もっと知りたいフェルメール 改訂版 生涯と作品 (アート・ビギナーズ・コレクション)

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  • 東京美術
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  • Amazon.co.jp ・本 (87ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784808710934

感想・レビュー・書評

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  • アートドキュメンタリー映画「フェルメール The Greatest Exhibition -アート・オン・スクリーン特別編」は2023年2~6月にオランダ・アムステルダム国立美術館で開催された「フェルメール展」の様子を収めたアートドキュメンタリーです。

    日本でもファンの多い、オランダを代表する17世紀の画家ヨハネス・フェルメール。2023年の2月から6月にかけて、オランダ・アムステルダム国立美術館で、現存する28のフェルメール作品が世界中から集められた史上最大規模の「フェルメール展」が開催され、65万人を動員した。本作では、その「フェルメール展」に展示された作品の数々を、美術館館長やキュレーターらによる作品解説を交えてひも解き、最新の研究によって明らかになったフェルメールの手法などから、より深く作品を知り、ディテールまで堪能することができる。(映画.comより)

    1Fの蔦屋書店へ。

    そりゃ探しますよ、フェルメール作品の本(笑)
    本当はみなとみらいでお昼ご飯を食べて、図書館へ移動しようと思ってたんですが...
    結果的にお昼ご飯抜きで本書ともう1冊を手にしてしまいました。

    図書館へは閉館15分前に滑り込み
    ⊂( ^ω^)⊃セ-フ

    フェルメール作品にすっかり魅了されてしまいました。

    ということで、netを駆使してまとめておこう。

    そして、なる早でやっぱ上野にも行くぞ~٩( •̀ω•́ )ﻭ

    フェルメールはオランダの画家で、17世紀に活躍しました。彼の現存する作品は、真作とされるもので35点、疑わしいものを含めると37点と言われています。

    彼の作品は、各国の美術館やコレクションに所蔵されており、オランダには7点、ドイツには7点、アメリカには11点、イギリスには4点、その他にもフランスやアイルランド、オーストリアなどに分散しています。


    <作品一覧>
    番号タイトル制作年支持体サイズ所蔵
    1《マルタとマリアの家のキリスト》1654-55C160×142スコットランド国立美術館
    フェルメールの絵と言われて、このような作品を思い浮かべる人は少ないだろう。それも当然で、彼の作品を特徴づける豊かなディテールが欠けているのだ。聖書の一場面を描いたこの作品の中では、マルタとマリアの姉妹が自宅でイエスをもてなしている。若き日のフェルメールは、おそらく画家としての足がかりを得るために、すでに成功していた画家にならってこの絵を描いたのだろう。また、デルフトのカトリック信徒たちのために描かれた絵だとする研究者もいる。彼はこの絵を描く数年前にカタリーナ・ボルネスと結婚し、その少し前に彼女が信仰していたカトリックに改宗していた。

    ランキングが低いからといって、《マルタとマリアの家のキリスト》を見くびってはいけない。この絵には、構図の絶妙さで知られるフェルメールの才能の片鱗が見られる。たとえば、イエスの指がマリアの方へ向いていることに注目してほしい。これによって鑑賞者の視線は、食事の準備に気を取られて彼の後光に気づかずにいるマルタから、マリアの方へと誘導される。また、後のフェルメール作品を特徴づける鮮やかな視覚的効果こそあまりないが、この作品は家庭の室内を背景とした女性像の初期の例でもある。この作品を所蔵するスコットランド国立美術館によると、高さが約158.5、幅が約141.5センチメートルのこの絵は、フェルメールが手がけた中で最大のものだという。

    2《聖プラクセディス》1655C102×83個人蔵(国立西洋美術館に寄託)
    フェルメール作品の中でも数少ない、明確に宗教的なテーマを扱った絵の1つである《聖プラクセディス》は、迫害の末に殺された殉教者の体を清めるローマカトリックの聖女を描いている。彼女の背後には殺された男性が倒れており、出血した身体と切り離された頭部が見える。血を拭った海綿を容器の上で絞っている彼女の後ろの遠景には、姉妹のプデンティアナが歩いている。フェルメールはこの作品を描く2年前にカトリックに改宗しており、多くの美術史家は《聖プラクセディス》を、新しい信仰に対する彼の献身を表した作品だと見ている。

    しかし、これがフェルメールの真作ではないと主張する者もいる。そもそもこの作品については、1969年にメトロポリタン美術館で初めて公開されるまで一般にほとんど知られておらず、フェルメール作品だと判断されたのは1986年のことだった。たとえ真作だとしても(アムステルダム国立美術館で開催中の大回顧展では真作の扱い)、この偉大な画家の作品としては質が高いとは言えない。

    3《ディアナとニンフたち》1655-56C98×105マウリッツハイス美術館
    フェルメールのファンは、この初期の作品を見て違和感を覚えるかもしれない。彼がその後に描くようになった室内画とはあまりにかけ離れているからだ。フェルメールがデルフトの画家組合で修行を終えた直後に制作されたこの作品では、古代ギリシャの女神ディアナを取り囲むニンフたちの1人が彼女の足を洗っている。当時こうした神話的題材は珍しいものではなく、ピーテル・パウル・ルーベンスも同じモチーフをより華麗に描いている。

    ルーベンスの《狩りに出かけるディアナとニンフたち》では、犬が忠誠心たっぷりにディアナの方を見上げ、ケンタウロスが嫌がるニンフにキスをしようとしている場面が描かれている。それに比べるとフェルメールの作品はかなりおとなしい雰囲気だが、だからと言ってそれが悪いわけではない。心地よくも不思議な印象を与えるこの絵には、ある演出が施されている。人物が古代ギリシャではなく、この画家が生きた時代の服をまとっているのだ。また、この絵の不思議な印象をさらに強めているのが一風変わった光の使い方だ。光源は画面の外にあり、それが何であるのか特定できない。

    かつてこの絵は、ありふれたものに見えていた時代もあった。右上の方に青空が描かれていたのだ。だが、この作品を所蔵するハーグのマウリッツハイス美術館が、20年ほど前に空がフェルメールの死後に描き足されたことを発見。その後の修復によって、今ではフェルメールが構想した通りになっている。

    4《取り持ち女》1656C143×130ドレスデン国立絵画館
    薄暗い場所に複数の人物が密集しているこの絵の構図は、人気のない室内に女性が1人でいる場面を描くことで有名なフェルメールには珍しいとされてきた。また、売春宿といういかがわしい舞台も、彼の作品の中では異質だ。

    フェルメールの義母が所有していたディルク・ファン・バビューレンの絵画を参考にした《取り持ち女》は、酒を飲み浮かれ騒ぐ人々を描いた「陽気な仲間たち(merry company)」と呼ばれるジャンルに属している。このジャンルらしく、自分たちの世界に浸って楽しんでいる人物たちの中で、1人だけこちらの方を見て笑いを浮かべている男がいる。鑑賞者は、この男と目が合った瞬間に自分が覗き見をしているのだと気付かされるのだ。フェルメールは後に、鑑賞者が絵の中を覗き見ているような設定を高い頻度で用いるようになる。しかし、酒と性的な含みに満ちているにも関わらず、この絵は刺激的な魅力を持つには至っていない。

