私は本屋が好きでした──あふれるヘイト本、つくって売るまでの舞台裏

著者 :
  • 太郎次郎社エディタス
3.45
  • (16)
  • (42)
  • (44)
  • (13)
  • (4)
本棚登録 : 561
感想 : 57
本ページはアフィリエイトプログラムによる収益を得ています
  • Amazon.co.jp ・本 (251ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784811808390

作品紹介・あらすじ

反日、卑劣、心がない。平気でウソをつき、そして儒教に支配された人びと。かかわるべきではないけれど、ギャフンと言わせて、黙らせないといけない。なぜなら○○人は世界から尊敬される国・日本の支配をひそかに進めているのだから。ああ〇〇人に生まれなくてよかったなあ……。

だれもが楽しみと知恵を求めて足を運べるはずの本屋にいつしか、だれかを拒絶するメッセージを発するコーナーが堂々とつくられるようになった。そしてそれはいま、当たりまえの風景になった──。

「ヘイト本」隆盛の理由を求めて書き手、出版社、取次、書店へ取材。そこから見えてきた核心は出版産業のしくみにあった。「ああいう本は問題だよね」「あれがダメならこれもダメなのでは」「読者のもとめに応じただけ」と、他人事のような批評に興じるだけで、無為無策のまま放置された「ヘイト本」の15年は書店・出版業界のなにを象徴し、日本社会になにをもたらすのか。

書店・出版業界の大半が見て見ぬふりでつくりあげてきた〝憎悪の棚〟を直視し、熱くもなければ、かっこよくもない、ごく〝普通〟で凡庸な人たちによる、書店と出版の仕事の実像を明らかにする。

感想・レビュー・書評

並び替え
表示形式
表示件数
絞り込み
  • いろんなことがわかって面白かったけど
    はて?著者永江朗さんが言いたいのは
    本屋のこと?
    ヘイト本のこと?
    なんか、軸が二つあるみたいで
    落ち着きませんでした。

    ヘイト本とネトウヨについては、
    自分はニュースで韓国とか中国とか嫌だなと思うことはあるけど、
    前に橋本徹さんが(この本にも登場する)その手の方と対談するのを見た時「すごく嫌!ああはなりたくない」と思いました。
    でも元々本屋にあっても気にならないし、
    世のなかにはいろんな人がいるのだから、
    あまり関わらなければ良いと思っています。

    もっと問題にしなくちゃいけないことが
    自分的にはたくさんあります。
    こういうことって、最近の黒人差別問題みたいな
    何か大きな事件でもないと、どうしても現状維持になるのかなあ。
    ただ永江さんみたいに声をあげる人がいるのは大事な事だとは思います。

    一方、本屋さんの問題ですが、
    時代とともにライフスタイルも変わると
    いろいろ工夫していかないといけないのでしょうね。
    良いアイデアが浮かばなくてごめんなさい。

    でもひとつだけ、きっぱり言わせてもらうと
    私はブックカフェは受け入れられません。
    自分の本でもないのに、飲食はありえないし
    そんなお店で本を買いたくありません。

  • 「本屋にとってヘイト本とはなにか」を考えることが、本書のテーマとのこと。
    本屋にも様々な形態があり、店舗規模によっても抱える現実が異なることや、出版業界の独特な販路など、いくつかの階層にわけて話が展開されていく。

    ただ、本書には結構な割合で座談会やインタビューが唐突に差し込まれているのだが、個人的に違和感があった。
    現場の書店員や編集者、ネトウヨに詳しいライターなど様々な実在の人物が名前入りで出てくる。彼らの生の声にそのまま触れさせようという主旨なのかもしれないが、散文的で、客観性や論理性が足らない印象。

    誰それに話を聞いた、みたいな導入でヘイト本にまつわる話をたくさん紹介するのも構わないのだが、もしルポならもう少し客観的なデータ分析や図表などもあげて欲しかった。
    (例えば座談会の発言。結構売れたとか売れなかったなどの書店員の主観を読まされても、どのくらいの規模なのかさっぱり伝わってこない。)
    あと、重要なアクターのはずのヘイト本愛好者達が直接取材されていないのも違和感。

    著者はかなり「本屋とはこうあらねばならない」主張を強くもっていて、それが全編ににじんでいるので、それならいっそのこといろんな人の声を引っ張ってくるよりもエッセイにすれば良かったのに…とも思った。
    テーマは興味深いのに、本の構成が…。よって星3つ。


