プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神 (日経BPクラシックス)

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  • Amazon.co.jp ・本 (531ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784822247911

作品紹介・あらすじ

ウェーバーは100年前、「禁欲」倫理から生まれ落ちた近代資本主義の最終段階に現れる「末人」をこう「預言」した。「精神のない専門家、魂のない享楽的な人間。この無にひとしい人は、自分が人間性のかつてない最高の段階に到達したのだと、自惚れるだろう」-宗教倫理が資本主義を発展させるダイナミズムを描いた名著。

感想・レビュー・書評

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  • ◯ 宗教改革のもたらしたもの、とくにルターの業績のうちで後世に最大の影響をもたらしたものの一つが、世俗の職業生活にこのような道徳的な性格をあたえたことである(150p)

    ◯ 神から目に見える形で祝福を与えられているという意識をもって、営利活動に従事することができたし、そうすべきだったのである。(480p)

    ◯ かつては修道院の小さな房のうちで行われていた禁欲が、現世の職業生活のうちに持ち込まれ、世俗内的な倫理を支配するようになった。(492p)

    ★各所で名著として紹介されている本書だが、私には難しすぎた。カルヴァン派、敬虔派、ルター派など、キリスト教の宗派に関する知識が必要だし、文章も難解だった。

    ★宗教に対する解釈によって、欧米の経済の発展のあり方も大きく変わったのだ、ということだけはわかった笑

  • 「生活が厳しいものとなったのは」競争に負けずに更に冨を増やそうとする人々が、消費するのではなく、利益を増やすことを望んだからであり、昔ながらの生活様式を守ろうとする人々は、節約しなければならなくなったからである。

    自己確信を獲得するための優れた手段として、職業労働に休み無く従事することが教え込まれたのである。

    カルヴァン派>常に、自分が選ばれているか、それとも神に見捨てられているかという二者択一の問いの前に立ちながら、みずからを絶えず吟味しつづけることで、救いを作り出す。

    規律>世俗的な職業労働についての思想においても採用

    「人はどのようにして自己を知りうるだろうか。観察によってではない。おそらく行為によってだろう。汝の義務をなすように努力せよ、そうすれば汝は自分が何者であるかを、すぐに知るだろう。しかし義務とは何だろうか。それは日々の生活が要求する事柄である。」ゲーテ

    「働きたくないものは、食べてはならない」パウロ

    禁欲的なプロテスタンティズム>資本主義の発展

    禁欲的な精神が求めたのは、所有者に苦行を強いることではなく、必要で、実際に有用な物事のために所有物を利用することだった。

    現在では禁欲の精神は、この鋼鉄の「檻」から抜け出してしまった。勝利を手にした資本主義は、かつては禁欲のもたらした機械的な土台の上に安らいでいたものだったが、いまではこの禁欲という支柱を必要としていない。禁欲の跡を継いだのは晴れやかな啓蒙だったが、啓蒙のばら色の雰囲気すら現在では薄れてしまったようである。そして「職業の義務」という思想が、かつての宗教的な信仰の内容の名残を示す幽霊として、私たちの生活のあちこちをさまよっている。
    「職業の遂行」が、もやは文化の最高の精神的な価値と結びつけて考える事が出来なくなっても、そしてある意味ではそれが個人の主観にとって経済的な強制としてしか感じられなくなっても、今日ではだれもその意味を解釈する試みすら放棄してしまっている。営利活動がもっとも自由に解放されている場所であるアメリカ合衆国においても、営利活動は宗教的な意味も倫理的な意味も奪われて、今では純粋な競争の情熱と結びつく傾向がある。ときにはスポーツの性格をおびていることも稀ではないのである。

  • 社会学を専攻されていた皆様はご存知の「プロ倫」が、日経BPで復刊!
    岩○文庫版よりも確実に読みやすくなっていると思います。

    「近代の資本主義の精神を構成する本質的な要素の1つ、そして単にそれだけでなく近代の文化そのものを構成する本質的な要素の一つは、『天職』という観念を土台とした合理的な生活態度であるが、この態度は『キリスト教的な禁欲』から生まれたものだ。」

    と本人が要約しているように、神の恩寵を求め、神に与えられたとされる職業を「天職」とし、神に報いるために、人々は疑うこともなく、合理的に禁欲的に働き、生活する。このプロテスタンティズムが資本主義の精神を作り上げたという仮説をウェーバーは打ち立て、カルヴァニズムやピューリタニズムなど多角的な視点から、禁欲の精神と資本主義の精神の関係を分析する。

    資本主義は、その高度なシステム化のために、「『少数の』プロテスタントから発生した禁欲的精神を土台としている」という事実に立ち返り、根底に存在するはずである人間性の本質を追求する作業を放棄させてしまった。そんな社会の行く末について、ウェーバーは以下の様な痛烈な「予言」を残している。

