- Amazon.co.jp ・本 (361ページ)
- / ISBN・EAN: 9784834024159
作品紹介・あらすじ
「すこし神さまになりかけて」いるひとたちと楽しみ、また悲しんで、宇宙のはからいを知る幼い「みっちん」の四季。『苦海浄土』で、水俣病によって露になった現代社会の病理を描破した著者が、有機水銀に侵され失われてしまった故郷のむかしを綴る。個人的な体験を超え、子どもたちの前にさしだされた、自然と人間の復権の書。
感想・レビュー・書評
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当時福音館の雑誌「子どもの館」に連載され、「児童書」に分類されているのだが、 実際に読むのは児童ではなく親だろうけれど、 これを子供が読んだらなんと贅沢な読書体験だろうと思う。
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不知火に住むみっちんは、海と山に囲まれた村に住んでいる。
村の人々たちは人間以外の海や山の”あのひとたち”の気配を感じている。
あのひとたちは八千万憶の世から来らいました方々。
あのひとたちの歌が聞こえてくる、 山のものと海のものが入れ替わる時は喧騒が起きる、人々を助けてくれることも、悪さをすることもある。
山というのはなんと多くものを養っているのか、山と海とは入り混じりあい、山が海のものを養っているのか、海が山のものを養っているのか分からないくらいだ。
そしてみっちんの側には”半分神に近い人たち”がいる。
祖母おもかさまは盲目で気狂い。三歳の子と八十のめくらさまとの魂とは確かに交じり合っている。
一本足の仙造じいさまは、”山のあのひとたち”の使い人だと言われている。
火葬場の隠亡(おんぼう)の岩殿は一人で死人さんを火葬して弔っている。
海や川を流れてきた赤子の死人さんの葬儀をしながらみっちんにいう。
「この世に来るのは、おたがい、難儀なこっちゃ、大仕事じゃ」
犬の仔 (いんのこ) せっちゃんは、懐に犬の子を入れての山を流離っている。ある時その懐に人間の赤子を抱いていた。産めたのは龍神様とそのおつかいが手伝ってくれたからだという。
大男のヒロム兄やん(あんやん)は、大きすぎる体に小さすぎる着物を巻きつけて、会う人会うものに丁寧挨拶をする。挨拶を忘れられた者は、自分はヒロム兄さんに見えないものになってしまったのではないかと思う。
みっちんはあのひとたちの気配を感じて歌を聞くと、まるで魂が半分天の方に行ってしまったような、自分が魂だけになってしまったような気持ちになる。
そして本当に魂だけになりたいと思うことがある。
村の子供たちがおもかさまや犬の仔せっちんに石を投げつけてくるのを見るのはつらい、そしてあのひとたちが酷い歌を歌ってくるのを聞くのは怒りを感じる。
みっちんはたとえあのひとたちであっても、間違いは間違いだと思っているのだ。詳細をみるコメント0件をすべて表示 -
幼いみっちんとものたち、あのひとたち、狐さんや死人さん、山の神さま、気のふれた人々、社会の最底辺に追いやられた人々の歌、散文、言葉の交歓。取り囲んでいる自然、海、大木、川、風、光などのやわらかく、繊細な描写。短編を読み進めていくうちに、自分の中にある原風景が重なり合っていく。
読み終えたとき、吉川英治の言葉を思い出した。
「本当の人生の苦労らしい、苦労を舐めたに違いない人は、そんな惨苦と闘ってきたととても見えないほど、明るくて、温和に、そしてどこか風雨に洗われた花の淡々たる姿のようにさりげない人柄をもつに至るのである。なぜならば、正しく苦労をうけとって、正しく打ち克ってきた生命には、当然、そういうゆかしい底光りと香がその人に身に付いているはずのものだからである。」
燃えろ 燃えろ
ひがん花 燃えろ
とん とん -
ページを開いて愕然とした。見てはいけないものを見てしまったという表現がしっくりとくる。
子供の頃にこの本と出会いたかったという思いがあると同時に、もしそうだったらどうなっていただろうと、少し怖くもある。