    ヘイト本を「ヘイト本」と呼ぶのは適切か
    との投げかけは同感。

    ヘイト本とポルノの類似性や、座談会でヘイト本の購買層が『ムー』読者層と重なる(陰謀論を好むタイプ)、といった指摘も出てくる。
    私も似た印象を持っていたので納得。

    ちなみに昔、ノストラダムスの大予言、という世紀末物が流行って、多くの本屋にコーナーがあったのだが、それに似た異質さを感じるのは私だけだろうか。
    異質だから買ってはいけないとは思わないのだが、「異質だと自覚しながら買う」感覚があるかないかが分かれ道な気がする。
    特定の国や民族を十把一絡げに差別したり、返す刀で自国自画自賛とワンセット。それを本気で思い込むとしたら頭がおかしいだろう。(読者層のうち何割くらいを占めるのか、想像もできないが。意外と少ない気がしないでもない。…やはりもっと踏み込んで調査して欲しかった。)

    書店員によって、売り場にヘイト本のコーナーをつくるかつくらないか、コーナーをつくるとしたら偏っていない本も一緒に置くべきではないかと考えが分かれていたが、
    個人的に、ヘイト本のカウンターは、本書で述べられていたような中韓への中立的立場の本(専門的で、ヘイト本のようには売り捌けないタイプ)というよりは、洗脳やプロパガンダ、心理学系や情報リテラシー系の本なのでは?と思ったりした。

  • 以前にオオバ(大葉)農家から聞いた話だが「自分が売ってる大葉は自分では絶対に食べない」らしい。なぜなら大葉は虫が付きやすく極度に弱いので、びっくりするくらい農薬をかけるからだって。
    大葉って生食する野菜なのに、そんなことを平気で言う農家がいるのが信じられない(あるいは信じたくない)のだが、この本を読めば、今の書店、いや出版に関わるほとんどの人がこの大葉農家と似たようなことを平然と口にしているのでは、という見たくない現実を否応にも見せられる。

    この本は永江さんが書店の店先に、他人や他の国を深慮せずにコキおろすかのようなタイプの本(以下「イヤ事本」ともいう。こういった方が「ヘイト本」よりわかりやすいと思うが)が勢力拡大しているのを見たことによる“違和感”を起点に、関係者への取材を交えて、書店(いわば“川下”)から、書店へ配本する役割の取次、そして出版社、編集者、ライターと川を上って行くように、その原因をたどろうとしている。

    しかし永江さんがもちろん本気で「ヘイト本」をヘイトしているが故にこの本を書いたというのは編集担当の方の名前を見て理解できたけど、私が一番引っかかったのは、本を売ることにかかわる業界すべてにはびこる「とりあえず今が良ければ」という事なかれ主義だ。
    永江さんはヘイト本を斬ろうとして、返す刀で本を作って売る業界全体にはびこる「今が良ければ」病というより深い“病巣”を切ろうとしているように読めた。

    そもそも書店に“文化の発信者”の役割を期待しているのは、なにも私だけではないと思う。
    ましてや大葉などの野菜のような日常品と違い、文化発信者としての厳然たるポリシーで頑としてイヤ事本なんか置かない、という書店もあってしかるべきだと素で考えて思うのだが、実際にはほとんどの書店でイヤ事本は置かれている(その理由はこの本に詳述されているが、要するに「とりあえず送られてくるから店に置いてたらそこそこ売れるし」みたいな感じ)。

    文化の発信者どころか、この本を読めば街の本屋のほとんどが“商売っ気”で成り立ってることに改めて気づかされる。
    まあそれについてどうこう言う権限もないし、商売は自由なのだけれど、肝心な(と思っている)どういう本を並べて読み手に伝えたいかという書店の個性が、商売優先原則の前でなおざりにされているという割り切れなさは残る。
    先の大葉農家の話の「売れればいいし、そもそも買う人がいるって話だろ?」というようなことが書店にも同列に当てはまるってことなのか?