    「精神のない専門家、魂のない享楽的な人間。この無に等しい人は、自分がかつてない最高の段階に到達したのだと、自惚れるだろう。」

    かつてゲーテも模索した、人間性の本質。
    少なくとも私が生きている間に、この資本主義をベースとした社会が抜本的に変わることはないと思いますが、自分の思想や行動の理由は、常に考え続けてみたいものです。

  • 今、宮城県に来ている。が、現場の話は現場レベルでするのが礼儀だと思うので、これをブログで論じようとは思わない。今日は疲れた。

    行きの飛行機で読んだのが本書。カソリック、ルター派、カルヴィニズムなどの流れから、禁欲的プロテスタントから資本主義的な経済にどのように流れていったのかを極めて明快に論じた本。訳が素晴らしいと思う。禁欲とは倫理的なものなのか、今こそ考え直すよい時期かもしれない。大学生の時、わけ分かんないと思っていたMウェーバーと社会学だが、ようやく近づいた。、、、ような気がする。

  • 再読。やっぱり難解。

    読み終わって気がついたが、本文-注釈-訳注を行きつ戻りつするのが正しい読み方だったようだ。

    中学・高校の授業では単純な「カトリックvsプロテスタント」の図式で理解していればよかった構造が、ここまで細かい差異があるとわかり、宗教対立の根深さの片鱗を見た。

    教祖の解釈と宗派の教義の違い、ドイツ、オランダ、イギリス、アメリカの違い、「人」による魂の救済の是非、他者への態度、修道士としての禁欲生活と日常生活の上での禁欲...

    プロテスタンティズムの倫理が生み出した資本主義の精神は世界を囲う「檻」として完成してしまった。日曜日を残念に思い、労働ができる月曜日を待ち遠しく感じる一握りの「異常者」は、今や世界の0.1%として残り99.9%を搾取する「勝ち組」となった。

    現世のため、社会のためにときに勤勉に働き、ときに余暇を楽しむ人間的な生活を、終わることのない競争とマウンティングだらけのグローバル資本主義世界に叩き落とした原因をつくったプロテスタンティズム=キリスト教原理主義。本当に迷惑な存在だ。

  • 以前岩波文庫の難解な翻訳で挫折したため、日経BP版で再読。

    冒頭第一節には、
    「カトリックの支配というのは極めて穏やかで形式的な支配であったのだが、プロテスタンティズムの支配は家庭内の私的な支配から、職業的な公的な生のすべての領域にいたるまで、考えられるかぎりで最も広い範囲にわたってしんとの生活のすべてを規制するものであり、限りなく厄介で真剣な規律を伴うものだった」
    とある。

    宗教改革に対しては、カトリックの専制的な支配からの脱却といった間違ったイメージをもっていたため、この一文については衝撃を受けた。
    宗教改革者は、カトリックの市民に対する支配が不十分であるとし、後のピューリタン的圧制につながったという。

    本書の読みどころは、原罪からの救済のみを追求し、現世利益に対して関心の薄かった市民達が、利潤を追求する躍動につながることになったかという点である。

    カトリックとプロテスタントの最大の違いは「予定説」であろう。

    カトリックにおいては、神への奉仕によって原罪からの解放という「救済」があったが、プロテスタントにおいては「救済される人間はあらかじめ決められている」というものだ。

    人々は自分が救済されるかどうかを知り得ないため、不安に駆られる。
    救われた人間として自己確信を得るために、職業労働に休み無く従事することによって、宗教的疑惑を振り払い、自己確信を得ようとすると解説している。

    1)「神の恩寵」を確証しようとする内面的な思考の原動力が現在に向けられるようになった。

    2)身分と職業が神の意思の直接的な表れとして「天職」という考え方が広まった。

    この「神の恩寵を得るための現世重視」と「天職という専門職業の重視」という2つの面から「功利主義」が生まれた。
    専門的な職業について労働する者のスキルを高めることができたため、労働の生産性を質量共に改善させる方向に動かす考え方が出てきたのだ。

    また、「ヨブ記」に書かれた「神が現世においてもその民を物質的な面においても祝福されるのは確実」という箇所が重用視されるようになったのも、功利主義を後押しすることにつながったとも解説している。

    ヨーロッパの宗教改革を契機として、労働と現世利益に対する思想的変化を解説しているものの、具体的に資本主義成立へは明言を避けている印象ではあった。

    ルターとカルヴァンをセットで宗教改革と認識していたが、本書の解説を読むことで全く別の思想であることがわかった。

    また、イギリスにおいては、旧約聖書の道徳と同様の特徴から「イギリスのヘブライズム」とも呼ばれたというのも興味深かったし、ピューリタンとは、ユダヤ教の数世紀にわたって成立したタルムドールと符合する面が多く、形式主義的で立法的な側面があるというのも、目からウロコの読書体験であった。