    5《眠る女》1656-57C102×83メトロポリタン美術館
    地味で落ち着いた雰囲気の《眠る女》には、かつてもっと際どい要素が含まれていた。フェルメールは当初、居眠りする女中のそばに男性と犬を描いていたのだ。テーブルの上においしそうなリンゴが置かれた部屋で、男は女中と何をしていたのか。フェルメールはこの男を絵から排除することにしたので、その理由を知ることはできない。

    こうした経緯を経て完成した絵は、フェルメールがその後、度々取り上げることになるモチーフを描いた最初の作品となった。画面の中にいるたった1人の女性と、その心理描写という、彼を有名にした題材を扱った初の作品である《眠る女》では、その技量が遺憾なく発揮されている。フェルメールは見る者に疑問を抱かせる要素を散りばめつつ、簡単に答えを与えることはしない。わずかに上を向いた女中の唇は、彼女が見ている夢について漠然とした手がかりしか与えてくれないが、彼女の心の内を探るのに十分なヒントは揃っている。背後の扉は開いており鍵が刺さったままだ。1696年にアムステルダムのオークション会社が推測していたように、彼女が仕事を怠けているのは、酔っ払っているからなのかもしれない。

    《眠る女》の構図もまた、その後のフェルメールが向かっていくスタイルを示唆している。ここでは、深い奥行きが表現されており、隣の部屋まで覗き込める。そして、手前に斜めに置かれた椅子が鑑賞者の視界の一部を遮っている。こうした意表を突く構図によって、フェルメールの絵画は時に映画的な印象を与える。

    6《窓辺で手紙を読む女》1658-59C83×65ドレスデン国立絵画館
    《窓辺で手紙を読む女》の若い女性は、何世紀もの間、白い壁の前に立っていた。だが2019年にこの絵の印象はがらりと変わる。これを所蔵するドレスデンのアルテ・マイスター絵画館がX線調査の結果を公開し、彼女の後ろにキューピッドの絵が掛けられていたことを明らかにしたのだ。この発見により、手紙の送り主は彼女の恋人だと解釈してほぼ間違いないだろうとされるようになり、この絵がフェルメールの《(手紙を読む)青衣の女》とよく似た構図で描かれていることも分かった。

    ただ、落ち着いた色使いの《(手紙を読む)青衣の女》に対し、この絵では光による色彩の変化を捉えようとしたフェルメールの才能が遺憾なく発揮されている。特に、青い窓枠の一部が日差しを受けて明るくなっている様子や、テーブルの上の赤い絨毯に陽光がこぼれる様子にそれがよく現れている。フェルメールは、この絵の後にも似たモチーフを描いているが、これほど色彩豊かなものはない。

    さらに右側に吊るされたカーテンが独特だ。これは、絵の中の女性がいる部屋の一部というより、私たち鑑賞者側の空間にかけられたメタ的な装置なのではないか。それは私たちが向こう側を見られるように大きく開けられている。当時デルフトで活動していたほかの画家たちの室内画でも、同じような効果を狙ってカーテンが描かれていた。フェルメールは、この装置を何気ない一瞬を捉えた空間に配置することで、より覗き見的な性質を高めている。

    7《小路》1658-60C54×44アムステルダム国立美術館
    ピーテル・デ・ホーホの影響が色濃い《小路》は、デルフトの街並みを描いた絵としては、その時代を代表する作品だ。デ・ホーホは、家庭の中の女性を描いた巧みな構図の室内画で知られるが、人々が開いた戸口や路地で日々の暮らしを送る様子が見えるこの作品のように、屋外の風景を描くこともあった。

    フェルメールが参考にしたのは、デ・ホーホの形式だけではない。両者とも、絵の見栄えを良くするために建物の要素を組み合わせて、それらしく見えるが実際のデルフトの街並みとは細部が異なる風景を描いた。ちなみに、アムステルダム国立美術館の研究者たちが2015年にこの場所の住所を突き止めたが、現在の街並みはこの絵から一変している。研究者がその緻密な描写を称賛するように、建物の塗装が剥げかけた部分や、傾いたりすり減ったりしているレンガなどが丹念に描き込まれている。それに比べて人物は意図的に曖昧に表現されており、顔はぼやけている。そのせいもあって、鑑賞者は想像の中で自由にそれを補ったり、自分がそこに立っていると想像したりすることができる。

    8《兵士と笑う娘》1658-60C51×46フリック・コレクション
    この絵の中の女性が何者なのか、美術史家たちの意見は分かれている。一説によると、彼女は売春宿で客とおしゃべりしている娼婦で、別の説では、軽薄な男性に仕事を邪魔された召使だと言われている。さらに興味深いことに、モデルがフェルメールの妻のカタリーナ・ボルネスである可能性もあるという。しかし、背景についての情報があまりに少ないため、ここで何が起きているのかを正確に判断するのは難しい。

    この絵の奇妙さをいっそう際立たせているのが、大胆に様式化された構図だ。画面の左半分に大きく描かれた男性はこちらに背を向け、陰になっている顔はよく見えない。その代わり、私たちの目は光が当たっている女性に吸い寄せられる。満面の笑みを浮かべて男性と話している彼女は、とても嬉しそうな表情をしている。遠近が強調された2人の人物の比率は、フェルメールが絵の構図を決める際に、写真のもとになった光学的原理(カメラ・オブスキュラ)を利用していたという説を裏付ける証拠だとされている。

    9《牛乳を注ぐ女》1658-61C46×41アムステルダム国立美術館
    柔らかい光と一見シンプルな画面構成の《牛乳を注ぐ女》は、フェルメールの代表作の1つ。しかしその事実によって、この絵が当時のオランダ絵画の文脈の中でどれほど異彩を放っているのかが分かりにくくなっている。フェルメールは、既存の表現や技法を組み合わせ、独自のスタイルを生み出すことに長けていたが、《牛乳を注ぐ女》はまさにその典型と言える。美術評論家のピーター・シェルダールが、「まばゆいばかりの名人芸が発揮されていて、どうしたらいいのか分からなくなる」と評したのも頷ける。

    美術史家のベン・ブロースとアーサー・ウィーロック・ジュニアが、1996年にワシントンのナショナル・ギャラリーで開催されたフェルメール展のカタログで指摘しているように、同時代のオランダの画家たちにとって、乳搾りに従事する女性労働者(*1)はありふれたモチーフで、フェルメールもそれを承知していた。だが、ほかの画家たちの場合、こうした女性は周囲にいる他者との関係性の中で表現され、決して単独で描かれることはなかった。


    *1 原題のmilkmaid(オランダ語ではDe MelkmeidまたはHet Melkmeisje)は、乳搾りに従事する女性労働者を意味する。

    フェルメールの絵の中の召使は1人きりで、水差しから口の広い容器にミルクを注ぎながら、物思いにふけっている。乳搾り女の絵にはエロティックな含意があることが多く、この絵もその点では同じだ。しかし、美術史家のウォルター・リートケによれば、フェルメールは鑑賞者の思惑からは距離をとり、私たちが覗き見をしていることを自覚させようとしている。そこにフェルメールの「女性に対する共感」が現れているとリートケは書いている。そのような表現を可能にしているのが、形式におけるささやかな革新だ。たとえば、窓ガラスの斜めの線は視線を召使の腕に誘導し、彼女の労働の大変さを強調している。これは、一般に身分の低い者がすることと見下されている職業を讃える絵でもあるのだ。