    正直なところ、ヘイト本うんぬんよりも、本の出版や販売に携わる者の矜持というか、私が求める文化の先導者としての精神性が、この本に出てくる書店、出版社、編集者、ライターの誰からも十分な形で感じられなかったことに大きなショックを受けている。
    だが私はショックの一方で、大阪の谷町六丁目駅近くにある隆祥館書店のような本屋もあることにまだ希望は持っている。

    一方で、永江さんがヘイト本を置くような書店は滅びろと結論づけてるように早計的に捉えがちだが、永江さんが言いたいのはそうじゃないと思う。
    永江さんの結論は『今の事なかれ的な本の売り方では書店は総崩れでしょ、もう少し工夫してみようよ、工夫すれば客は足を運ぶし、工夫しなければ本当の本好きから避けられ、ヘイト本の読者の中軸の高齢者層がいなくなれば、書店は滅びますよ』というようなまとめだと思っている。

  • 「こんなの読むのはバカだよね」と作られ、
    「良いとは思わないけど売らないと商売にならない」と書店に並ぶ。

    読みながら少し感情的になってしまいました。
    人権を足蹴にしてお金を貰ってることを理解しながら容認しているんだなあって。

    はあ。
    上手く感想が出てきません。

  • ▼新型コロナで大変なご時世ですが、糸井重里さんが何かで述べていたことに同感です。文言は覚えていませんが、確か内容は、「ウイルスも怖いけど、なによりも心が疲弊するのは、連日メディアで誰もが誰かを批判罵倒してヘイト感情を顕にしているのを目にすること」

    ▼横浜市に住んでいます。今年(2020年)の1月、まだ新型コロナの話題が一般化していなかった頃に、京都大阪方面に慌ただしく家族で短い旅行をしました。かつて住んでいたので、行きたいところ、会いたい人、多すぎて消化不良。全然時間が足らないな、と後ろ髪を引かれながら戻ってきました。そんな中で、もう長いこと「いつか行こう」と思っていて果たせていなかった恵文社一乗寺店に、やっと行けました。とても楽しかった。

    ▼中規模の本屋さんなんですが、本屋さんがちょこっとでも好きな人からすると、とっても素敵な本屋さん。それぞれのコーナーに個性あるこだわりの品揃え感が満載。買いたい本だらけで鼻血が出そうでした(そんなにいっぱい買わなかったけれど)。父親も母親も本棚巡りに夢中になって、半ば放置された5歳の子供が延々と絵本コーナーで立ち読み、かつ大音声で音読をしていても、店員さん怒らなかったし(まだ黙読ができない。絵本コーナー、レジの真正面だったんだけど。店の隅々まで朗読が聞こえてきて、親としては「あ、無事にいるな」と安心できた)。トイレもきれいだったし。

    ▼「私は本屋が好きでした」永江朗。2019年、太郎次郎社エディダス。2020年3月読了。「嫌韓反中」などと呼ばれる本、韓国や中国、韓国人や中国人に対して悪感情的な本、「ヘイト本」と呼ばれる本について、筆者が「自分は生理的にヘイト本は嫌い。そこで、一体どういう人が、どういう仕組みで働いて、ヘイト本が本屋に並ぶのか?売れているのか?」ということを、出版業界、書店業界に取材した内容です。

    ▼永江朗さんという方は、聞いたことはありましたが読んだことが無かったです。語り口は、とても平易で読みやすかった。そして、どうやら出版業界に詳しい方のようで、書店、取次、編集プロダクション、出版社、ライター・・・などなど、本を巡る業界の流れを説明しながら、ヘイト本の流れを探っていきます。

    ▼基本の感情が「僕はとにかく本屋さんが好きだった。なのに、なんでこんな醜悪な本を置くようになったのだろうか。いやになってしまう」というものです。ここについて、読み手である僕も同感なので、読むモチベーションは十分。どうやってその手の本は作られて、本屋さんにたどりつくのか?という社会勉強も兼ねながら。わくわくしました。(げんなりもしますが)

    ▼ざっくり永江さんの取材結果を誤謬を恐れずにまとめると。まず出口で言うと、

    「ヘイト本は、多少は売れている(売れていた)。購買層は、ほとんどが高齢の男性」。ネットで右翼的発言を過激にしている方々のことを、ネトウヨと呼ぶと思いますが、「ネトウヨの方々は、ほとんどが若年~中年男性。ネトウヨは、実はヘイト本はあまり買っていない。ネトウヨと呼ばれる方々は、ほとんどが、読書しない人々なんです」

    ▼本屋さんの多くは、「それなりに売れるから(売れたから)置いている」だけ。個人個人聞いていけば、「ああいう本もどうかなあ、とは思うけど。でもそこそこ売れるから」。