この世界に深入りしてけば、おそらく後戻りはきかない。そんな恐怖。
生死の境は取り払われ、あらゆる物が公平に魂を持ち、どれもが交換可能な世界。ライプニッツのモナドロジーを連想したが、もっともっと生々しい世界。
人類の根源に直截触れているのではないか。 -
絵のない絵本。南国の自然をきらきらした色鮮やかな糸で縫い取った着物の中に飛び込んだような気持ちになった。ただ、その美しく溶け合った世界から疎外されている寂しさも感じ続けた。登場人物はほぼみな「普通の人」ではなくて、自分はたぶん「普通の人」側にいる。彼らが自分たちに統合されないことに身勝手な後ろめたさを感じて、落ち着かない。
みっちんのような義憤を感じなくなって、どれくらいになるだろう。自分は社会に取り込まれきって、がんじがらめなのかと思う。 -
本の裏側に「小学校上級以上」と表示されていたのですが、このぎすぎすとした嫌な雰囲気が蔓延した日本社会で生活しているわれわれ大人が読んだほうが良いでしょう。読後感は、例えは変ですが、脂っこいものを食べた後にお漬物で口中をさっぱりさせた感じでしょうか。この著作は自然と人の共生が見事に描かれています。私が小学生の頃は、まだここに描かれているような自然やコミュニティが少しは残っていたように想います。いまはもう望むべくもないでしょう。淋しいかぎりです。
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結局、幼い道子とおもか婆さんは登場するが、それ以外の家族は出てこなかった。みっちんしゃん、みっちんしゃんはいろんな人とお友だちだ。同じ年代の子どもたちとは付き合わない。村人たちと少し距離を置いた不思議な人たちとばかり関わっている。ヒロム兄やんといっしょに行った桂の大木の洞は、トトロの楠を想像させる。迫んたあまとは何者か。山の森の木霊たちか。80歳になった畑仕事をしている婆さまとの会話が楽しい。うとんすぐりわらとは何者か。もたんのもぜ? ガーゴのこと? ガーゴも分からない。それはいったい何者か。ぽんぽんしゃら殿とははたまた何者か。後半にいくと、もうなにやかや不思議な世界ばかりが登場する。前半の、岩殿や仙造やん、そして馬の萩麿あたりの話がおもしろい。片足の仙造やんが川の中で垢を落としている様子をこっそり見ているみっちんしゃんがとてもかわいい。少し照れるところがいい。脛毛にくっついてくるエビを捕まえる様子を見ているみっちしゃんはもうわくわくしていたことだろう。一番つらいのは犬の仔せっちゃんの話。いったいその赤子は誰の子だったのだろう。その父親である男のことを想像すると何とも腹立たしい。そして、せっちゃんをいじめる悪ガキども。みっちんしゃんが必死の思いで助けに入るところ、一番感動的なシーンだった。なにやら不思議な人物が登場する、ふしぎなふしぎなお話でした。「椿の海の記」と同じ時代ではあるけれど、もっともっと子どもの視線で、子どもと一部の大人にしか見えないものを描こうとされたのだろうな。そしてそのころにはまだこういう世界があったのだ。僕が子どものころにギリギリ見えたもの。そしていまの日本にはもうどこにも存在しないだろうもの。
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→「石牟礼道子と懐かしい世界へ」
https://blog.goo.ne.jp/mkdiechi/e/e10e1b2a8b55c6a5daba2a17f8be7fa4 -
ふおお…む、難しい…。
まだ自分には早かったかも分からん…。 -
本を読んでいてこんなにも耳を澄ますことなど嘗てなかった。姿を見せないザワメキがざわざわと天から地からと聞こえてくる。とても尊いものを聞いてしまったかもしれない。無神論者の自分でも神の姿が朧げに見えたような気がした。この荘厳の宇宙を軽はずみに犯してきた人間の愚かさを悲しむ。そんな人間をも愛おしいと慈しむ声に平伏す。感無量。まだ間に合う。原始の力はまだ断たれていない。人間の心はまだ朽ち果ててはいない。耳をそっと凝らして、幼いみっちんの心の目を持って世界を見ていきたい。