    10《恋文》1660-62C44×39アムステルダム国立美術館
    引き上げられたカーテンの向こう側で、緊張感に満ちたシーンが展開されている。手紙を運んできた召使が、雇い主らしい裕福な女性にそれを手渡したところのようだ。鑑賞者の視点はこの場面から少し離れた所に置かれており、舞台上の役者たちを見るかのような演劇的な趣をこの絵に与えている。

    2人の女性たちの視線はなんとも形容しがたく、その曖昧さが醸し出す引力に抗うのは難しい。片方の肘を曲げ、手紙を渡したばかりのもう1人の女性の方を見ている召使は、わずかに微笑んでいるようだ。リュートを手にした女主人は、不安と悲しみが入り混じったような表情で彼女を見上げている。彼女は何をそんなに恐れているのだろう。背後に掛けられた荒波の上を進む船の絵は、手紙を送ってきた恋人がいる場所を示しているのかもしれないし、もっとシンプルに、恋人の言葉を読んだ女性の心の内を表しているのかもしれない。

    《恋文》からは、いく通りもの解釈を引き出すことができる。それを可能にしているのは、さまざまな象徴や連想を呼ぶオブジェを巧みに配したフェルメールの構成の妙によるところが大きい。対象から離れた場所に置かれた鑑賞者は、この作品の核心に近づくために、何層ものベールを剥がしたいという抗い難い欲求に駆られるだろう。

    11《紳士とワインを飲む女》1660-62C78×67ベルリン国立絵画館
    この絵は、よく似た主題と設定を持つ作品《ワイングラスを持つ娘》と同じ年に制作された可能性がある。どちらの絵でも、1人の男性が若い女性にアプローチしている。さらに酒が供されていて、飲み過ぎているのではないかと思わせる。《紳士とワインを飲む女》の場合、女性はグラスの中身を飲み干したところだ。もう1つの共通点は、テンペランス(節制)の寓意を表したステンドグラスの窓だ。もしかしたら、絵の中の人物のような不道徳な行為をとらないよう鑑賞者に訴えているのかもしれない。

    しかし、2つの作品は印象が全く違う。《ワイングラスを持つ娘》のほうがずっと生々しく、見てはいけないものを見てしまったような感じがする。私たちの目の前で誘惑が行われ、若い女性は自分の性的魅力を誇示するかのようにこちらに微笑みかけているからだ。それに比べると、《紳士とワインを飲む女》は、はるかに抑制的だ。前者では奥に描かれていたもう1人の男性が取り除かれており、恋の駆け引きの象徴として描かれることの多い楽器が椅子の上に立て掛けられ、誘惑かどうかは主に見る側の想像に任されている。

    《紳士とワインを飲む女》は、もう1つの作品に比べると控えめかもしれないが、巧みな色使いという点では明らかに優っている。特に青いカーテンの周りの描写は、ほかの画家にはなかなか真似できないだろうと思わせるほど秀逸だ。部屋の角にかけられた薄布を通過した光が壁に反射し、アクアマリンと黒みを帯びた影が交錯する様子が見事に表現されている。

    12《真珠の首飾りの女》1662-64C55×45ベルリン国立絵画館
    この肖像画は、おそらく最も多くの人の目に触れているフェルメール作品であり、史上最も有名な絵画の1つだろう。この絵に関する小説や映画も作られており、森村泰昌やアウォル・エリズクなど、現代アーティストによるオマージュも数多くある。だが実際のところ、この絵は定評通りの傑作なのだろうか?

    技術面では、ほぼ間違いなくイエスだが、テーマという面ではそうでもない。しかし、フェルメールが得意とする劇的な光の効果が見事に駆使されているこの絵は、形式的には文句なく素晴らしい。漆黒の闇の中から浮かび上がっているように見えるこの少女の唇、瞳、そして耳飾り(最近の研究によると真珠ではないらしい)は、見えない光源に照らされて輝いている。これは必ずしもフェルメール独自の表現ではなく、同時代の画家ミヒール・スウェールツなども試みているものだが、フェルメールは《真珠の耳飾りの少女》でこの手法を極めたと言えるだろう。

    13《ワイングラスを持つ娘》1659-60C65×77アントン・ウルリッヒ公爵美術館
    この絵は、何点かのフェルメール作品と同じく誘惑を描いたものだ。誘惑の場面は、フェルメールより前の時代から、オランダ絵画ではよく見られる主題だった。この絵では2人の男が少し酔ったように微笑む女性と一緒にいて、ワイングラスを掲げる彼女の手の下に男性の1人が手を添えている。彼女を誘惑しているのかもしれないが、彼女はその誘いにはあまり乗り気でないようだ。彼女の視線は、彼の方ではなく私たちに向けられている。一方、奥の方に座るもう1人の男性は、2人から目をそらしている。

    この絵には道徳的なメッセージが込められているのだろうか? 奥にいる男の近くのステンドグラスに「テンペランス(節制:タロットに描かれた寓意画の1つ)」の絵が描かれていることから、そう指摘する研究者もいる。しかし、フェルメールの意図は、鑑賞者に正しい生き方を示すことよりも、この3人の間に存在する微妙な力学を描き出すことにあるようだ。この絵に見られる複雑な人間模様(そして赤や朱色の大胆な使い方)には興味深いものがあるが、彼が生み出したほかの多くの作品に比べると、思索の種になる材料は少ない。

    14《天秤を持つ女》1662-64C43×38アントン・ウルリッヒ公爵美術館
    フェルメールはいくつかの作品で道徳と宗教に関するテーマを扱っているが、《天秤を持つ女》では、それが比較的はっきりと表現されている。一見何気ないこの場面では、1人の女性が目の前に並べた宝石を量る準備をしている(金を量っていると誤解している人も多いが、実際には秤の上に金は乗っていない)。フェルメール作品に登場するほかの女性たちと同様、この絵の中の女性もドラマチックな光を浴び、誰にも気を散らされることなく、1人静かに内省している。

    彼女がやっている作業は日常的なものだが、フェルメールは人間の魂が神によって量られる「最後の審判」の絵を後方に配置して、宗教的な意味を持たせている。この女性の前にある真珠のように、この世の宝をいくら集めたとしても、邪な魂の持ち主であれば地獄に落とされることをこの作品は示唆しているのだ。絵の中の女性もそれに気付いているのかもしれない。彼女の視線は美術評論家のウォルター・リートケに、この作品を「フェルメールが描いた最も洗練された絵画の1つ」と言わしめている。

    15《地理学者》1668-69C53×47シュテーデル美術館
    《天文学者》と対になっていると考えられてきた《地理学者》は、科学的な知識と宗教的な啓示の探求の交差を描いた作品だ。当時の科学者のイメージをもとにしたこの作品は、依頼を受けて制作された可能性がある。だがこの人物の素性、または実際に存在したかどうかについては、研究者たちにも正確なことは分かっていない。フェルメールがこの作品を描いた当時のオランダは、地図製作が盛んな国としてヨーロッパで知られるようになっていたことを考えると、彼のような人物は大勢いただろう。

