国難の日本史

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  • Amazon.co.jp ・本 (292ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784828418131

作品紹介・あらすじ

戦後70年!日本人の名誉を回復する新しい「国史」講座!!仕掛けられた「歴史戦」に勝つために読んでおきたいみんなの日本の歴史。

感想・レビュー・書評

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  • さまざまな国難から、日本の国は立ち上がってきました。
    しかし、今もまさに国難の時代であるとも言えます。
    温故知新、歴史から学ぶべきことはたくさんあります。
    私たちの祖先がどのようにして国難を乗り越えてきたかを学び、そこから私たちがどうすべきかを考える時でしょう。
    本書の最後の一文は、まったくその通りだと思います。

    「行き過ぎたお人好しは、決して褒められることではなくて、むしろ悪徳となり、世の中に害をなすということを、日本人は今、学ばなければならないのではないでしょうか。自戒の意味を込めてそう申し上げたいと私は思っています。国際社会が日本のように、誠実で信義を守ることに価値をおく、日本標準の世界になるようなことは当分ないでしょう。それでも、日本が希望の国であることは、心ある外国人の間にも、ますます知られるようになりつつあると私は感じています。」

    行き過ぎたお人好しは悪徳、全くその通りです。

  • 日本の歴史について本を読むにあたって、今まで機会の少なかった古代や中世についても面白味がありますが、それ以上に興味を持てるのが、幕末から太平洋戦争に至るまでの近代史です。

    そんな私にとって、日本人が将来を憂えて国難に立ち向かった、とされる幕末から昭和にかけての歴史を通して解説してくれているこの本は大変読みごたえがありました。

    中でも、明治初期の改革の一つである、廃藩置県の意義を、武士をリストラした、と解説されている点には印象に残りました。学校の授業では、その様な教え方はしませんからね。

    以下は気になったポイントです。

    ・朝日新聞が認めたのは以下の三点、1)慰安婦を強制連行した証言を虚偽と判断、記事を取り消した、2)女子勤労挺身隊と慰安婦を同一視した記事の誤りを認めた、3)軍が組織的に連行した資料はみつかっていない、(p4)

    ・稲作の起源は、1979年の佐賀県の菜畑遺跡により、通説が覆り、2000年(通説)よりさらに500年ほど遡ることが判明、つまり、揚子江起源のものが直接伝わり、日本から朝鮮へ伝わった(p29)

    ・韓国で見つかった土器には黒曜石(最も近い生産地が隠岐の島)が含まれており、縄文土器は日本から伝わった(p32)

    ・空から見た日本、高度1万メートルから見ると、一面みどり、高度千メートルから見ると、水田、高度百メートルになると、町工場が見える(p41)

    ・記紀によれば、女性から男性に声をかけて生まれた子は「蛭子」という、骨のない未熟児であった。天上の神様に相談して、「男性から声をかけるように」と助言した。イザナキがイザナミに声をかけたところ、八つの島が生まれた(p45)

    ・生まれた順序は、淡路島、四国、隠岐の島、九州、壱岐、対馬、佐渡島、そして最後が、秋津洲(本州)である(p46)

    ・初夢の三大話に、「雲太、和二、京三」がある、出雲大社(出雲太郎)、奈良の大仏殿(大和二郎)、京都御所の大極殿(京三郎)(p47)

    ・日本では、1467-77まで続いた応仁の乱が、一番規模の大きい戦争であった、それも京都をめぐる範囲内である(p52)

    ・貴族の食事として挙げられているのは、お祝い事のときの食事(ハレの日のお祭りの食事)、食事の回数も庶民と同じ2回(p65)

    ・19世紀まで朝貢を続けていた国として、朝鮮・琉球・ベトナム・タイ、がある(p69)

    ・1268年の日本へ送ってきた国書に書かれていた、蒙というのは、「バカ」という意味、それに気づいたので数年後の1271年に「元」という国名に変えた(p95)

    ・10万人もの兵士は何を食べていたか、それは移動中の住民を食べていた。中国に古代から現代に至るまで「人肉色」という習慣があった(p100)

    ・イギリスがインドを支配していた時、インドの綿織物産業を潰すために、腕のいいインド職人の腕を切り落とした(p105)

