死の覚悟を持つこと、
いつも死に身となり、心を正して職務あたること
正気では大仕事はできない、死に物狂いで立ち働く
「いま」この時が「いざ」の時
いまといざを二つに分けて理解しているものは、いざというとき間に合わない。いまといざは一体として考え、常にいざに備えておく
(覚の士 ⇔ 不覚の士)
武士が意地を立てるときは、やりすぎくらいがちょうどいい。
刀を抜いてばかりでは誰も寄り付かないが、鞘に納めてばかりなら人に軽蔑される。
不動心、一念に徹する
聖をヒジリと読むのは、聖人は非を知っていたから
誰にでも至らないことはある、という謙虚な心を持つのが聖人。
しかし、武士の生き方はそれとは違う。
大いに高慢な心を持ち、自分に並ぶほどの勇士は他にいないくらいの気概を。
喧嘩の仕返しをしないのは武士の恥。
相手が多勢でも命を賭して仕返すのが武士。言い訳をつけてやらないのは恥。
武士が頭を打たれたらなら、相手を斬り捨てる。
芸は身を助けない。
鍋島家の侍は、芸事、学問などそのものに熱心になるのではなく、
奉公に全て身をささげよ。
奉公一筋を心がけていたなら、暇な時があろうはずがない。
武士のあり方を一言でいうなら
自信の身命を惜しみなく主君に差し上げることが根本。
このうえで、智・仁・勇 の三徳を備えること。
智とは、人と相談するだけの事。これが計り知れない智なのだ。
仁は、人のためになることをすればよい。自分と他人を比較して、いつも他人が良いと思うようにしてやりさえすればよい。
勇は歯を食いしばること。前後の事を考えないでただ歯を食いしばって突き進んでいく。
自信の立身出世、自分の名誉のためでなく、殿のため、家のため。
殿に進言する立場に自らがいないのであれば、然るべき立場のひとへ話し、その人が自分の意見として殿に申し上げるように努めるのが本来。
自分の手柄をもとめるものではない。
意見をする場合は、まずその人が受け入れてくれるかくれないか、
その気質を十分に判断して、それから懇意な間柄になり、平素から
こちらが言う言葉を信頼するように仕向けておき、またその人が好んでいることなどからも近づき、話し方をいろいろと工夫して、言う機会を考え、
自分の失敗や欠点も語って、それと指摘しないでも思い当たるようにするか、
あるいは、まずその人の良い点を褒め上げておいて、元気を出させるように気を配り、のどが渇いているとき水を飲むように、自ら望んで受け取らせる、こうして欠点が直るのが本当の意見というものだ。
世の中には教訓をする人は多い。しかし、その教訓を喜んで聞く人は少ない。まして、そうした教訓に従う人はさらに少ない。人間三十歳を超えると教訓をしてくれる人もなくなる。教訓の見たがふさがって自分勝手になるので、一生涯非を重ね、愚を増して、結局つまらぬ人間で終わる。道理をわきまえた人には何とか親しく近づきになって、いつも教訓を受けることである。
年功を経たものの話などを聞くときには、たとえ自分が知っている事でも、十分に尊敬して聞くことだ。同じことを十度も二十度も聞いているうちに、ふと理解できるときがある。