本能寺の変 四二七年目の真実

著者 :
  • プレジデント社
3.85
  • (16)
  • (21)
  • (21)
  • (2)
  • (0)
本棚登録 : 158
レビュー : 26
  • Amazon.co.jp ・本 (282ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784833419062

感想・レビュー・書評

並び替え
表示形式
表示件数
  • 少し前に、同じシリーズの最新本を読んだので、少し退屈した。この著者の方の話は、筋道が通っていて、説得力があるんだなー。思わず、うんうん、なるほどと思ってしまう。

    でも、最新本と違って、あれ?ここ人の気持ちを強引に読み過ぎじゃない?という点は少しあった。しかしなぜか、最新本より読みやすく、後ろの年表は理解しやすかった。

  • メインとなるアイディアは、なるほどと思えるもので、本件に関するいろいろな仮説の中では、好感が持てる仮説でした。歴史に関する仮説は、自然科学のそれと違って検証が難しいと思いますが、今回の仮説も、好感は持てるものの検証する、立証するという面では、かなりの困難さを感じました。真実はこれと決めきれないおかげで、諸説が入り乱れて面白いのかもしれませんが、この手の本を読むとすっきりしない読後感が残ります。現在、周知されているお話が、事件から随分後に当時の権力者の都合により、創作されたものであることは改めてよく認識できました。

  • (2014-09-18L)(2014-11-15L)(2015-01-10L)面白かったけれど、人名がなかなか把握できなくて…。時間かかったなぁ。

  • 明智光秀の子孫が検証した本能寺の変。
    巻末の参考文献の数、本文中の文献の引用の多さからいって、非常に緻密に史料を検討された上で書かれた本だと思う。
    しかし「違いありません」「〜ではないでしょうか」という文言があまりにも多く話の信憑性に水をさしているように感じる。
    まず通説を明示した上で一つずつトピックスを絞り、「客観的にみて矛盾すること・その裏付け」「そこから類推できること」を分けて記述し、後者をいっそ小説のように仕立てたほうが良かったのではないだろうか。
    人の目を引く文章ではなくなるかもしれないが、より信頼できると思わせる文章になると思う。

    内容としては、一本筋が通り納得のいく説となっている。
    曰く、光秀の謀反は単独でなされたものではなく家康らとの謀略あってのことで成功の確証があった。秀吉が光秀の謀反を利用し天下を取った、と。
    しかしやはり通説・史料・通説への反論・類推できる事実・そこから考えられる関係各人の思惑が渾然一体と記載されているため、頭の中でそれらを分類しながら内容の整合性を検証する必要があり読みにくかった。

  • 明智光秀の子孫という方が書いた本能寺の変。
    一瞬トンデモ系か?と思わなくもない組み合わせであるが、中身は歴史研究に沿った正当派だった。
    朝廷陰謀説やイエズス会暗殺説といった最近はやりの謀略モノではなく、地味ではあるが当時の光秀をはじめとした武士のアイデンティティを中心に、歴史的書物に書かれた客観的な記述と絡ませながら真実を探っていくスタイルである。

    「氏の長者」というものの責任、それと信長はすでに封建領主としての視点ではなく中央集権国家の専制君主の視点で織田家の戦略を考えていたと思われるところから発する、地方方面軍司令官として扱いと封建領主という自己認識の齟齬。この辺りを光秀の決起の理由としているが、なにぶん本能寺の変を起こした後の度重なる想定外の連続、そして鳶に油揚げを攫われた山崎の合戦の始末と、本能寺の変を起こすまでの検証は説得力もあるのに、起こした後の始末がなにゆえあそこまで思うように進まなかったのか?という事後処理の検証が甘いような気がする。

    あえて、明智氏の子孫を語った上での導入部といい、この事後処理の検証の甘さといいご先祖様のやむにやまれぬ決起の理由を述べたかったのかなぁ?と下衆な勘ぐりをしてしまいたくなるような終わり方であった。

    ですが、本能寺の変までの検証はけして突飛なものではなく、さもありなんと思わせる面白さがあります。

  • 歴史の大事件について興味を持っている私にとっては待ちに待った本でした。本能寺の変は、明智光秀の謀反ということで高校の授業で習ってきましたが、何か納得できないものがありました。

    これまでに多くの歴史学者によって本能寺の変が語られてきましたが、そのような中で、明智光秀の血を引く方が書かれた本ということで、今までにはない気持ちで興味を持って読むことができました。

