉え方がようやくわかって来た。

  • この本を手にとるきっかけは「花神」「戦後日本の独立」「ホモ・デウス」と歴史小説や時代回想対談や未来予想論を読んでいる頃です。

    帯には「人類イルカ化計画」と書いてあります。「…落合陽一さんって天才過ぎて光になっちゃいそう。」と感じてしまっていました。でも、わたしにとっては妖怪界のエリート「ゲゲゲの鬼太郎」にみえてきました。

    本文には「解像度が高い物資と解像度が低いものの間をどうやって作っていくか」と落合陽一節が続きます。この本を対談形式でなければ理解できなかった部分が多々あったと思います。例えば、wow「LUX」の作品紹介で清水高志さんが「解像度がでかい(から一度も見たことのない影でだね)」と解説を入れてくれます。また、3章の事事無礙法界とデジタルネイチャーにて、清水さんの考えが西田哲学の延長線上にあり、その哲学を落合さんが肯定するという進行で文系のわたしでもなんとなくですが理解が進みました。

    あ、これが上妻世海さんのキュレーションなのか!

    最後に落合さんが「(下らない)力学を破壊する、というのが僕のスタンスなんです」と力強いお発言。すごくクールなお三方に出会えた読書体験になりました。

  • 近代までのモノお見方やその立ち位置を変えるというのが脱近代ということだと思うが、内容は古典や芸術、物理、化学、言語の多岐にわたり3人の分析、編集の能力に感心するばかり。言葉で語るだけでなく、脱近代を自分の表現や製作で実践しているので言葉にも迫力がある。

  • ふいー、『脱近代宣言』読み終えた。『日本再興戦略』を哲学的・美術的・技術的に補完する、脱近代思考決定版といったところ。落合さんの鼎談相手が、哲学者、キュレーターの方なので、意図的にいつもと違う言語で語っているのが面白い。イルカたちの神殿。

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著者プロフィール

メディアアーティスト。1987年生まれ。JST CREST xDiversityプロジェクト研究代表。
東京大学大学院学際情報学府博士課程修了(学際情報学府初の早期修了)、博士(学際情報学)。
筑波大学デジタルネイチャー開発研究センターセンター長、准教授、京都市立芸術大学客員教授、大阪芸術大学客員教授、デジタルハリウッド大学特任教授、金沢美術工芸大学客員教授。
2020年度、2021年度文化庁文化交流使、2025年日本国際博覧会(大阪・関西万博)テーマ事業プロデューサーなどを務める。
2017~2019年まで筑波大学学長補佐、2018年より内閣府知的財産戦略ビジョン専門調査会委員、内閣府「ムーンショット型研究開発制度」ビジョナリー会議委員,デジタル改革関連法案WG構成員などを歴任。

「2023年 『xDiversityという可能性の挑戦』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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