神経質の本態と療法: 森田療法を理解する必読の原典

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  • 白揚社
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  • Amazon.co.jp ・本 (279ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784826971362

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  • 以下引用。

     神経質患者がつねにその症状を家人に訴えるのは、自己の苦痛を周囲の人に理解させ、同情を求めて、いたわってもうらうためであって、そのために患者は、かえってその苦痛を増悪させるものである。そうしてその訴えるところが詳細になるにしたがって、注意はますますそちらに執着して、人々はみな愉快そうにしているのに自分一人苦しいというふうに、自己と他人との差別を大きくして、城郭を構え、いよいよその自己中心的な感情に閉じ込められ、事実に対する正しい判断を失うようになるのである。(中略)神経質が、人が自分を理解してくれないとかこち恨むのは、たんに人に知られて都合のよいことばかりであって、少しでも自分に都合の悪いことは、けっして人に理解してもらってはいけないのである。(p.102~103)

     そのため私がいう思想の矛盾を打破するということは、寒さは当然それを寒いと漢字、苦痛、恐怖は当然それを苦痛、恐怖し、煩悶はすなわちそのまま当然それを煩悶すべきなのである。(中略)なおここで注意すべきことは、この心の態度も、患者がこうなりたいとする目的もしくはこうなればよいという結果の状態であって、こうなるはずの手段もしくは条件は、またそれを別のことである。すなわちもし患者が自ら直接に、読んで字もごとく、どうすれば自分が自然に服従することができるかと工夫し、あるいは自らそういう態度になろうと努力すれば、それはすでに自然ではない。何となれば、工夫、努力はすでに自己を第三者として客観的に取り扱おうとするものであって、自己そのものではないからである。(p.110~111)

     どこに自分の胃があるかということに気づかず、食欲にしたがって食う、それが胃の健康であって、そのままの主観である・胃部の不快もしくは爽快を訴えるのは、すでに異常である。自己を観察批判して、健康だとか以上だとかいうのはすでに客観的であって、自己を第三者として、外界に投影して観察した結果である。われわれが自ら少しも批判しないで、自分の頭の存在を確認している、それが主観である。(p.113)

     けれどもここで注意すべきことは、神経質の個々の症状については、その症状が成立した以上、すでに注意の執着となっているものであるから、注意をそちらに集中させる方がむしろ自然であって、意識末梢性の理にも合うことである。すわなちその症状は、現在の患者の状態では当然それに執着し、苦痛し、恐怖せざるを得ないものであるから、患者が自らいたずらにそれを否定し排除しようとする努力は不自然であり、いたずらに自己観察に耽り、いわゆる思想の矛盾にとらわれて、注意の対象と自己批判との間で精神葛藤を起こすようになるのである。したがって症状に対しては、当然患者の注意をそこに集注させ、純一に苦痛させるのがよい。そうしているとその注意は、いつしか無意識的注意の状態となって、自らその苦痛を感じないようになるのである。(p.118)

     およそ神経質の症状は、注意がその方にのみ執着することによって起こるものであるから、その療法は患者の精神の自然発動を促し、それによりその活動を外界に向かわせ、限局性の注意失調を去らせて、結局それをこの無所住心の境涯に導くことにあるのである。これが、私の神経質に対する特殊療法の発足点である。(p.122)

     第一、感情はこれをそのままに放任し、もしくはその自然発動のままに従えば、その経過は山形の曲線をなし、一昇り一降りして、ついには消失するものである。(o.122)

  • 「全てを受け入れる」ということが大事なようです。

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