    ・鎌倉幕府が任命した、守護・地頭は、全国的に広がったわけではない。朝廷も荘園を持っているし、寺社勢力も協力、すなわち、1)武士層、2)朝廷、3)寺社、という3つの勢力が鼎立していた(p123)

    ・歌舞伎は庶民が観るもので、武士は観てはいけないとされていた、武士が観るのは能楽(p130)

    ・秀吉が激怒したのは、1)なぜ領民を強引に改宗させるのか、2)なぜ神社仏閣を破壊するのか、3)なぜ牛馬の肉を食べるのか、4)ポルトガル人は多くの日本人を奴隷として買って連れ帰るのか、について満足な回答を得られなかったから(p138)

    ・1596年、スペイン船が難破してときの船長が、「まず宣教師を送り込んでキリスト教を広める、抵抗感をやわらげておいて、軍隊が入って服属させる」という戦略を聞いた(p139)

    ・江戸時代を通じて、百姓一揆でほとんど武器が使われなかったのは、武器がなかったからではなく、一揆側も武器の使用を封印するルールを守ったから(p143)

    ・歴史上の刀狩は3回あった、1回目が秀吉によるもの、二回目は明治維新の廃刀令(じつは帯刀禁止令)、三回目はGHQ占領下における「武器引き渡し令」、三百万本が没収されたが、現在でも245万本出回っている(p145)

    ・武士は統治を担う身分として、苗字・帯刀などの名誉をもつとともに、治安を維持する義務を負い、政治にかかわった(p145)

    ・江戸時代に実際に行われていた身分制度は、武士と百姓、町民の三つの身分を区別するものであった。士農工商という区分は、中国の古い書物の言い方に過ぎない、百姓とは、「百の姓」なので、すべてを含んでいる(p146)

    ・年貢のとられ方は五公五民とされてきた、農民が人口全体の8割、すると農民には生産高の5割が残る。武士が農民の4倍も食べれるわけがない(p149)

    ・年貢が高くなった理由は、検地は江戸時代の初めに行われたが後期には行われなかった、生産性が上がっても年貢の額はそのまま、対象は田んぼ、畑、屋敷だけであり、船や工場は対象外で無税。新田開発したものは対象外、農業生産技術の向上も計算外(p150)

    ・1871年の廃藩置県は、武士を解雇したのがポイント、社会そのもの、武士の存在そのものを大きく変えた(p162)

    ・大政奉還は、徳川幕府側の事態乗り切り策として出てきたが、明治天皇の名により「天皇親政」が宣言=王政復古の大号令、をだした(p173)

    ・昭和天皇は、昭和21年の詔書で強調したかったのは、人間宣言よりも、五箇条の御誓文、であった(p178)

    ・民の声を聞き、民の幸せを祈り、民の心を自分の心として国民の幸せを願う、それが「シラス」の意味である。それが、大日本国憲法の第一条(ドラフト)には「万世一系の天皇が日本をシラス」と書いてある。それが、最終案では「統治する」となった。英語訳ができないという意見のため(p199)

    ・第三条の、「天皇は神聖にして侵すべからず」は、「天皇は神聖にして侵すべからざる存在だから、責任を問わない」=決済するのみで決定権(権限)はない、ということ(p200)

    ・戦争中も、天皇は専制君主のように自らの意思で政治を行うのではなく、意思に反してでも、内閣の決定には最終的に裁可を与える、立憲君主の立場にあった(p239)

    ・ペリー来航に日本が驚いたのは、ペリーの船に積んであった「爆裂弾直射砲=ボンベカノン」であった(p263)

    2015年6月8日作成

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著者プロフィール

1943(昭和18)年、北海道生まれ。教育研究者。北海道大学教育学部卒業、同大大学院教育学研究科博士課程単位取得。東京大学教育学部教授、拓殖大学教授などを歴任。教育学(教育内容・教育方法)専攻。95年、教室からの歴史教育の改革をめざし「自由主義史観研究会」を組織。97年、「新しい歴史教科書をつくる会」の創立に参加。現在、副会長。
著書に『教科書採択の真相』(PHP新書)、『国難の日本史』(ビジネス社)、共著に『「ザ・レイプ・オブ・南京」の研究』(祥伝社)、『教科書が教えない歴史』(産経新聞ニュースサービス)ほか多数。

「2020年 『教科書抹殺』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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