歴史の終わり (下)

  • 三笠書房
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  • Amazon.co.jp ・本 (317ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784837956570

作品紹介・あらすじ

これから歴史はどう進展するのか。特に本書の結末に示された「指導原理」は、欧米とは異質な歴史背景をもつ日本人にはきわめて重要だ。

感想・レビュー・書評

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  • 「知性にしたがえば人は霊魂でしかなく、欲心にしたがえば人は動物でしかない」p40

    「評価することは創造することである。この言葉を聞け、汝ら創造者たちよ!評価することそれ自身が、評価されたあらゆる物事のなかでもっとも評価すべき宝である。評価することによってのみ、そこに価値が存在する。そして評価することなしには、存在の胡桃は虚ろである。この言葉を聞け、汝ら創造者たちよ!」(ニーチェ) p41

    主君は殺されることはあっても、教育されることはない。(コジェーブ) p47

    歴史のプロセスを前に推し進めたのは主君の闘争ではなく、奴隷の労働である。p54

    国家こそ世界における神の足跡である。(ヘーゲル『法の哲学』)p56

    国家が人民に権利を賦与し人民が国家の法の遵守に合意したとき、認知は互恵的なものとなる。p61

    歴史のプロセスー真の普遍的な歴史ーの全貌は、経済と認知という二本柱の両方についての説明がなければ、ほんとうの意味で明らかにされたことにはならない。p64

    【脱歴史世界と歴史世界】p72~

    冷たい「怪物」ーリベラルな民主主義に立ちはだかる「厚い壁」p73~

    国家はある目的をもった政治的創造物であり、それに対して民族とは国家以前から存在している道徳的な共同体だ。つまり民族とは善と悪との、聖と俗との特質に関する共通の信念をもっている共同体なのだ。p75

    文化は、自然法則のように一定不変の現象ではない。それは人間の創造物であり、たえまのない進化のプロセスを経ている。経済発展、戦争などの全国的な惨禍、移民、あるいは意識的な選択によって、文化は作り変えられていく場合もある。したがって、民主主義への文化的な「先行条件」なるものに対しては、その決定的な重要性は理解しつつも、いくぶんかの猜疑心をもって対応していく必要がある。p89

    ウェーバーの「亡霊のごとく生きている労働倫理」p96

    「武士道」が日本の資本主義にもたらした偉大な影響 p98

    経済政策は、高度成長に不可欠な前提条件にすぎない。「気概」の非合理的なさまざまな形態ー宗教、国家主義、熟練職や専門職が労働に対する誇りや水準を維持していく能力ーは、無数の経路で経済活動に影響を与え続け、富める国と貧しい国との差を生み出していく。p108

    リベラルな民主主義に対するアジアの組織的な拒絶の萌芽は、リー・クアン・ユーの空理空論的な発言や石原慎太郎のような日本人の著作からもうかがえる。p121

    歴史家ウイリアム・ランガーの言葉によれば、帝国主義は「国家主義のヨーロッパの国境を越えた投影であり、数世紀のあいだ欧州大陸に存在してきた由緒ある権力闘争や力の均衡を世界的スケールで投影したもの」なのである。p156

    国家主義は、だいたいにおいて、工業化とそれにともなう民主的で平等主義的なイデオロギーの産物だったのである。p160

    宗教は政治という舞台に欠かせない不滅の特色だという当時の人々の信念に反して、自由主義はヨーロッパにおいて宗教をたたきのめしたのである。p163

    脱歴史世界とは、快適な自己保存への欲望が純粋な威信のための死を賭けた戦いより高邁なものとされ、普遍的かつ合理的な認知が支配を求める闘争にとって代わってしまった世界なのである。p182

    自由と平等の「緊張関係」こそ自由主義の核心 p193

    ニーチェ「一つの光輝く星を誕生させるため、人は自分のなかにつねに混沌を抱えていなければならない」
    健康と自己満足は「債務」にすぎない。「気概」とは、闘争や犠牲を進んで求め、そして恐怖に満ち窮乏した本能的な動物や肉体的に制約された動物以上にすばらしい存在としての自己証明を試みる人間の側面なのである。p211

    相対主義とは、あらゆる枠組みや価値体系がその時代や場所と相関関係にあり、真実など何ひとつ存在せず、価値体系などはすべてはそれを提唱した人々の偏見や利害関係の反映にすぎない、とする教義である。p214

    大きな懸案事項をめぐる戦いにほとんど決着がついてしまった世界では、純粋に形式的なスノビズムが「優越願望」の、すなわち同僚よりも優秀だということを認めてもらいたいという人間の欲望の主要な表現形態になるというのである。p236

    現代の民主主義諸国に生き残っている「優越願望」のさまざまなあらわれは、おおやけに謳われている社会の理想とのあいだに一種の緊張状態をかもしているといえよう。p237

    資本主義経済のダイナミズムとは、生産の場所と形態のたえまない変動、そして労働のたえまない変化を意味し、そのために人々の生活や社会的なつながりはますます不安定になってしまう。このような状況のもとでは、人々が一つの共同体に腰をすえ、仕事仲間や隣人と末永くつきあっていくのはますます困難になる。人はつねに新しい町で新しい生活設計を立てなければならない。地域性やローカリズムによってもたらされるアイデンティティは減少し、人々は家族という視野の狭い世界に引きこもりつつ芝生用の家具のごとく転々と居場所を変えていくのだ。p243