    フェルメールは、この職業を単に世界を理解するための試み以上のものとして表現している。この作品を収蔵するフランクフルトのシュテーデル美術館のキュレーター、フリーデリケ・シュットがアムステルダム国立美術館の展覧会図録に書いているように、地理学者がまとっている着物のような服は、彼が「理想的な意味で見聞が広い人物」であることを示している。また、背後の地球儀は、その服が作られたかもしれない遠く離れた異国を暗示している。

    この絵は、人間の内面がいかに周りの世界に影響されているのかを表現したものでもある。地理学者がふと窓の外に向けて視線を上げたところには、窓から差し込む一面の陽光がある。その光は、物理的にも心理的にも内部と外部の境界を曖昧なものにしている。

    16《天文学者》1668C51×45ルーヴル美術館
    《地理学者》と対になるものだったかもしれないこの絵は、単に仕事中の天文学者を描いたもののように見える。だが、何気ない日常風景に深い意味を込めるフェルメールの作品らしく、この絵には一見しただけでは分からない奥深さがある。天文学者が身に付けている着物のような衣服は、彼の見聞の広さと外国とのつながりを示唆している。一方で、隙間なく物で埋め尽くされた机と狭い部屋は、滅多に外出しない彼の隠者のような生活をほのめかしている。《天文学者》に見られるこの内と外との対比は、見る者の心を波立てる。

    天文学者が描かれているため、世俗的な考え方を表しているようにも思えるが、壁に掛けられた絵が宗教的な含みを持たせている。フェルメールの研究者、アルバート・ブランケルトは、赤ん坊のモーセが描かれたこの絵をピーター・レリーの作品だと断定しているが、民衆を解放した聖書の登場人物と天文学者を結びつけることで、あからさまなキリスト教の図像を使うことなく、精神の解放をフェルメールは表現している。解き放たれたばかりの天文学者の精神は、外に向けて指を広げた手の仕草に現れている。自分の仕事が世界の見方を変えるかもしれないと気づいたかのように。

    17《レースを編む女》1669-70C24×21ルーヴル美術館
    高さ23センチメートルに満たないこの絵は、フェルメールが手がけた中で最も小さい作品だ。ただしその小さな画面に、驚くほど豊かなディテールが詰まっている。女性のそばに置いてあるクッションから垂れ下がる糸の束は、本数を数えることができそうなほどはっきりと描かれている。それに対して他の部分は少しぼやけているが、これはわざとそうしているのだ。《レースを編む女》を描くために、写真の前身となったカメラ・オブスキュラが用いられたことは、現在では美術史家の間でほぼ確実だとされている。光学機器を通したこのような見え方は、人間の視覚によっても生み出される。何かをじっと見つめていると、そこに意識が集中して、ほかのものがはっきり見えなくなるのだ。

    フェルメールの時代には、レース編みの習得は女子教育に欠かせないと考えられていたこともあり、この題材を取り上げた絵は珍しくない。ただ、ほかの画家たちはもう少し引きの構図で、家庭の中で母親など年上の女性に伴われて作業をしている若い女性を描いている。対照的に、フェルメールの構図はレース編みをしている女性の非常に近くまで寄っているため、彼女の心理状態すら読み取れそうだ。

    しかし、どれほど緻密に表情が描かれていても、彼女が何を考えているのかは分からない。研究者たちは、答えを探ろうと隣のテーブルの上に置かれた書物に着目してきた。祈祷書、あるいはレースの模様の教本だという意見もあるが、はっきりしたことは明らかになっていない。そこにこそ、この絵のマジックがある。

    18《音楽の稽古》1662-65C73×64セント・ジェームズ宮殿
    ヴァージナルを演奏する女性と彼女を見つめる紳士がいるこの場面を、フェルメールは間近に捉えるのではなく、少し意外な視点から描いている。画面の4分の1ほどを窓のある壁が占め、ドレープのかかったテーブルが男性の姿を部分的に遮っている。そして、ヴァージナルの上にかけられた鏡が、女性の顔とイーゼルを映し出している。

    画面をこのように構成することで、フェルメールは鑑賞者の意識を自らの技巧に向けさせ、誘惑の場面として解釈できるこの作品に自己言及的な意味合いを重ねている。このメッセージをさらに深めているのが画面右側に掛けられた絵で、ここには他者のために尽くすことの大切さを説いた「ローマの慈愛」の寓意が描かれていると研究者たちは指摘している。

    19《ギターを弾く女》1670-72C53×46ケンウッドハウス
    《ギターを弾く女》の構図は、フェルメール作品の中でも、またほかの画家の同種の作品と比べても特異なものだ。この作品の中の女性は、微笑みを浮かべて楽器をつまびきながら、画面の外の何かを見つめている。彼女は誰を、あるいは何を見つめているのだろうか? そして、なぜそうしているのだろう? 音楽演奏の場面は誘惑を表していることが多いが、この作品の場合はそれを裏付けるほかの要素があまりに少なく、確かなことは分からない。

    音楽をテーマにしたフェルメール作品の中で、この絵のランキングは低い。とはいえ、この絵には特筆すべき美術史上のエピソードがあり、それが加点につながっている。現在フィラデルフィア美術館にこれとそっくりな絵が所蔵されているが、長い間そちらが真作だと考えられていた。しかし1928年になって、美術史家たちはフィラデルフィアの作品を模写だと判断した。その根拠とされたのが、巻き髪がない女性のヘアスタイルだ。巻き髪の流行が廃れたのは《ギターを弾く女》が描かれてから約10年後で、その頃にはフェルメールはこの世を去っていたからだ。ところが最近、それもアムステルダム国立美術館のフェルメール展の開催が始まってから、フィラデルフィア美術館の絵が真作ではないかという議論が再浮上している。

    20《ヴァージナルの前に立つ女》1670-72C52×45ナショナル・ギャラリー
    この絵は、ロンドンのナショナル・ギャラリーが所蔵する《ヴァージナルの前に座る女》と対になる作品だと考えられている。チェンバロのような楽器を演奏する女性が描かれていることから、恋愛がテーマではないかと思わせる。それをさらに裏付けているのが、オットー・ファン・フェーンの本から引用されたキューピッドの絵が、彼女の後ろに掛けられていることだ。フェーンが描くキューピットはしばしば標語を掲げており、「恋人は、たった1人の相手に愛を捧げなければいけない」などと書かれていた。

    恋人同士をはっきりと描いたわけではないが、フェルメールはこの女性が恋人に忠実なのかどうか、私たちに考えさせたいのかもしれない。堂々とした姿勢や、丁寧に整えられた部屋の様子から、この裕福な若い女性には非の打ちどころがないように見える。しかし、人は見かけによらないということもある。この疑問が解けることはない。

    21《ヴァージナルの前に座る女》1673-75C51×46ナショナル・ギャラリー
    フェルメールの絵に駄作はないが、ほかと比べるとインパクトに欠ける作品はある。ニューヨークのライデン・コレクションが所蔵する《ヴァージナルの前に座る女》がそうだ。ロンドンのナショナル・ギャラリーが所蔵する同じ題材を描いた作品と似たところがあるものの、女性と彼女が腰掛けている椅子、そしてチェンバロに似た鍵盤楽器以外の要素がほとんどないこの作品は、殺風景な感じがする。フェルメールが楽器を描いた絵は恋愛を暗示しているものが多いが、ここまでディテールに乏しい作品に隠された意味を見出すことは困難だ。細部へのこだわりで知られる画家の手によるものだけに、なおさら物足りなさを感じる。