    まだまだ本書についての理解度が低いと自認しているので、「ヨブ記」や宗教改革時代の関連本を読んでみようとは思う。

  • 近代資本主義を支える心理的原動力となったものは何だったのか?その答えの一つとしてヴェーバーはプロテスタンティズムの禁欲的精神があったと考えた。禁欲とは修行僧にみられるような絶食・座禅といった修行ではなく目的のために他の欲望を一切拝するというものである。そういった精神はルターの提示した天職義務の教義と融合しつつ発展していき、こうしたカルヴァニズムが社会に浸透していった結果、意図せずして産業経営合理的な資本主義を発展させることになった。非常に逆説的ではあるが、近代資本主義というのは、マモニズムへの嫌悪、すなわち、金儲けすることを目的とした重商主義的精神からは決して生まれる事はなかったのだと、そう彼は主張しているのである。しかし、本来神の救済を求め、隣人愛を実践した結果として裕福になっていったが、次第にそれらを支えてきた精神・形式そのものが形骸化していった。と同時に資本主義というシステムそのものは残ったままである。もはやこのシステムが強制的に我々に天職たらざるをえない状況を作り出しているのである。本来であれば天職的労働者たらんとしていた者が天職たらざるをえなくなったのだ。
    生活世界とシステムの相互補完的な関係は、現在においてはシステム側の避けがたい強力な力によって支配されているといっても過言ではない。バランスをとるためには、どういったことが望ましいのか答えはまだ闇の中ではあるが、いつかは考えなくてはならない急務である。

  • 昔、岩波文庫で読もうとして、あまりに難しさ(?)にまいって、ざっと斜め読みすることになったが、資本主義ってなんだろうと改めて考えるにあたって、再チャレンジ。

    中山元さんの訳文は、圧倒的に読みやすくて、なんかやっと議論についていくことができる感じがした。

    一方、この本の面倒さ、読みにくさの一つは、本文以上に膨大な注釈の存在で、これを読もうとするともともとの議論の流れがわかりにくくなることから来ている。それはもともと原著がそうなっているので、仕方がないのだが、この本をしっかり理解するためには、まずは本文を通読して、次に注も読みながら、再読、再再読する必要がある気がした。

    また、キリスト教に詳しくない私にとっては、カトリックとプロテスタントの違いもあまりわかっていないところで、プロテスタントのなかのルター主義、カルバン主義、ピューリタンなどの関係もわからないし、さらにその下の宗派の違いになると頭がボーとしてくるというのも難しさの要因である。

    まあ、要するにマルクス的な経済というか、生産様式として下部構造が社会の仕組みや文化などの上部構造を規定するというアイディアへのアンチテーゼとして、宗教の違いが経済に影響を与えるという話しです。

    でもそんなことは、この本を読む必要もなく、資本主義に関する本を読めば、どこにでも書いてあること。

    この本を実際に読んでみると、ウェーバーの議論は、単純に、マルクスの図式をひっくり返すというものではなく、わりと複雑である、という印象をうけた。

    この複雑性に付き合って、なんだかよくわからないと行きつ戻りつすることに、この本を読む意味があるのかなと思った。

  •  過去に何度か挫折したが、今回やっと全てを読み通すことができた。資本主義社会を知るために、『資本論』と並行して本書を読み進めたが、高校世界史、倫理に記載されないキリスト教の宗派が次々と登場し、途中で投げ出したくなったが、そこは耐え忍んだ。とはいえ最後まで読み通せたものの、全体的に理解できたかいうと正直自信はない。ただし、自分にはあまり馴染みのない「宗教」という概念が、他国では社会全体、個人を根本的に変化させるほどの力があることが伝わってきた。キリスト教圏と日本で、仕事、職業の向き合い方が根本的に異なることがわかってきた。今後もおそらく読み返すだろうが、次に読むときには、キリスト教の歴史を詳細に知ったうえで、この本に向き合いたいと思う。

  • 図書館で借りた。
    100年前の名著。よくクイズの答えになったりして印象に残っていたタイトル。
    ざっくりした内容としては、資本主義とプロテスタントって相性良いけどそれはなぜか、っていう分析。
    さすがに小難しい文体が並ぶ。私は自分なりに脳内変換しながらさくっと読んでみた。

    著者のマックス・ヴェーバーもプロテスタントで資産家出身。なので少し"俺つえー"を感じた。
    ここ最近も社会学者がメディアで派手にコメントしている印象があるが、100年前も変わらないのかな、なんて思ったりした。

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著者プロフィール

1864-1920年。西洋近代について考察したドイツの法学者・経済学者・社会学者。代表作は、本書に収められた講演(1919年公刊)のほか、『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』(1920年)など。

「2018年 『仕事としての学問 仕事としての政治』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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