精神分析に別れを告げよう: フロイト帝国の衰退と没落

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  • Amazon.co.jp ・本 (245ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784826502283

感想・レビュー・書評

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  • アインゼクがフロイト批判をかき集めて、勢い余って「マッソンは正しいようです」としているのが可笑しい。ここで"The Assault on Truth"のジェフリー・マッソンが正しいとするのは同時に『心的外傷と回復』のジュディス・ハーマンを支持していることなので、矢幡洋(『危ない精神分析』『危ないPTSD』)や橘玲(『「読まなくてもいい本」の読書案内』)が「記憶戦争」でのハーマンを批判しながら権威付けにアイゼンクの名前を出しているのは滑稽。矢幡洋も橘玲『精神分析に別れを告げよう』を読んだことがないならアイゼンクの名前を出さなければぼろが出なかったのに。

    p.12
    「 おなじ議論が最近の出版物にもあてはまっています。その出版物は、フロイトが彼の理論を意図的に変更したことを示唆しています。つまり、理論が誤っていたからでなく、そのほうが敵意を呼び起こすかもしれないからというものです。これが『フロイト:真理への暴挙』と題するマッソンの本の力点となっています。マッソンはフロイトの遺稿を手にし、フロイトのフリースとの文通を根拠に、子どもの性的いたずら(ママ)の証拠をフロイトは知っていたが意図的に隠し、彼の臨床的資料と彼の証人としての患者をわざと変造し、そのかわりに外傷的「性的空想」とエディプス衝動の観念を発明したとマッソンは論じています。マッソンによれば、「世界中の精神分析と精神医学の現在の不毛状態に根をはっている……現実の世界から遠ざかる傾向は」フロイトがこのようにして最初にはじめたとのことです。
     マッソンは正しいようです。しかし正しいということを証明する証拠が余りありません。しかしともかく、フロイトの動機は彼の理論の真理と偽りとにあまり関係していませんでした。彼の初期の「性的誘惑」理論も、後期の「空想」理論と比べて少しも正しくありません。いずれの理論も、知られている事実や経験的な研究および実験によって判定されるべきであり、フロイト側のかんぐり好きな動機づけによって判定されてはなりません。」
    この訳書の上の箇所で「性的いたずら」となっているのは「性的虐待」。


    『背信の科学者たち』でアイゼンクの友人シリル・バートの研究不正が取り上げられていたので、アイゼンクの研究不正も出るかもとは思っていたが、実際に近年アイゼンクの研究不正が話題になったら驚いた。アイゼンクが研究不正をしたからといってフロイトが正しくなるわけではないのだが、アイゼンクの名前を出したら自動的に科学の側にいることになるとは思うべきではない。

    余談だがこの訳書の初版第1刷ではポパーの「偽造可能性」というびっくり訳語が使われていた。これはさすがに初版の第何刷かで「反証可能性」に訂正された。

  • 著者の執筆動機は,①精神分析によって苦痛を受け悪化する患者を看過できない,②非科学的な精神分析によって立ち遅れた心理学を建て直さなければならないという信念だそう。科学も宗教的な側面があるけども「説を客観的に理解する」という性質は,本来は宗教にないものだ。コロナ禍の今,科学性の重要性は多くの人が気づいたと思う。臨床心理学の一部の非科学的専門家によって非科学的臨床家が再生産されることは「百害あって一利なし」だし,それによってまともな臨床家が食っていけない社会が今後も続くことを意味するだろう。



    *****
    フロイトが思いつきに思いつきを重ねるばかりで,いかなる科学的証明も試みなかったことは,当初から明らかだったはずです。それなのに,フロイトを「洞察」という著しく価値のある概念に寄与した大人物と信じ込んでしまった心理学者や精神科医の迷いを解くのにごく最近までかかりました。その間に,精神分析の犠牲となったひとたちのことを思うと,それはそれは悲しい物語です。神経症や精神病という重い病気にかかった数多くの患者さんたちが,治してもらえるというはかない夢を追って,時間とエネルギーと金を費やし,そのあげく現実に得たものがあったとしたらそれは精神分析を受けたことによる悪化でした。(p.1-2, 日本語版への序)