    実は、この絵がフェルメールの手によるものかどうかについては、長年議論が分かれてきた。しかし、ここ数十年の間にこれが真作であることを裏付ける有力な証拠が複数見つかっている。真作だと主張する側とそれに反対する側、両者が根拠にしているのがこの絵に使われている顔料や、おそらくほかの画家によって後から加えられた修正だ。アムステルダム国立美術館の大回顧展では、この絵は真作の扱いとなっている。

    22《絵画芸術》1666-68C120×100美術史美術館
    今日、《絵画芸術》は史上最高の絵画の1つだと考えられている。それも当然だろう。さまざまな記号を幾重にも張り巡らせたこの室内画に、フェルメールは持てる力を全て注ぎ込んでいる。だが、この絵の評価は常に高かったわけではない。制作されてから1860年代に美術史家から再評価されるまで、200年ほどは比較的無名の作品だった。

    フェルメールが手がけた数少ない寓意画の1つであるこの絵は、芸術制作の本質をテーマとしている。絵の中の画家はフェルメール自身だと誤解している人も多いが、実はもっと深い意味が込められている。この人物は、これまでに筆を取ったことのある歴史上の全ての画家を象徴しているのだ。フェルメールは画家という職業を明らかに高貴なものだと考えているようで、この画家が描く青い花輪は、まるで王族の頭に冠せられるティアラのように見える。

    彼が描いているのはギリシャ神話に登場する歴史の女神クリオで、その姿はチェーザレ・リーパの寓意画集を参考にしている。クリオは寓意的な人物ではあるものの、この絵の中では画家と同じように匿名化された姿では描かれていない。彼女は、さっきまで通りを歩いていたかもしれない理想化されない生身の人間だ。この絵が現実世界を描いていることをより強く意識させる仕掛けが壁に架けられた地図で、当時のネーデルラントの17州を示している。この絵が見る者に意識させるのは、芸術と生活や人生が切り離せないものだということだ。画家が仕事をしている様子を見せるために開けられたカーテンは、鑑賞者をその場面の中に引き入れる。そして鑑賞者は、絵の中の自己言及的な重なりの中に組み込まれてしまうのだ。

    23《手紙を書く婦人と召使い》1670C71×59アイルランド国立美術館
    1974年に、IRA(アイルランドの武装組織)のメンバーに盗まれたエピソードで知られる《手紙を書く婦人と召使》だが、この絵の中では何が起きているのかはっきりしない。《恋文》と同じように、召使が裕福な女性の横に立っているが、この絵の場合、女性は手紙を読んでいるのではなく書いている。その内容は分からないが明らかに何度も書き直しているらしく、大理石の床には書き損じた紙と封蝋が散らばっている。一方、召使は陽光が差し込む窓の外を眺めている。

    手紙の内容を知る手がかりになるかもしれないのは、《恋文》と同様、背景に飾られた絵だ。そこには、旧約聖書の出エジプト記でファラオの娘が葦の中にいる赤ん坊のモーセを見つける場面が描かれている。フェルメールの時代、これは「対立する人々の仲を取り持つ神の力」を表していた。手紙を書いている女性は、それを送ろうとしている相手と仲直りをしたいのかもしれない。少なくとも彼女は目の前のことに没頭しているように見える。

    24《信仰の寓意》1670-74C115×88メトロポリタン美術館
    フェルメールの他の作品とは異なり、《信仰の寓意》では寓意画の性質が前面に出ている。これが理由で、この絵については賛否が分かれてきた。1996年に美術史家のアーサー・ウィーロックは、「20世紀の鑑賞者が、ほかのフェルメール作品に対するのと同じ情熱をもってこの絵を受け入れるのは難しい」と書いている。彼も言及しているが、この絵に登場するいくつものシンボルは、フェルメールの同時代人には容易に解読できたはずだ。彼らのようにそれを読み解ければ、《信仰の寓意》がフェルメールによる最も素晴らしく、最も不思議な作品の1つであると納得できるだろう。

    この作品が誰の依頼で制作されたかは定かではなく、デルフトのイエズス会のために描かれたという説や、裕福なカトリックのパトロンのためだという説などがある。しかし、フェルメールがこの絵を描いた半世紀ほど前に死去したイタリアの図像学者、チェーザレ・リーパの著作を参考にしていたことは分かっている。たとえば、中央の女性は信仰を表しており、他のさまざまなリーバの図像と組み合わされている。フェルメールはさらに、その全てに独自の解釈を加えた。たとえば、彼女の足元に地球儀を置き、世界が実質的に彼女の支配下にあることを表現している。ほかにも、エデンの園を連想させるかじられたリンゴ、その物語をさらに展開させる叩き潰された蛇、彼女のかたわらにある台の上の聖体拝領のような設えなど、さまざまな象徴が見られる。

    宗教的象徴で埋めつくされたこの絵は、堅苦しくなってしまってもおかしくないが、フェルメールはそうはさせない。これらの象徴を自在に操りながら、リーパの本には出てこない独自のモチーフも加えている。たとえば、彼女がいる部屋の様子を映し出す、天井から吊り下げられたガラスの球体もその1つだ。また、韻を踏むような視覚表現が画面のあちこちで展開される。胸に手を当てて体を傾けている女性の姿は、手前のカーテンと背後の磔刑の場面の人物と重なり、ガラスの球体は足元の地球儀と対になっている。これらのオブジェを並べることで、フェルメールは外界と内面の心理を鮮やかに比較してみせる。私たちの心の内で起こっていることは、外側に表出するものだと示唆しているようだ。

    25《水差しを持つ女》1664-65C46×41メトロポリタン美術館
    現在、ニューヨークのメトロポリタン美術館に収蔵されているこの作品は、窓から差し込む柔らかな光の表現から、19世紀までハブリエル・メツーの作品だと考えられてきた。だが今では、この作品はフェルメールの傑作(アメリカにあるフェルメール作品の中では最も優れた作品の1つ)で、彼が繰り返し用いているスタイルやテーマが結実した作品だと研究者たちは考えている。人気のない室内で、女性が1人で立っている場面であることもその1つだ。ここでは、目線を落として静かに物思いに耽る女性の内面に焦点が当てられているが、彼女が何を考えているのかはよく分からない。

    ほかのフェルメール作品が持つ強烈な魅力と比べると、《水差しを持つ女》は地味に見えるかもしれない。だがこの作品は、日常生活のありふれた物に象徴的な意味を持たせる彼の手法を示す良い例だと言えるだろう。窓を開けている女性がもう一方の手に持っている水差しが銀製なのは、彼女が裕福であることを示している。

    26《リュートを調弦する女》1662-63C51×45メトロポリタン美術館
    美術史家のローレンス・ゴーイングは、《リュートを調弦する女》のような絵画を「真珠の絵(pearl pictures)」と呼んでいた。これは、モデルが身につけている装身具を光の効果を駆使して描き出し、仕上げに白っぽい絵具の点で光沢を強調するフェルメールの方法に着目した表現だ。この作品もそうした絵の1つで、見る者の目はすぐに若い女性のイヤリングに吸い寄せられる。広い空間の中にある、非常に小さなその物体に視線が集まる仕掛けになっているのだ。

