岡潔―日本のこころ (人間の記録 (54))

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  • 日本図書センター
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  • Amazon.co.jp ・本 (340ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784820542971

感想・レビュー・書評

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  • 境地が高く、
    今だ理解の及ばぬところ多数。

    自然の実在感の表出

    苦しさの本源→自我本能、苦しさは責任

    自分本位になること、自他の分離


    ●以下引用

    乾いた苔が水を吸うように学問を受け入れるのがよい頭といえる。

    人の心を知らなければ、物事をやる場合、緻密さがなく粗雑になる。粗雑というのは対象をちっとも見ないで観念的にものをいっているだけということ、つまり対象への細かい心配りがないということだから、緻密さが欠けるのはいっさいのものが欠けることにほかならない。

    理想とか、その内容である真善美は、私には理性の世界のものではなく、ただ実在感としてこの世界と交渉をもつもののように思われる。

    理想はおそろしくひきつける力をもっており、見たことがないのに知っているような気持ちになる。それは、見たことのない母を探し求めている子がが、他の人を見てもこれは違うとすぐ気がつくのに似ている。だから基調になっているのは「なつかしい」という情操だといえよう。これは違うとすぐ気がつくのは理想の目によって見るからよく見えるのである。そして理想の高さが気品の高さになるのである

    数学の最もよい道連れは芸術である

    自然のリズムに合わせればこれくらいの比率でよいのではないだろうか。大自然のやり方は全くぜいたくなもので、非常におびただしい蛙の卵から、わずか一匹の蛙しかできないのだから。

    数学に最も近いのは百姓だといえる。種子をまいて育てるのが仕事で、大きくなるのはむしろ種子の方にある。

    大自然が直接、人の子を教えた時はいつもこのやり方で、まずポテンシャルエナジーをあげ、次に運動エネルギーに変え、、、

    私の今持っている人生観は、私が選んで採用したものではなく、自然にそうさせられて、そうならざるをえなくなって生まれたものなのです

    自己をはこびて万法を修証するを迷とす。万法すすみて自己を修証するはさとりなり。

    諸仏が諸仏であるときは、自分は諸仏であると思ったりはしない

    善行といえば少しも打算をともなわない行為である

    智力に二種類の垢がまとわりついている。外側のものを邪智、または世間智、内側のものを妄智、または分別智といい、これに対して智自身を真智という

    計算も論理もみな妄智なのである。私は真剣になれば計算がどうにか指折りにしか織り数えることができず、論理は念頭に浮かばない。そんなことをするためには意識の流れを一度そこで切らなければならないが、これは決して切ってはならないものである。計算や論理は数学の本体ではないのである

    この垢が取れて行くと、こころは軽々ひろびろとなり、何とも知れずすがすがしくなる。

    この国の人たちの善行であるが、これは大自然からじかに人の真情に刺す純粋直観の力なのである。智力がよく働くのは、度重なる善行によって、情緒が実にきれになているからである

    人の子を育てるのは大自然なのであって、人はその手助けをするにすぎない

    動物性の侵入を食い止めようと思えば、情緒をきれいにするのが何よりも大切で、それには他のこころをよくくむように導き、いろんな美しい話を聞かせ、なつかしさその他の情緒を養い、正義や羞恥のセンスを育てる必要がある

    自我を抑止することによって大自然の無差別智の働くにまかせた

    よい家庭が作りたければ、それこそファイトと忍耐とによって自我本能を抑止し合わなければならない。これを続けていると二人を隔てている自他の別がだんだんとれていく

    自然の存在を、自然科学によって立証することはできない。そうすると初めに立ちもどる他はない。すなわち、自然は、自然はわかるからあると思うのである。

    知ろうとしてはいけない、得ようとしてはいけない

    いずれも、自分のものにしようと思うから、また想像するから、こんなによく関心がもてるのである。

    自他の別がある所で持つ関心を社会的関心ということにしよう。五日間の修行をすると、初めての人でもこの社会的関心が眼に見えて薄くなるのである。店頭の靴を見ても何も思わないし、乗り換えの省線電車が入って来ても、別に乗ろうとは思わない。そうなると大勢の人がつまらないことに眼の色を変えているのが滑稽に見えてくる。

    法の世界を法界という。真我とは法界における一つの法であって、主催者という働きの一面と、不変のものという本質の一面とをもっている。真我が関心を一つの法に集めている時、主催者の一は対象のところにある。

    数学の本質は禅師と同じであって、主体である法(自分)が客体である法(まだ見えない研究対象)に関心を集め続けてやめないのである。そうすると客体の法が次第に姿を表わして来るのである。姿を現してしまえばもはや法界の法ではない。

    まだわからない問題の答、という一点に精神を擬集して、その答えがわかるまでやめないようになることを理想として教えれば良い

    法に精神を統一するためには、当然自分も法になっていなければならない。主宰者の位置は客体の所にあるのだから。そうすると当然<自他の別>を超え、「時空の枠」を超えることになる。そうすると内外二重の窓が開け放たれることになって、「清冷の外気」が室内にはいる。