    学問的にはフロイトも精神分析も否定されましたが,治療技法としては今なおぐずぐずと生き残っております。したがって,今,精神病をわずらっているひとびとに精神分析が救いの道ではないことを明らかにするときがきたと確信するものです。(p.2, 日本語版への序)

    似非科学としか呼びようのない,何の事実にも根ざしていない大宣伝によって,ひとびとがいかに簡単に惑わされてしまうものか,こうして作られた幻想がいかに長くつづくものかを書きました。フロイトは心理学と精神医学の進歩を五〇年いやそれ以上遅らせました。(p.2, 日本語版への序)

    この[精神分析という]テーマで書かれている本のほとんどは,精神分析家によるものであり,あるいは少なくともフロイト運動の陣営のひとによるものであり,したがって無批判であり,他の理論に無頓着であり,精神分析のおかれている現在の位置を客観的に検討するというより,宣伝戦の武器として書かれています。(p.6)


    科学の立場からすると,私たちは批判力を科学のために生かすべきであり,拒否や否定を恐れてはならない。科学を宗教や哲学とおなじく人間の知的活動の一分野と宣言し,同等の価値があるとみなし,したがって科学は他の二つに干渉してはならないし,三者は真理に対し同等の主張をそれぞれ持っているとみなし,どのような確信を持とうが,信念を持とうが自由であるという考えは認められない。そのような考え方を認めるひとのほうが,はるかに尊敬でき,寛容であり,心が広く,狭い偏見から自由であると思われるものである。しかし,残念ながらそのような考え方は,まったく非科学的世界観Weltanshauungに基づくものであり,有害であり,いいかげんであり,したがって実践においても似たようなものになる。真理は寛容ではなく,妥協や制限を認めず,科学的研究は人間の活動の全分野を対象としており,この分野のどんな一部分であれ奪おうとする力に対しては非妥協的批判的態度で臨まなければいけない。これは明白な事実である。[フロイトの主張(引用元不明)]

     以上の意見に私も賛成するしかありません。この意見は,フロイトの書いたほかの多くの文章でもそうですが,彼が伝統的な感覚で科学者になろうとしていたことを示しています。彼の後継者たちが今日科学の重要性をないがしろにしたがり,彼を哲学と宗教の間のどこかに位置づけようとすることは,彼に対してはよけいなお世話となるでしょう。…フロイトは後継者たちの試みを彼の科学者としての地位を否定するものとみなすでしょうし,彼を解釈学の袋小路に追いやる裏切りとみなすでしょう。(pp.8-9)


    訳者のうち精神分析を実際に行っている三人には本書はじつは不愉快なしろものだったようです。しかし,精神分析を本気で発展させる気概を持っているならば,本書のような批判を知っておく必要もあるのではないでしょうか。(p.244, 宮内による訳者あとがき)

  • 心理学にてフロイトを教わりましたが難しく、自分で勝手に解釈していた部分が多々ありました。
    この本ではフロイトの理論をちょっとかじっていた人には比較的分かりやすいと思います。フロイト自身の背景も含めると、こういうコトだったのか!と、理解が深まり、かつフロイト理論の矛盾に色々考えさせられる面白い本でした。
    でもやっぱり難しいの分野なので、読み進めるのは根気がいりました。

  • 請求記号 146.1/Ey
    学生のときにフロイトを知ってガツンと衝撃を受けていたので、このほんのつい最近読んだ本書(原著の出版は学生になる前だったとは...)を読んで、さらにガツンと食らわされました。

    言われてみればその通り。
    精神分析の理論は科学的批判に耐えうるものなのか、療法として確かに有効なものか、という疑問。

    人のココロの不思議さとかトラウマと性格の因果性などを理由にすっかり魅了されていた私には、そんな批判精神が生じるはずもなく...。思えばイドとかエゴとか超自我とか、そういう言葉がかっこよかったもんなー。

    この批判を受けて、精神分析は科学ではないとか、解釈なのだとか、精神分析界では既にフロイトの理論自身はほぼ否定されているよとか、そういった屋台骨すら否定する身も蓋もないことを言って反論するのもどうかな、と思う。

    理論のこまかいところはまあ置いておくとしても、療法としてうたうからにはその客観的な有効性を示さねばならない。そりゃそうだ。
    これじゃただの民間療法です。

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