    ほかのフェルメール作品のように、ここでも音楽を演奏する場面が描かれている。そのため、はっきりと恋愛模様が描かれているわけではないが、エロティックな含みがあるのではないかという考え方もある。その証拠として、床に置かれたリュートが今まさに出会いが起ころうとしている、あるいはすでに起こったことを示していると指摘する研究者もいる。また、壁に掛けられた地図は、この絵の外側に広がる世界を暗示している。ほかの絵と比べると、《リュートを調弦する女》は、さほどエキサイティングな作品ではない。だが、あくまでも「相対的」にそう見えるということだ。フェルメールの絵は、大傑作でなくてもやはり素晴らしい。

    27《少女》1665-67C45×40メトロポリタン美術館
    《真珠の耳飾りの少女》と同じく、この絵は類型的な架空の人格の胸像を描いた「トローニー」と呼ばれる種類の絵だ。17世紀によく見られるこの手の作品は、画家の技量の高さを示すためのものだった。こうした理由から、《真珠の耳飾りの少女》とは描き方に大きな違いがあるものの、よく似た印象を受ける。その共通点の多さから、かつて両作品は対になっていたという説もあるほどだ。

    少女は何もない真っ暗な空間の中に描かれており、それに対して不自然なほど明るい光が彼女の顔を照らしている。《真珠の耳飾りの少女》と同じように目の白い部分が輝いているが、それほど強調されておらず、より淡いトーンだ。手前に曲げた腕を覆う淡いブルーのドレープも同じく柔らかい色合いで描かれている。《真珠の耳飾りの少女》のような鮮烈さはなくても、それなりの魅力がある佳作と言えるだろう。

    28《中断された音楽の稽古》1660-61C39×44フリック・コレクション
    女性が驚いたような表情を浮かべている《中断された音楽の稽古》には、気まずい緊張感がみなぎっている。フェルメールは、しばしば人気の主題を自分の作品に取り入れていた。この絵でも、音楽が主題であることと壁にキューピッドの絵が掛けられていることから、同時代の鑑賞者は誘惑の場面だと気づいたに違いない。それに加え、この女性のドレスは召使が私生活で着る種類のものだということも注目に値する。この男性は、勤務時間外に会いに来るほど彼女と親しい間柄なのだ。

    この絵に描かれているのは、単に女性が恋人と一緒に楽譜を読んでいる場面ではなく、官能的なサスペンスとも言えるものだ。女性が画面のこちら側の鑑賞者を見ているのに対し、男性の方は見られていることに気づいていないようだ。彼女は道ならぬ恋の現場を押さえられてしまったのだろうか? 私たちは見てはいけないものを目撃しているのだろうか? そうした疑問に対し、フェルメールが明確な答えを用意することは決してない。

    29《婦人と召使》1666-67C90×78フリック・コレクション
    フェルメールは、女性が手紙を書いたり読んだりする場面を好んで描いた。一見すると《婦人と召使》もその手の作品のように思えるが、実は他とは一線を画す非常にドラマチックなものだ。この絵の中の召使は、手紙を書いている女性に緊急事態を告げる手紙を運んできたようで、文面は見えないものの女性の不安げな表情がそれを物語っている。

    光の使い方も劇的で、何もない真っ暗な背景に2人の人物を浮かび上がらせている。多くのフェルメール作品で、美しく設えられた部屋が詳細に描写されているのとは全く異なり、まるで、そうした家庭的な空間から人物だけを切り離してここに連れてきたかのようで、読み解き難い神秘性を醸し出している。

    謎を説くための鍵はテーブルの上のわずかな物しかないため、鑑賞者の目は自然とそこに置かれた箱にいく。ナショナル・ギャラリー(ワシントンD.C.)のキュレーター、マージョリー・E・ウィーズマンがアムステルダム国立美術館の展覧会図録で述べているように、この箱は宝石箱ではなく手紙を入れるためのものだ。ウィーズマンいわく、インド太平洋地域で作られたものだと分かる独特のデザインで、同時代の鑑賞者なら遠く離れた異国を思い浮かべただろうという。わずかな小道具を使って広大な世界を喚起させるこの絵は、フェルメールの卓越した技量を証明していると言えるだろう。

    30《手紙を書く女》1665-66C45×40ワシントン・ナショナル・ギャラリー
    《手紙を書く女》のモデルは、フェルメールがよく知る女性、つまり妻のカタリーナ・ボルネスだった可能性がある。美術史家たちはこれについて断定はできないとしているが、1つだけ確かなことがある。絵の中の女性は、理想化された女性像ではなく、非常にリアルかつ存在感のある人間として描かれているということだ。彼女は書くのに夢中で自分が見られていることに気づかないのではなく、私たち鑑賞者の方をしっかりと見つめ返してくる。

    彼女が何を書いているのかは分からない。そこがミステリアスな場面設定を好んだこの画家らしいが、訳知り顔の小さな笑みを浮かべた女性の表情から、手紙の内容は悲しいものではないと推察できる。彼女の背後に掛けられた絵の中に手がかりを探った美術史家たちは、低音ビオール(16〜18世紀頃に使われていた弦楽器)のようなものが描かれていることに着目している。これを踏まえると、彼女の手紙はラブレターなのかもしれない。

    31《赤い帽子の娘》1665-66C32×27ワシントン・ナショナル・ギャラリー
    この作品は、長い間さまざまな理由から学者たちを困惑させてきた。その1つが、木製のパネルの上に描かれていることで、基本カンバスを支持体とするフェルメール作品の中では例外的だ。絵の中身も少し変わっている。椅子に腰掛けた若い女性が背もたれに寄りかかるのではなく、その上に肘を乗せて鑑賞者の方を向いているのだが、この奇妙な構図に美術史家たちは頭を抱えてきた。特に、椅子の背もたれの上部に施された装飾の向きと人物との位置関係が不自然で、これでは椅子があり得ない方向を向いていることになってしまう。

    木製パネルを支持体にしたことで可能になった表現もある。濃い青色の服に見られる、ピントがぼけたような独特の光沢がそれだ。ただ、この絵は少しぼやけ過ぎていて、やや雑な感じがする。フェルメールは後にこの表現に磨きをかけ、《レースを編む女》のように部分的にぼやけた描写を用いた優れた絵画を生み出していく。

    32《ヴァージナルの前に座る若い女》1670-72C25×20ライデンコレクション
    フェルメールの絵に駄作はないが、ほかと比べるとインパクトに欠ける作品はある。ニューヨークのライデン・コレクションが所蔵する《ヴァージナルの前に座る女》がそうだ。ロンドンのナショナル・ギャラリーが所蔵する同じ題材を描いた作品と似たところがあるものの、女性と彼女が腰掛けている椅子、そしてチェンバロに似た鍵盤楽器以外の要素がほとんどないこの作品は、殺風景な感じがする。フェルメールが楽器を描いた絵は恋愛を暗示しているものが多いが、ここまでディテールに乏しい作品に隠された意味を見出すことは困難だ。細部へのこだわりで知られる画家の手によるものだけに、なおさら物足りなさを感じる。

    実は、この絵がフェルメールの手によるものかどうかについては、長年議論が分かれてきた。しかし、ここ数十年の間にこれが真作であることを裏付ける有力な証拠が複数見つかっている。真作だと主張する側とそれに反対する側、両者が根拠にしているのがこの絵に使われている顔料や、おそらくほかの画家によって後から加えられた修正だ。アムステルダム国立美術館の大回顧展では、この絵は真作の扱いとなっている。

    33《真珠の耳飾りの少女》1665-67C47×40マウリッツハイス美術館
    この肖像画は、おそらく最も多くの人の目に触れているフェルメール作品であり、史上最も有名な絵画の1つだろう。この絵に関する小説や映画も作られており、森村泰昌やアウォル・エリズクなど、現代アーティストによるオマージュも数多くある。だが実際のところ、この絵は定評通りの傑作なのだろうか?