    人が芸術品について語るさい、まず知解を詳細にのべ、少し情緒に及んで終わるのが普通であるが、実際はその逆の順に起こるのであって、しかし本当にわかるときは常に信解に始まるのである

    この信解だけが純粋に法界の現象であって、私という主体の法が、天上大風という良寛の書という客体の方に関心を集めると、直ちにこの信界という現象が起こって、私はとっさに一切を「親しく会取する」のである。

    法界のみが実相界であって、社会や自然界は仮象界である。真善美妙は法界にしかない。私は真善美は「実在」であるが、妙(宗教)は「必要」だと思っている

    泊まり込みの精神統一の修行をすると、誰でも三日目には庭の木々の色どりや輝きが平素とは全く違ってくることに気づくのである

    西洋の<物質観>に対して、仏教の見方を「非物質観」ということにしよう、真善美妙がわかるのは、一口にいえばもののよさがわかるのである。もののよさがいかにしてわかるかを調べようと思えば、非物質観による他ない

    深い悲しみは、もしすなおにこれを受け入れるならば、非常にその人を深めるものである。

    価値判断が古人と明治以降の私たちとではちがう。古人の価値判断は、種類が多ければおおいほど、どれもますますよい。

    すみれの花を見る時、あれはすみれの花だと見るのは、理性的知的な見方です。むらさき色だと見るのは理性の世界での感覚的な見方です。そしてじっさいにあると見るのは実在感として見る見方です。

    なぜいいなあと感じるのはだれにもわかりません。ですから、すみれの花を情緒と見た場合、この情緒は一つの先見観念です。

    実在感ですが、これは大自然の一つの智力の由来している。

    大自然の理法を悟るという悟りの位があります。無生法忍といわれている。

    情緒の濁りはいけない。情緒は喜怒哀楽によってにごります。

    情緒をできるだけ清くし、美しくし、深くすることです。

    媛然として笑う

    人の心のあたたかさというものは、悦びの光が人の心というものを通してさす

    人に勝ちたいというふうな、そういう衝動的判断、これは修羅道

    創造とは、記憶や類型的判断とは別のものであって、感情、意欲を離れてはない

    独創というのは自由な心の動きである。心は普通、習慣慾情本能などに束縛せられていまっている

    独創のために心境を用意することがどんなに手間のかかることか私たちはよく知らなければならない

    情緒を形に表現するという大自然の力を借りることができる。芸術作品や学術的論文によって表現することも練習るればできる。しかしその力はつにねに借りているのである

    意欲は普通かなり濁っている。

    開花時の激しい情熱がかような情緒の濁りから出るものでないことは、宗教家の場合をみれば明らかであろう。

  • 著者の言う戦後義務教育の弊害を被ったのが自分たちなんだなとしみじみ思う。ふむふむと読みながら感じる、これは奥さんがよほど素晴らしい人だったんだろう。

  • 面白かった。もちろん難しかったが、最後まで読み通せて良かった。しかしむずい。今までだったら絶対途中で断念したはず。前提としている知識がなさ過ぎるのでほぼ素読に近い状態で読むしかなかった。というわけで今後も続けて読んでいくしかないがきっとこの選択はまちがいじゃないはず、いつかきっと何かの役に立つときがあるはずだ。役に立たなくても良いが。何かを感じる時があるはずだ。数学をやって何になるのかと聞かれてスミレはただスミレらしく咲いているだけでいいと思っているという言葉が印象に残った。俺もそう思う。一生懸命に命を燃やして生きていればそれでもう良いのだと思う。嫌われる勇気にもそういうことが書いていたような気がする。60年後の日本が極寒の季節が訪れるというのは大体当たっているではないか?その時重要になるのはやはり教育だ。禿同。もう遅きに失するのかも知れないがここからでも気づいたら立ち上がざるを得ない。

  • 数学

  • 著者のとても純粋で崇高な数学観、日本観を感じる…ことができればと思って挑戦してみました。
    同時代に生きていないとわからないと思う部分もあるが、膨大な時間をかけて追究されたのちに見出された著者の世界を感じることができた。

  • 図書館:昔Zipperで加瀬亮さんが読んでいる、ということで
    前から読んでみたかった岡潔氏の伝記。
    数学者の伝記だけど数学の話よりこころの話が多い。
    真我と小我、純粋な日本人、修羅道、スミレの言葉…。
    いろいろな刺激を受けた。読んでよかったと思う。

  • [ 内容 ]
    人から数学をやって何になるのかと聞かれるが、私について言えば、ただ数学を学ぶ喜びを食べて生きているというだけである…。
    自らの情緒の表現法を「数学」とした著者が人生・情緒・教育について語る。
    「日本のこころ」改題。

    [ 目次 ]


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著者プロフィール

1901年生まれ。三高をへて、京都帝国大学理学部卒業。多変数解析函数の世界的権威者。理学博士。奈良女子大名誉教授。学士院賞・朝日文化賞・文化勲章。仏教・文学にも造詣が深く、『春宵十話』『風蘭』『紫の火花』『月影』『日本民族の危機』などの随想も執筆。晩年は教育に力を注いだ。

「2023年 『岡潔の教育論』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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