    ▼そして、日本では本屋さんは、実は「欲しい本を指定して仕入れる」という流れになっていないところがほとんど。まず経営が苦しくて、人件費は削られ、店員さんは忙しすぎる。本を愛して読書にいそしんで価値観を磨いて・・・などという余裕は、無いことが多い。取次さんが一方的にセットで送ってくるのを受けていることが多い。これは、「売れなければ返品できるから」という流通の仕組みにも由来している。

    ▼取次さんというところは、基本的に「出版社と本屋さんを、透明に繋いでいる」という役割らしいので、価値判断は余りしない。つまりここも、「そこそこ売れるから(売れたから)」。機械的にやっています。

    ▼では、出版社はどうか。基本的に「そこそこ売れるから(売れたから)」。出版社は、紙の本が売れなくなっている、マンガ以外は売れなくなっている。村上春樹さんみたいなベストセラーは各社争奪戦だけれども、それ以外は、「点数を増やす=新刊を増やす」。当然ながら新しい本が比較的売れるから。従って、初版はそんなに部数を刷らなくても、点数を増やしたい。そして、テレビドラマなどと同じですが、「何かが売れたら、同工異曲で2匹目の泥鰌を当然狙う。3匹、4匹、5匹と狙う。どうしてかって?ベストセラーが出たら、似たような本を作れば、ベストセラーの7割くらいは売れる、という傾向があるから」

    ▼作っている編集者、編集プロダクション、ライターたちからすると。「売れるから、くだらないと分かっていて作っている人もいる。内容をけっこう信じて作っている人もいる」と色々。関わっている人たちでも「内容的には、事実を分かっていなかったりすることが多い。自分たち日本は悪くない、という感情を援護しているだけ」と分析する人もいる。ただ、このあたりについては、永江さんの取材が「ヘイト本を、本当に正しいと信じて作っている人たち」には至ってないという要素はあります。

    ▼では、いつから売れるようになったのか?色んな人の意見を聞くと、「小林よしのりさんの”戦争論”(1998)がインパクトがあった。売れた」とのこと。そして、2014年くらいまでそこそこ売れていた。その後やや下火になった・・・と思ったら2019年現在で「まだそれなりに売れている」状態だそう。ただ、繰り返しになるけれど、「買っているのはほぼ高年齢男性だけ」。

    ▼色々な人の分析によると。1995年くらいまで、バブルの余波があった頃は、日本人は(本などの言論上は)どっちかというと自己批判的だった。「日本人はお金はあるけど、品がない」、みたいな。これは今、中国が日本などから言われることに似ていますね。でもそれは、ある意味では余裕があったからなのか。不景気が根付いてくると変わってきます。韓国や中国に、経済的にも抜かれる状況になってくる。プライドが傷ついてくる。ここから、「あいつらはとにかく良くない。俺たちはやっぱり、あいつらより上だ」と言う感情を支えてくれるものが、売れてきます。

    ▼こうやって分析すると、これは個人的に思うことですが、バブル華やかなりし頃に、日本に経済活動を凌駕されてプライドが傷ついた白人社会から沸き起こった、「日本バッシング」と、まっっったく変わりません。特段根拠やエビデンス無く、とにかく見下す。笑いものにする。不当に利益を上げていると批判する。カメラを首から提げて、猿の顔で眼鏡、スーツにネクタイ、そして会社人間・・・という日本人像が創造された時期ですね。閑話休題。

    ▼本書の話に戻りますが、ヘイト本に関わっている業界の方の分析がオモシロイし、納得がいくことが多かったです。それも実は、恐らく永江さんの取材人脈ですから、ヘイト本を作られる状況を知っていつつも、心情的には「反ヘイト本」な人が多いからでしょうが・・・。

    ▼例えばまず、在日韓国朝鮮人の方々を批判する内容に賛同している方々は、「圧倒的に関東人。関西人は少ない」。これはどうしてかというと、多くの関東の方々が、肌身に染みてそう思ってはいないでしょうが、「関東、東京首都圏は、圧倒的に在日の方たちが少ない。更に、触れ合う場も少ない」んだそうです。関西の方々は、子どもの頃から身近なところに韓国朝鮮系の方々は普通にいます。育つ中で、理屈抜きで「韓国朝鮮系の人々が悪いことをして、不当な利益を得ている」などということは思えなくなっている。関東首都圏は、関西に比べると韓国朝鮮系の方々も、あとは部落差別に関係する方々も、人数が少ない。関東首都圏の人々は、身近にそういう人々を感じていないので、笑っちゃうような差別や批判を感情的に受け入れやすい。更に言うと、そういう立場の方々が、これまで歴史上どのように差別されてきたか、ということも分かっていない方が多い。「知らない」ということが、なによりも怖い。