    技術面では、ほぼ間違いなくイエスだが、テーマという面ではそうでもない。しかし、フェルメールが得意とする劇的な光の効果が見事に駆使されているこの絵は、形式的には文句なく素晴らしい。漆黒の闇の中から浮かび上がっているように見えるこの少女の唇、瞳、そして耳飾り(最近の研究によると真珠ではないらしい)は、見えない光源に照らされて輝いている。これは必ずしもフェルメール独自の表現ではなく、同時代の画家ミヒール・スウェールツなども試みているものだが、フェルメールは《真珠の耳飾りの少女》でこの手法を極めたと言えるだろう。

    34《青衣の女》1665-67C46×41アムステルダム国立美術館
    おそらくフェルメールが描いたどの絵よりも、この《(手紙を読む)青衣の女》は謎に満ちている。この手紙は誰が、何のために書いたのか。何が書かれていて、読んでいる女性はどう反応しているのか。こうした疑問への答えは簡単には見つからないが、フェルメールは絵の中にいくつかのヒントを散りばめている。

    たとえば、壁に掛けられた地図は、手紙が書かれたかもしれない遠方の土地を示唆している。また、女性の回りにあるもの、たとえばテーブルの上に無造作に置かれた真珠などから、この手紙を読むために彼女がそれまでしていた作業を中断したことがうかがえる。大きく膨らんだ服からは、彼女が妊娠している可能性が推測できる。これらのヒントを総合すると、この女性は海外にいる伴侶から急な知らせを受け取ったのかもしれないという物語が浮かんでくる。

    いずれにせよ、この絵は、静止、静寂、内省、内面性に対するフェルメールの感覚が凝縮された傑作だ。彼はこの女性を取り囲むようにして椅子とテーブル、壁を配置し、彼女を狭い空間に閉じ込めている。彼女の身体は常に部屋の中に、そして意識は自身の内側へと引き止められるのだ。

    35《合奏》1663-64C64×58イザベラ・スチュワート・ガードナー美術館(1990年まで)
    《合奏》のような絵は、フェルメールの研究者を困惑させる。もしこの絵が誘惑の瞬間を表現しているのだとして、フェルメールは道徳的な批判を込めているのだろうか? それとも単なる情景描写なのだろうか? この絵と、その中の右側に掛けられた絵には、大きな違いがある。後者はフェルメールの家族がかつて所有していたディルク・ファン・バビューレンの《取り持ち女》で、売春宿で働く女性を題材にしたいかがわしい場面の絵だ。ドラマチックな効果を上げるため人物が密集して描かれている《取り持ち女》と比較すると、《合奏》は落ち着いた色調で人物同士の間隔も広く、かなりおとなしい印象だ。

    この絵をさらに謎めいたものにしているのはピアノに向かっている男性で、鑑賞者に背を向けているため顔は見えないが、演奏していないことは明らかだ。左側の女性が鍵盤を弾いており、彼はピアノの蓋の裏に描かれた雄大な田園風景に見入っているようだ。ピアノの絵と壁に掛けられた風景画によって外の世界が強調されているが、閉じられた室内空間を描いた絵で、窓も画面の外にあることを考えると興味深い構図だ。
    (作品説明:ARTnews JAPANより)


    この表は、フェルメールの作品の番号、タイトル、制作年、支持体(Cはキャンバス、Wは板)、サイズ(縦×横、単位はセンチメートル)、所蔵先を示しています。

    フェルメールの作品は、彼の生涯や時代背景、技法や主題などから様々な視点で解釈されています。彼の作品には、キリスト教や神話の場面、風俗画、風景画、音楽や手紙などの日常の情景、寓意画などがあります。彼の作品には、光と影の効果や色彩の美しさ、空間の構成や細部の描写などが特徴的です。



    作品が語りかけてくる静かな言葉にじっと耳を傾けてみる、本書はそんな鑑賞の仕方を提案する大型画集です。フェルメールの鍛えられた眼を通して表された世界の深淵に誘い込まれるように、作品を味わうことができます。
    多数掲載された部分拡大図版によって、見過ごしがちな細部の工夫を発見することができ、また同時代の画家たちの作品と見比べることにより、画家の立ち位置や時代背景について理解が深まります。
    作品に寄り添う、近寄ってみる、比較する、これらの鑑賞方法によって、芸術作品の何が時代を超えさせる力を持つのかに迫ります。

    著者について
    目白大学教授

    • Kazuさん
      ヒボさん、初めまして。
      フェルメールについての詳しい説明、とても参考になりました。

      もう行ったよ、ということでしたら余計なお世話ですが、
      ...
      ヒボさん、初めまして。
      フェルメールについての詳しい説明、とても参考になりました。

      もう行ったよ、ということでしたら余計なお世話ですが、
      国内では、大塚国際美術館でフェルメールの10作品が鑑賞できます。
      去年の10月に「音楽の稽古」が追加されてます。

      私が行った時は「ヴァージナルの前に座る女」が追加展示されたばかりで9作品でした。
      "まるわかりフェルメール読本"という小冊子があったので貰ってきました。

      自宅用の土産に「デルフトの小路」のミニ陶板を買ってきて飾ってます。
      ヒボさんのレビューほど詳しくないですが、小冊子の解説を以下に転写しておきます。

      <デルフトの小路>
      画家の故郷オランダ・デルフトの街角をクローズアップしたような風景画。
      2軒の民家、その間の小路では洗濯桶で洗い物をする女性、手前の玄関先では太陽の光のもと縫物をする姿もあります。
      二人の子どもはしゃがみ込んで何の遊びをしているのでしょうか。
      淡々とした過ぎていく日常風景をフェルメールは斬新な視点で切り取りました。
      2024/02/19
    • ヒボさん
      Kazuさん、こんばんは♪

      大塚国際美術館、まだ行ったことがないんですよね。
      生のフェルメール作品は《信仰の寓意》しか見たことがなく、もう...
      Kazuさん、こんばんは♪

      大塚国際美術館、まだ行ったことがないんですよね。
      生のフェルメール作品は《信仰の寓意》しか見たことがなく、もう少し暖かくなったら《聖プラクセディス》を見に上野の美術館散策をしてみようと思っています。
      《デルフトの小路》も素敵な作品ですよね。
      右下の赤い戸や中央下の子供たちは後から描き足されたそうです(映画の中で出てきました)。