    著者の明智氏は多くの苦労をされており、渾身の著作だったと思います。彼はまだ研究を続けていると思いますので、是非、続編を書いてほしいですね。

    以下は気になったポイントです。

    ・「敵は本能寺にあり」と号令した云々は、本能寺の変から数十年以上たった江戸時代に書かれた軍記物と呼ばれる全くの創作物である(p17)

    ・「時は今あめが下なる五月かな」という写本が残っているが、これに基づくと、「今は五月、雨が降りしきる五月である」という意味となる(p20)

    ・問題となった連歌は、当時の天気の記録から、5月28日ではなく、5月24日となる(p25)

    ・秀吉が指示して書かれた「惟任退治記」には、信長を崇め奉る記述が一切ないというのが特徴(p30)

    ・光秀は義昭・信長二重政権の義昭方の行政官として共同執務を行い、かつ幕府奉公衆であった証拠があるにもかかわらず、歴史研究では無視されている(p49)

    ・解明された事実によると、光秀は、最初は細川藤孝(1565年まで)に仕えた後に、足利義昭に1571年まで、その後に信長に仕えている、通説では、1560年までは諸国放浪、後に朝倉義景(1566年)に仕えた後に、信長に仕えたことになっている(p53)

    ・1576の石山本願寺攻めでは、光秀は天王寺城に逃げ込んで包囲された、それを知った信長は自ら出馬して救出した、1579年の丹後・丹波平定では光秀に感状を与えてまでいる(p55)

    ・信長が秀吉のもとへ光秀を派遣したのは、信頼している光秀に妥当性を確認させようとしたためと考えられる(p58)

    ・光秀家臣団には、他にはない大きな特徴として、多くが「倒産会社の社員=信長に敗れて光秀に組み入れられた」であった(p76)

    ・第一次構造改革(1580)では、譜代の家臣(佐久間信盛、林通勝、丹羽右近等)が追放、第二次改革では、実力派から織田家直轄(信忠、信雄、信孝)への再編であった(p81)

    ・1582年に武田勝頼を天目山で滅ぼしてから、信長にとって家康との同盟の価値はなくなった、逆に障害となった(p90)

    ・このままでは土岐明智氏は滅亡するという危機感が、光秀が謀反を考えるに至った最大の原因と考えられる(p117)

    ・信忠が上洛するという情報を光秀は掴めなかったので、光秀は同時に信長と信忠を攻めることはできなかった、信忠の存在は二条城に立て籠もるまで不明であった(p134)

    ・有名な言葉である「是非に及ばず」とは、「是か非か確かめる必要なし」という意味である、「仕方が無い、あきらめ」ではない(p135)

    ・今まで国内になかった2つの情報(安土城での二人の諍い、信長の最後の言葉)は、イエズス会関係の記録にだけは残っている(p145)

    ・関が原の戦いで秀忠が遅れたのも、わざと徳川本隊を遅らせて、力を温存させたという考えたかたもある(p151)

    ・本能寺の変後に、家康は直ちに、甲斐・信濃への進攻を開始したが、この織田家への敵対行為はだれからも責められなかった(p170)

    ・清洲会議では、信雄が尾張・伊賀・南伊勢を、信孝が美濃を領有することが決定されたが、甲斐・信濃については不問とされた(p188)

    ・秀吉は、織田家一族をことごとく家臣とした(p194)

    ・秀吉は、信長による家康討ちの計画、光秀謀反に家康が加担していたこと、長宗我部元親が光秀とつながっていたことをすべて知っていた(p211)

    ・光秀に対する道義的責任と恩義の念を家康が示している例として、斉藤利光の娘(後の春日局)を家光の乳母にしたことがある(p256)

    ・家光=家康+光秀、忠長=秀忠+信長から考えると、家康の思い(実現できなかった光秀・家康連合政権を家光が担っていることを示している)のか?(p259)

  • 末裔である著者の「光秀の無念を晴らしたい」という執念が感じられた。確かにつじつまが合い、天海説にまで言及されているのにはびっくり。

著者プロフィール

1947年生まれ。明智残党狩りの手を逃れた光秀の子・於寉丸の子孫。慶應義塾大学大学院修了後、大手電機メーカーに入社。情報畑の経験を活かした「歴史捜査」を展開し、精力的に執筆・講演活動を続ける。

「2019年 『完全版 本能寺の変 431年目の真実』 で使われていた紹介文から引用しています。」

明智憲三郎の作品

ツイートする