    ▼これは、実は僕は同感です。大人になってから、5年間関西で暮らしたのですが、その結果として、全く同感です。

    ▼それから「ヘイト本」を作っている人々、読んで賛同している人々、そして最たるものが読まずに支持している「ネトウヨ」と呼ばれる方々が「驚くほど歴史を知らない」。実際にそういう人々と接している方々曰く、「ほとんどが、戦後の韓国史のイロハも知らないでしょう」。

    ▼そして恐ろしいのが「それでもヘイト本は影響力を持ってしまう。見出し文化だから」。電車の、週刊誌の宙づり広告と同じです。本も、見出しや広告文句だけしか目にしない人々が昔からほとんどです。内容や論旨が驚天動地の荒唐無稽でも、そういう見出しだけ目にしながら育ってきた人々が増えていきます。

    ▼そして、タイトルの「私は本屋が好きでした」に戻ってくるのですが、そんな「ヘイト本」に対して、著者は、キチンとした知性や矜恃を本屋さんに期待していた訳です。何も考えずに機械的に陳列などしないだろう、と・・・だけど、そんなことは、期待できない(ことが多い)ということ。

    ▼これは、テレビメディアもネットメディアも映画も、あるいは小学校から大学校までの学校教育も政治も経済も全部同じだと思いますが、「門外漢が期待するほど、プロだからと言って、みんながプロらしい仕事ができてるわけじゃない。目先の利益と世間の動向に流されているだけ。プロがやっているんだから大丈夫、などと思ってはいけない」ということに尽きます。

    ▼あと、面白かったというか、「やっぱりそうだよなあ」と思ったのは、「なぜ1990年代後半終盤から、ヘイト本が出てきたのか、ヘイト本を受け入れる土壌、そしてネトウヨが出てきたのか」。これは、インターネットと、不景気です。日本の場合は、ブロードバンドというビッグバンは、経済不況の膠着とほぼ同時になります。

    ▼上の世代の連中が吸ってきた甘い汁を、俺たちは不景気になったから吸えない。しかもその不景気を生んだときに世間の主導権を握っていた連中は、彼ら上の世代である。そう考えると、そりゃ不満がたまります。不満がたまるけど、はけ口がない。「負け組」と呼ばれてしまうなら、堪りません。事の自然と、批判、反感は「既得権益者」に向かいます。

    ▼この本の分析で面白かったのは、「ヘイト本の精神、そしてネトウヨの精神は、世代は違っても共通項があって、ありていに言えば大手マスコミへの反感だ」という分析です。インターネット以前は、大手マスコミが「言論」というものを事実上独占リードしていた訳です。大手マスコミへの反感が、そのまま「反知性的、不寛容ムーブメント」に繋がります。(*大手マスコミが全て「知性的で寛容ある」という気は全くありません。ただ、戦後の大手マスコミが、高学歴で高収入であるインテリさんによる、反権力と自国への批判精神、そして弱者への寛容性であった、という図式は正しいと思います)

    ▼そしてインターネットが成長してきた歴史というのは、そのまま「本屋さんが相次いで潰れて、書店員の人件費が削られ、書店員に余裕が無くなっていく歴史」に重なるわけです。とっても簡単に言うと、もともと小規模な書店は、「本が好きで好きでたまらない人がやっている」訳でもなかったんですが、これが中規模大規模書店ですら「自分が売っている本に、文化的な愛着なんて持つ余裕が薄れる。ただたんに経済活動としてやっている書店員が増える」ということです。

    ▼そしてもちろん、インターネットの影響は、「言論が弱者にも開放されたこと」です。そこで当然ながら反響を呼ぶのは、「従来の大手マスコミはしなかったこと、言わなかったこと」です。良きにつけ、悪しきにつけ。そこから、「従来では出なかった本、出して貰えなかった本、売らなかった本、売れなかった本」というのも、出てきます。良きにつけ、悪しきにつけ。

    ▼本屋大賞、についても言及されていて面白かったです。本屋大賞、というのは、既存の文学賞が認めない「売りたい本」を書店員が選ぶ、という発想で、仕掛けた人々の予想を超えて非常に大きな影響を持つ賞になりました。本屋大賞が善か悪か、という軸では、永江さんも考えていないのですが、事実の分析として、「本屋大賞の選考に関わっている書店員は、全国の書店員の30%くらいしか居ない」。