    ヘーゲルも、歴史の始まりを、二人の戦士が戦って降参したほうが奴隷になり、そうでないほうが主君になったという形でとらえている。p311

    人間の「気概」には二種類あるのではないか、というのがフクヤマ氏の考えである。それは、他人よりは優れているということを示すためには命も惜しくないという「気概」と、他人と同等に認められたいというリベラルな民主主義の基本をなす「気概」とである。これをフクヤマ氏は彼自身がつくったと思われる二つの言葉で巧みに言い表している。それはメガロサミアと、アイソミアという二語である。直訳すれば「誇大気概」と「平等気概」というものである。ただこれらの言葉の使われている前後の関係からその意味をとって、本書のなかでは、「優越願望」、「対等願望」と一応訳した。リベラルな民主主義社会というのは「対等願望」の社会である。p311

  • ・日本の社会はまずもって集団を認めようとする傾向がある。
    ・誇り高いリベラルな民主主義が、帝国主義への意欲を消し去っているということなのである。
    ・日々の生活の中にはびこる「対等願望」だけではもはや十分とは思えなかった。そして「優越願望」が大規模なスケールで再び姿をあらわしてきたのだ。

  • お見事です。

  • 結局、読むのに半年近く時間を要した。
    それだけに読み終えることができてほっとした。
    要所、要所にまさに2016年の今を予想させる記述もある。
    「気概」それがキーワード
    自由主義には、ロック流のものとヘーゲル流のものがあるということがよく分かった。
    気概、気概こそ歴史を進展させてきたキーワード。
    戦争がなくなり命をかける場所が経済的なものへ転化したこと、気概を消化しようとスポーツへエネルギーが向けられたことなど自分が思っていたことが記述されていることも多くあった。
    さぁ、読むだけではだめで実践にいかさなくては!

  • 原題は「歴史の終わりと最後の人間」。
    「歴史の終わり」はヘーゲルからのモチーフ。「最後の人間」はニーチェからのモチーフ。
    フクヤマは、リベラルな民主主義が、第二次大戦でファシズムに勝利し、冷戦をへて共産主義にうち勝った歴史の流れについて、哲学的なアプローチで読み解いている。
    すなわち、リベラルな民主主義が全体主義や共産主義に打ち勝った時点で、ヘーゲルの言うように歴史は完成し、人類のイデオロギー上の進歩が終点にたどりついた。しかし、自由な民主主義の世の中が実現したことで、ニーチェの言ったように、人間は目的を見失っているという問題提起。
    もととなる論文を発表した時期が、ソ連や東欧諸国の自由化と同時期だったため、非常に注目された。

    リベラルな民主主義に基づく社会形態が、さらに優れたものに取って替わられるということは考えにくい。
    しかし、弁証法の考え方に従うなら、そこに矛盾が生じる余地がないと考えるのはいかがなものか。
    現に、東西対立後はイデオロギーではく、宗教的な対立が世界的な問題となっている。
    また、平等な社会が実現した後に、生きる目的の喪失という問題が残るならば、リベラルな民主主義内に新たな対立と発展の契機となる「矛盾」がなくはない。
    そして、ことの重大さで言えば、「最後の人間」すなわち、生存権が保障される中での、人間が人間たるゆえんをどこに持つかという価値観の問題の方が大きい。

    人間が生きるための後ろ盾になる価値といった問題となると、ここで引き合いに出されている西洋哲学の枠組みの中だけで考えるのはしっくりこない。
    例えば、生きる意味を問うキーワードとなっていた「気慨」といった言葉も、ヘーゲルやニーチェが使ったように「命をかけて」といった具合で現代に持ってきても、ろくなことにならないと思う。
    現実的にも、「気慨」というレベルではなくとも、何かをして他人に認証されたいという願望は、現代社会や組織内において大きな問題となっている。
    この問題に対して、ニーチェを引用するにしても、近代の西洋哲学だけでなく、現代における彼らの後継者の成果を引き合いに出せば、もう少し現実味を帯びたものとなったのではないか。
    とはいえ、上下600頁にも及ぶ大作で、自由主義社会の成立に至る思想史的背景については、学ぶところが多々あった。

  • 民主主義の限界。

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著者プロフィール

1952年、アメリカ生まれ。アメリカの政治学者。スタンフォード大学の「民主主義・開発・法の支配研究センター」を運営。ジョンズ・ホプキンズ大学やジョージ・メイソン大学でも教えた。著書『歴史の終わり』(三笠書房、1992年)は世界的なベストセラーとなった。著書に、『「大崩壊」の時代』(早川書房、2000年)、『アメリカの終わり』(講談社、2006年)、『政治の起源』(講談社、2013年)、『政治の衰退』(2018年)、『IDENTITY』(朝日新聞出版、2019年)などがある。

「2022年 『「歴史の終わり」の後で』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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