      またいろいろ交流させて頂けると嬉しいです。

      宜しくお願いします(*^^*)
      2024/02/20
  • 小説『真珠の耳飾りの少女』の参考書として読みました。
    見開きには「フェルメール作品の大きさ比べ」があり、レンブラントの《夜警》の中に現存の32点がすっぽり収まるとのこと、フェルメールの作品がいかに小さいかがよくわかります。
    《真珠の耳飾りの少女》は、実際に見たことのある《牛乳を注ぐ女》よりさらに小さく、44.5×39㎝の作品です。
    大きな真珠のイヤリングをつけてこちらを見つめる少女の眼に思わず見入ってしまいました。

    17世紀、独立後のオランダ共和国は、新教(プロテスタント)を奉じ、裕福な市民階層が美術市場を牽引するようになります。デルフトに暮らすフェルメールが、宗教画から風俗画に転向せざるを得なかった時代の流れが分かりやすく書かれていました。

    少女フリートがいた古都「デルフト」 
    女中タンネケがモデルになった《牛乳を注ぐ女》 楽器のリュートやヴァージナル。美しいタペストリーとデルフト・タイル…。
    小説に登場する風景や人物、日常に使われていたものをフェルメールの絵の中に見ていくのも楽しい。
    遠近法を使い、光と色彩で見る者の心を捉えてしまうフェルメールの世界を体感することができました。

  • フェルメールの現存する作品は30数点と少ないので、本書の解説も濃い。
    そんな数少ない作品も、時代とともに変化している。
    フェルメールの生きた17世紀オランダは、王侯貴族ではなく市民たちがおもに画家たちを支えていた。

    また、オランダはプロテスタントの国であったため、つまり聖書にかえれという教えであるため、識字率をあげる教育に力を入れた。一方、カトリックは文字を読めない人たちにも布教すべく絵や彫刻のイメージを利用したため、教会が芸術家たちを支えていたともいえる。

    そんななかでフェルメールも作風をニーズに合わせて変えていく必要があった。もっとも大きな変化として、物語画家から風俗画家への転身があった。

    風俗画家に転身してからは、室内でひっそりと営まれる市民の生活、とくに女性を、窓から射し込む光でてらした絵を好んで描いたようだ。

    ルーブル美術館ではじめて「レースを編む女」「天文学者」を見たとき、その小ささに驚いたものだけれど、じっさいフェルメールは小ぶりの作品ばかり描いたという。
    本書によると、現存する作品が、レンブラントの「夜警」1枚の広さに収まるらしい。

    フェルメールといえばただ市井の人々を描いた画家くらいに思っていたけど、解説を読んで、けっこう寓意をこめているということがわかった。

    例えば「手紙を書く女と召使」
    テーブルで手紙を書く女性の背後には画中画が壁にかけられているのだが、その絵の主題が「モーセの発見」、つまり「和解」を意味する絵であるために、女性が書いている手紙の内容が和解についてのものであるとか。

    さらにはテーブルの前にはハートのエースのカードと、しかも手紙の文例集が落ちているためにこれは恋文だとか。

    ところでフェルメールの絵は変化しながらしだいにふたたび物語性を帯びてくる。
    これまで本書のシリーズ本でいろんな画家について読んできたが、晩年に近づくにつれて若い頃の作風を変奏しようとする人がけっこう多いのはおもしろい。

  • フェルメールは光の効果を追求し、人物に実在感と気韻生動感を与える光を描き加えて観る者を虜にした。〈真珠の耳飾りの少女〉、〈少女〉は、白い珠一つで生命感を表現し、透徹した麗しさが達成されている。私的に、物語性の高くない日常生活の一場面から詩情を感じる〈牛乳を注ぐ女〉、〈絵画芸術〉等に心惹かれる。中でも〈リュートを調弦する女〉は、数年前、上野の森美術館で観てから特に好きになった。窓の向こうに向けられた視線、その右側にある空席。彼の作品は、描かれた清澄で静謐な一瞬の光景によって、描かれなかった光景を届けている。

  • 17世期のオランダの画家、フェルメール。
    フェルメールの絵は、テーマにしてもタッチにしても、奇抜でもとんがっているわけでもないけど、
    誰が見ても、「フェルメールの絵」と分かる。

    そして勝手な思い込みだけど、フェルメールの絵に嫌悪感を抱く人っていないんじゃないかと思っています。モネに並んで。

    下記、読書メモ。

    オランダのデルフト生まれのフェルメールは43歳で夭逝した。
    現存する作品数は少なく32点!
    しかも作品が小さく、全32作を並べてもレンブラントの「夜警」の中にすっぽりと収まるくらいとのこと。
    (レンブラントも同じ時代を生きたオランダの画家として有名ですね)

    風俗画を描く前は、宗教画を多く描いていた。
    物語画家から風俗画に転向した。
    オランダではその当時、画家たちによって総計五百万点が制作され、厳しい競争となっていた。
    そんな中でフェルメールは独自の道を模索していた。

    25歳頃からは、独自のテーマを定めていく。
    市民の私的生活を画題とし、室内の情景(そして窓辺多め)を描くことが増えていく。
    中でも、窓辺の一隅に女性が1人佇み、何事かに没頭するという構図を完成させたことは大きい。

    海外雄飛が広がるヨーロッパ。
    その時代背景から、フェルメールは地図や地球儀をモチーフとして積極的に取り入れた。

    フェルメールの絵は、ありふれた日々の事物なのに、色彩と形と構図の力で引き込まれる。
    深い色合いとあふれる光。その色彩のバランスの魅力がフェルメールの最大の個性だ。

    その他、オランダの最も重要な日常食だったパン、
    また、手紙や楽器を繰り返し主題として取り上げた。

    フェルメールは子だくさん。14人の子供がいた。(多いな!)

    質感を出すために、顔料に砂を混ぜたり、絵の具が乾かぬうちに絵の具を重ねる「ウエットインウエット」の手法で細部を描いた。

    フェルメールの絵は一見すると何気ないけど、色彩や構図のバランスが絶妙で、緊張感がある。
    良いよなぁ。

    フェルメールが、もし日本の浮世絵やフランスの印象派の時代を生きていたらどうなっていたかな?
    最近、美術史に思いを馳せるとき、歴史に「もしも」があったら、と考えてしまうことがよくあります。

  • 180526 中央図書館
    フェルメールといえば小林の本ばかり目についてしまうのが気にかかる。疑フェルメール作品への評価など、小林の説が定説なのかどうかは、わからない。
    本書は、図版が大きく見やすい。

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著者プロフィール

1948年生まれ。目白大学社会学部教授を経て、現在、同大学名誉教授。専門は17世紀オランダ美術史、日蘭美術交流史。82~85年、ユトレヒト大学美術史研究所留学。87年、慶應義塾大学大学院文学研究科博士課程修了。『フェルメール論』(八坂書房)および『フェルメールの世界』(NHKブックス)の2著で第10回吉田秀和賞を受賞。『庭園のコスモロジー』(青土社)、『フェルメール全作品集』(小学館)、『グローバル時代の夜明け』(晃洋書房、共著)、『フェルメール 作品と生涯』(角川ソフィア文庫)などの著作がある。

「2021年 『フェルメールとそのライバルたち 絵画市場と画家の戦略』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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