    そして、本屋大賞はそもそもが、「そもそも、ある程度、売れている本の中からしか選ばれない」。つまりは本屋が「いちばん売りたい本」から選ばれる。本屋さんは本能としてベストセラーを欲している。書店員は実際にそんなに本を読む時間が無い。手続きに参加する余裕が無い書店員がほとんど。従って、要は「ベストセラーランキング」とほとんど変わらない。

    ▼そしてベストセラーランキングですが、これに基づいて初版の部数が決められていきます。そして初版の部数に基づいて、取次は流通の規模を決めていきます。そしてベストセラーが報道される端緒は、「大手書店で売れている本ランキング」から始まります。そして、その構造を分かっている人たちが、自分が推したい本を、有名書店で、ある期間に、集中的に仲間たちで買い占める。そうすると、どうなるか・・・。

    ▼永江さんは、長く出版書籍業界に関わってきた方だそうですが、キャリアの中で、成人本、いわゆるエロ本にも携わってきたそうです。その経験からして、「ヘイト本は、エロ本と同じ」と述べています。なるほど。そして、本屋さんの責任?プライド?矜恃として、「エロ本が堂々と陳列してあったら、多くの人が不愉快な気分になる。それ以上に、ヘイト本が並んでいるのは、中国朝鮮系の方々にとって恐ろしく不愉快で、恐怖に感じる。それでいいのか?(中国朝鮮系ではない僕たちも、物凄く嫌な気分になるけれど)」

    ▼もともと、明確な出口を示すために作られた本ではありません。だから、「ぢゃあどうしたらいいのさ?」という回答はありません。よくよく考えると暗澹たる気分になります。でも、この本でも述べられているのは、「そういう状況に自覚的で、自分たちでセレクトして本屋を作り、売り場を作る本屋さんも増えている」というのは、嬉しいことです。永江さんが言っているのは、「ヘイト本」とカテゴライズされる本を一切置かない、ということではなくて(置かないということがまずは姿勢表明になる、という前提がありますが)、置くとしても売り場で「両論併記のディベートの場を作る」という姿勢や、そういう本を手に取りたい人のためには置くけれど、不用意に目立つ陳列をしない、などなどです。個人的には先日訪れた京都の恵文社一乗寺店を思い出しました。(規模が違いますが「くまざわ書店」「いけだ書店」「アカデミア」などのくまざわグループも好きです)

    ▼この本では最終的に「本屋、取次、出版、編集、それぞれの人が、みんな無意識にアイヒマンになっていないだろうか?」という指摘が刺さります。有名なアドルフ・アイヒマン。ナチ政権下でユダヤ人の大量虐殺をリードして、戦後逃亡。モサドに捉えられてイスラエルで裁判にかけられ、死刑にされました。その裁判は有名で、つまりは「だって言われたからやっただけで、周りもそうだったぢゃん。そんなに俺だけが悪いことしてた訳ぢゃないよ」。みんな無意識に、アイヒマンになっていないだろうか?

    ▼そして、そのアイヒマンをどう考えるかについて決定的な影響をおよぼした、アンナ・ハーレントの「エルサレムのアイヒマン」を、いつか読もうと買ったまま、なんとなくまだ読んでいなかったことに気づかされました。読もうっと。

  • 「本屋が好きでした」
    過去形であることから、本屋と別れを告げるという内容なのかな?と思いましたが当たらずとも遠からずでした。
    ヘイト本と言われる、主に中国、韓国を嫌いであると声高に罵声を浴びせるような本を、本屋の店頭に並べることが如何なものなのか?そこに問題提起したいという意思の見える本です。
    僕自身も差別を助長するような本は嫌いですし、基本的にヘイト本であると言われるような本は買ったことがありませんし、読んだこともありません。
    しかしこの本の中で、「ヘイト本」と言われている本を定義出来てはいないので、実際にどういう本が入ってきた時にどうすべきなのか、文章が行ったり来たりして迷走しています。
    検閲のような事をした場合、それ以降の言論の自由に何らかの影響が考えられるので、それは望まないという書き方も有ったので、法整備迄は望んでいないようでありました。
    ヘイト本を見た中韓の人々が悲しい思いをするというのも、至極真っ当であると思います。
    売れるから作るという程ヘイト本がヒットしているという事もどうも無いようだし、出す必要は無いし、書店もパターン配本(取次に選んでもらって自動的に入ってくる方式)を止めてヘイト本を取らなければよい。というのもそうだなと思いました。

