- Amazon.co.jp ・本 (247ページ)
- / ISBN・EAN: 9784831509765
感想・レビュー・書評
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九鬼周造の思想全般を、サブタイトルになっている「偶然」と「自然」という二つのキーワードで整理している。
九鬼は、自己の本質を「寂しさ」という感情において把握する。私たちは、自己の内の空虚さを満たしてくれる異性との合一を夢見るも、完全な合一にはけっして至らない。九鬼の『「いき」の構造』は、けっして一つになることのない男女の緊張関係の上に「いき」という美意識が成立することを説く。彼は、そうした無常な男女関係を「あだっぽい、軽やかな微笑」によって肯定する。
そうした彼の実存理解は、彼の主著である『偶然性の問題』の中で形而上学的な深まりを与えられた。たがいに寂しさを抱えた自己と他者とがめぐり会う場面を、九鬼は「独立なる二元」の邂逅と呼んでいる。そこでは、独立した二元が緊張関係を維持しつづけ、けっして一元化されることはない。そのことが、一つ一つの出会いをいつくしむような人間関係を育むのである。
日本の近代の哲学者は、西洋近代の独我論的な立場を批判するあまり、自他の緊張関係に目を塞いでしまうことが多いと著者は述べる。和辻哲郎の「間柄」の倫理も、そうした傾向を脱していない。そうした中で、九鬼が提示した自他関係をめぐる思想に積極的な意義が見いだせると著者は考えている。
だが、晩年の九鬼は、自他の緊張関係を希薄にする方向へと進んだと著者は見ている。九鬼の論文「日本的性格」で語られる「自然」は、西洋のnatureではない。日本には伝統的に、宇宙を「おのづから」成るものと見る傾向があり、人智の「さかしら」を捨てて自然に随順する態度が見られる。晩年の九鬼の思想においては、「いき」に見られる自他の緊張関係が弛緩し、伝統的な「自然」の内に溶解してしまうおそれがあると著者は指摘する。
とはいえ、それは「自然」との単純な一体化ではなかった。むしろ、けっして一体となることのない他者へと手を差し伸べるときに、自己の有限性が自覚され、同時に自己が万物に通底する情緒に浸される。このときの感情が「もののあはれ」である。晩年の九鬼は、直接的な合一への断念から生じる情緒の内に、「いき」とはべつの形の〈倫理〉を見いだそうと努力していたのである。詳細をみるコメント0件をすべて表示