- Amazon.co.jp ・本 (188ページ)
- / ISBN・EAN: 9784811325002
感想・レビュー・書評
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他の方も感想に書いておられますが、この方の事を初めて知りました。
原爆投下直後の広島に入り自身も被爆してまでして集めた品々。それらが平和記念資料館の元になっていたこと、最初は原爆を思い出させるものは見たくないと言われていた事などなど、初めて知ることが多かった。
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あまり知られていない人の伝記に興味がある。知られていないということは、売りにくいわけで、それでも本になったのは、何らかの理由があるから。著者が被伝者に思い入れがある程、面白くなる。
この本は児童書なので、フリガナがあり、構成も親切だが、文章自体は特に子ども向けという訳でもない。章の終わりに注釈があるが、通常の説明以外に、「嘱託」「孤高」「喧伝」など語釈まで入っている。
長岡省吾という人物が広島では有名で、全国的には知られていないのかと思いきや、広島でも知られていないようで、彼がいたからできた平和記念資料館のどこにも(案内パンフレットにすら)その名前がないというのはショックだ。ただヒロシマの惨状から平和を訴えるだけでなく、科学者として、資料から測定をして、被害を正確に立証できるものとして残した功績は大きい。
大人としては、長岡が被爆直後の爆心地に入り、被害の証明とも言うべき資料の収集に力を注いだ前半より、高度経済成長の勢いに翻弄される後半に複雑な思いを持つ。
(今もこういうやり方は変わらないが)アメリカからのテコ入れで、政府・マスコミが一体となって原子力は「明るい未来のエネルギー」だから、どんどん利用しようという雰囲気を作り、被爆都市ではなく復興した都市としての広島をアピールしたいという行政・市民の思惑が一致した結果、原子力平和利用博覧会を、被爆の悲惨さを伝える平和記念資料館で行う(1956年)。また翌々年には、広島復興大博覧会の原子力資料館(原子力を使った飛行船や列車などの未来図を展示)を平和記念資料館で行い、連日入場制限をしなければならないほどの大盛況。
まだ被爆者も大勢生きている時代ですらこうである。経済成長することで、敗戦や被爆を出来る限り忘れたい(惨めだから)、できればなかったことにしたいという雰囲気は、確かにあったと記憶する。だから、長岡がどんなに悔しい思いをしたかもリアルに感じるのである。子どもはこれを読んでもそこまで感じないだろうけど。
東日本大震災のことも思わずにはいられなかった。まだ元の生活に戻れない人も大勢いるのに、復興したと言う政府。様々な利権が絡み、一部の経済的に力を持つ人々だけが得をし、もう大丈夫、原子力はやっぱり大事という操作された情報を鵜呑みにする人々はまんまと乗せられて、苦しんでいる人々を忘れる。
原爆ドームは、今や平和を祈念するシンボルとして確たるものとなっているように見えるが、1960年頃は新聞に「自分のアバタ面を世界に誇示し、同情を引こうとする貧乏根性を、広島市民はもはや精算しなければいけない」(P148)と書かれたという。アバタ面って‥‥。よくこんな文章を載せたなと唖然とする。どこの新聞だよ!(書いてない)
長岡が館長を退いたとき、ある新聞は彼のことを「偉大なバタ屋」(P178)と書いたという。バタ屋という言葉自体蔑みを感じるし、彼は被爆資料を集めて売りさばいたわけではない。本当に失礼極まりない。どこの新聞だよ!(悪口になりそうだから?書いてないのでしょう。)
なんというか、日本人の喉元過ぎれば精神をまざまざと見せつけられた気がした。
とても良い本だったが、唯一気になったのは時系列が前後する点。ちゃんと何年と書いてはあるが、後にあったことを先に書いてあったりして、子どもには分かりにくい。
巻末に長岡省吾と広島、平和記念資料館、その他被爆の歴史を年代順に表にしてあれば良かった。その方が、ほとんど知識のない人にもわかりやすいし、平和学習(今はあんまりしないみたいだけど)の資料にもなったと思う。
あと、個人的には長岡省吾の前半生を書いて欲しかった。ハワイ生まれで広島に育ち、10代で満州に行き、帰国して広島文理大学(現在の広島大学)の地質学の教員となる、ってかなり波乱の人生である。でも、多分、資料がなかったのだろう。生きている彼の子孫から辛うじて人となりを聞き取ったのではないか、と思われる。(巻末の協力者に子孫と思しき方の名前がある。)
マスコミや政府の情報操作に気をつけようと思えるので、大人にも読んで欲しい。 -
広島に行く前に読みたかった!
タイトルにあるように、長岡省吾さんがどうやって広島平和記念資料館をつくったかを記した本で、ノンフィクションです。
立ち上げに尽力したどころか、この人がいなかったらこの施設なかったんじゃないか、というくらいの人物でした。
長岡省吾さんは、原爆が投下された当日は、別の場所にいたので助かったけど、次の日には被爆地に行っています。
そこで地獄のような惨状を目の当たりにし、この事実を残さねばという一心で、被爆した石などを拾い集めたことから始まっています。
次の日には現場にいたので、長岡省吾さんも被爆したそうです。原爆症に苦しみながらも、この現実をより多くの人々や世界に広めなければ、という情熱から行動し続ける姿に、とても胸を打たれました。
これは、児童書で子ども向けに描かれています。
なのでやたら専門的で難しいことはなく、かといって軽くなく、児童書だから文章もコンパクトにまとまってるのに、伝えるべきことはしっかり描いてある。
びっくりする程、分かり易く読みやすかったです。
大人にも読んでもらいたい!恥ずかしいながら、知らないことも沢山描いてありました。
ただ、小学生にはよく分からないかも…という表現や単語が少しあるし、少し刺激の強いエピソードや遺品写真もあるので、中学生以上が良いかもと思いました。
是非、修学旅行や旅行で広島に行く前にぜひ読んでもらいたいです。 -
震災直後の広島を歩いて被爆資料を収集し、のちの平和記念資料館の礎を成し、初代館長となった長岡省吾の物語。
丹下健三の平和資料館の建築がなってからも、原子力平和利用展示との共存、美術館への転用案、被爆再現人形などなど、被爆資料の実物をもって原爆の恐怖を示そうとした長岡の意思に沿わぬ圧力がかかり続ける。
集団的記憶は常に、様々な思惑をともなった更新の圧力に曝される。なし崩しにされない、強い意志こそが伝承されなければならない。 -
国内はもとより、全世界から人々が訪れる広島平和記念資料館(原爆資料館)。この博物館をつくったのは、長岡省吾という人物でした。原爆が投下された当時、広島大学で地質鉱物学を教えていた彼は、原爆投下の翌日市内へ入ります。その時、護国神社で腰かけた石灯ろうの表面に、尖った無数のトゲができていることに気がつきます。彼は異常な高熱によって変化したことに気がつき、「特殊な爆弾だ」と直感的に思いました。この被害を後世に伝えていかねばならないと、彼は毎日廃墟となった広島の町に通いつめ、焼けただれた石や瓦、ビンなどをひたすら集め続けました。半生を被ばく資料の収集に捧げた彼の思いは、人類の悲劇を伝える資料館として、今も訴えています。
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ずん、と胸に響く。
ヒロシマの悲惨さと共に、平和祈念資料館を作った長岡省吾さんの切実な思いが切に。 -
広島で生まれ育っても、この長岡省吾さんの名前はこの本を通じて初めて聞いた。
平和記念資料館、改めて行きたいと思った。 -
2024.11.29