    それらを踏まえた状態で言えることは、この本には核となる論が実はあまりなく、
    「ヘイト本を何も考えずに置く本屋にがっかりだ。そういう店は人々の足が遠のいてつぶれても致し方無い」
    と、言っているに等しいし、実際に思いっきり言っています。
    僕自身、百田尚樹さんの一連の本「日本国記」「今こそ韓国に謝ろう」は読んでいないし、読むつもりもありません。しかしそれらを読んだ人たちまで一様に貶める事は無いのではないかと思いました。
    書店に関しても何が何でも選書して、文脈棚を作ったり熱意を持って平台を作り上げたりしなければならないとは思っていません。
    セレクト系の書店にはヘイト本は無いと言っていて、それはきっと正しいのかもしれないけれど、町の本屋さん全般が、確固たる本への思想の元で経営しなければならないというのは、正直酷な事なのではないでしょうか。

    昔、韓国朝鮮系の人々に対する蔑視というのは、日常用語の中にも自然に入り込んでいて、同年代の人が突然慣用句のように口走るのを目撃することがあります。小中学校の時、同級生が口にしているのを聞いたこともあります。とても浅ましく、悲しい汚い言葉達です。言っている人のが近しい人であればあるほど悲しくて顔を見ることも出来ません。
    これは刷り込みのように綿々と受け継がれてきた負の遺産です。我々の代で何とか一区切りをつけて、悪しき風習とは手を切りたいものであります。

    ちなみにヘイト本を避ける事は全くもって賛成です。しかしヘイト本を扱っているという事で違う意味での蔑視をする事自体は僕は良いとは思いません。

  • この本は、オリラジのあっちゃんがユーチューブ大学で紹介していた本です❕
    本が好きなので読んでみましたが、本屋の現状や「取次」制度のことは、初めての知ったので勉強になりましたー。

    ヘイト本等については、色々な意見があると思いますので、それぞれの意見があっていいのかなーっと思いました。
    あと、、本屋さんって忙しいんですねー。
    私は本が好きなので、本屋さん!頑張れー❕

    ぜひぜひ読んでみてください

  • ヘイト本が蔓延する理由、とくに、「こんな本はいかがなものかと思う」と考える人が業界にも多い(と思われる)にもかかわらず、それが店頭に並び続ける理由について。
    作り手である出版社や著者がヘイト本を作る理由と、買い手がそれを求める理由についても考察されているが、主として書名の通り「本屋」に着目している。本屋がヘイト本を扱い続ける理由について、再販制度や見計らい配本、人材不足などを挙げている。これらによって本屋は扱う書籍について吟味することがなくなり、店頭の書籍について他人事となりつつあるから、ヘイト本でもそこそこ売れるからというだけの理由で本屋に並び続けるのではないか、というわけだ。

    共感した点:
    ・ヘイト本はいかがなものかと思うが、それを行政の規制などによって排除しようとすることは、検閲のようなことになり望ましくない。「いくらなんでもこれはないだろう」と思われるようなものを、自らの自浄努力によってなくしていくべきだ。という点。
    ・本屋が無くなると困る、寂しいなどと叫ばれるが、他と同じ「売れている本」ばかり置くような本屋は無くなってもそんなに困らない。無くなってほしくないのは「良い本屋」であって、全ての本屋がそうだというわけではない。という点。
    ・本屋は扱う書籍についてもっと批評性を発揮しても良いのではないか、という点。(○○のパクリ雑誌、というようなPOPをつけた本屋があったらしい)

    不満な点:
    ・ヘイトが嫌いだと言いつつ、同類の言説を本書でもしているのではないか。本書も結局のところ特定の人たちへのレッテル貼りをし、見下してやしないか。いわゆるヘイト本が攻撃対象としている人たちとは別の人たちに対して、その人たちの行為ではなくその人自身を非難するような書きぶりが見られたように思われて、私のなかで本書への不信感につながってしまった。
    ・書店が異なる立場の書籍を置く(たとえばヘイト本と反ヘイト本を並べて置く)ことに肯定的な一方、出版社や編集者が同じようなことをするのには否定的なのはなぜだろう。
    ・本屋が仕入れて売る書籍について吟味し責任を持つ姿勢が理想としつつ、現状はなかなかそれが難しいと言う。…けれど、それって小売業として当然のことだし、本屋の業界の特殊な事情はあるにせよ、本当なんだろうか。それが本当なら、そっちの理由のせいで本屋が好きではなくなりそうになる。

    本書を読んで読みたいと思った本:
    書店と民主主義: 言論のアリーナのために 福嶋 聡
    本屋がなくなったら、困るじゃないか: 11時間ぐびぐび会議 ブックオカ
    エルサレムのアイヒマン

  • 「自らの影響力に無自覚な本屋は本屋とはいえない」(p17)
    私は本屋が好きだ。
    でも、永江さんと同じように、ヘイト本が並ぶことに憤りも感じていた。その仕組みを知りたくて、手に取った。

    書店員、ヘイト本の出版に携わった編集者などにインタビューをし、現場の声を取り入れてまとめられている。

    ヘイト本が売れる理由として、日本の社会不安への裏返し、自分たちの権利が虐げられているという感覚、自国礼讃の気持ちよさなどが挙げられていた。
    売れる本は各出版社が二番煎じを出してくるから、そうした本が増えていく。
    そして、多くの書店は仕組み上、自分たちで入れる本を選ぶ体制になっていない。取次が書店の規模に応じて本を分配し、納品するから。セレクト購入には、マンパワーも時間も足りない。

    私も感じている、「どの本屋行っても似てるな」って感覚は、独自の棚づくりも選書もできていないことに起因するのか、と腑に落ちた。(もちろん、個性を感じる本屋さんもコーナーもある)

    ヘイトは差別だから、言論の自由の範疇にないという著者の意見に同意する。出版する側の倫理も必要だけど、本屋は売る側の最前線。出版不況と言われていても、文化を守る、社会を豊かにする大切な役割を担っている。だからこそ、「自らの影響力に無自覚な本屋は本屋とはいえない」。ヘイト本を積極的に並べたい思ってる書店員は少ないだろう。今の体制では厳しいだろうけど、書店員の知識と個性を発揮した売り場がもっとできればいいのにと思った。

  • テーマは興味ある。書店員として「この本売るのかよ」という思いと、そんな本でも探してるお客さんに手渡して喜んでもらって売上が上がって喜ぶ自分との間で葛藤してなくはないし。
    で、読んでみたけどさ、浅い。雑。
    版元からしてもテーマからしても、関係者しか買わないとまでは言わないけど、まるで興味ない、知識ない人が買う可能性はあまりないと思うし、そう思って読むと知ってることしか書いてないし、結論もありきたり。今、パターン配本でない独立系書店にヘイト本が置いてないってことと、すべての書店でパターン配本を無くせばすべての書店がヘイト本を置かないのはイコールやない。オイラ自身がそうなった時どうするかと考えると、探しに来る人がいて売れるメドがあるならヘイト本でも置く。会社員としては売上も欲しいし、探してる人に本を届けるのは書店員の社会的な責任やと思う、内容問わず。と言うか、売上でなく内容で置かないと決めるのは会社員としては会社の方針でない限りやったらあかんやろうし。
    ただ、著者が結論ありきではなく迷ってることを迷ってると書いてるのはいいと思う。一面的な結論が出せるほど簡単な問題やないし。

全57件中 1 - 10件を表示

著者プロフィール

1958年生まれ。ライター。書籍輸入販売会社のニューアート西武(アールヴィヴァン)を経て、フリーの編集者兼ライターに。90~93年、「宝島」「別冊宝島」編集部に在籍。その後はライター専業。「アサヒ芸能」「週刊朝日」「週刊エコノミスト」などで連載をもつ。ラジオ「ナルミッツ!!! 永江朗ニューブックワールド」(HBC)、「ラジオ深夜便 やっぱり本が好き」(NHK第一)に出演。
おもな著書に『インタビュー術!』(講談社現代新書)、『本を読むということ』(河出文庫)、『筑摩書房 それからの40年』(筑摩選書)、『「本が売れない」というけれど』(ポプラ新書)、『小さな出版社のつくり方』(猿江商会)など。

「2019年 『私は本屋が好きでした』 で使われていた紹介文から引用しています。」

永江朗の作品

この本を読んでいる人は、こんな本も本棚に登録しています。

有効な左矢印 無効な左矢印
劉 慈欣
パリッコ
J・モーティマー...
有効な右矢印 無効な右矢印
  • 話題の本に出会えて、蔵書管理を手軽にできる!ブクログのアプリ AppStoreからダウンロード GooglePlayで手に入れよう
ツイートする
×