三国志 第1巻 桃園の巻 (六興版・吉川英治代表作品)

著者 : 吉川英治
  • 六興出版 (1956年11月発売)
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  • Amazon.co.jp ・本 (260ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784845302017

三国志 第1巻 桃園の巻 (六興版・吉川英治代表作品)の感想・レビュー・書評

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  • 吉川英治著 新訳 『三国志』 全十巻(六興版)を一箇月にて読了。 後読感無量である!

    ストーリーもさることながら、吉川氏の、原作並びに関連書籍に対する洞察力・ストーリーの配分と流し方・中国文から日本文への翻訳表現力、どれ一つとっても完璧であり、所謂、『吉川流哲学』が貫かれている。

    さて、原書『三国志演義』は、西暦184年の黄巾の乱から西暦280年の晋による三国統一までの約百年間の治乱興亡を描いたものであるが、この吉川氏による『三国志』は、西暦234年の五丈原での諸葛亮孔明の病死により終わらせている。
    その理由は吉川氏によると、孔明の死後そこにはすでに時代の主役的人物が見えなくなって、事件の輪郭も小さくなり、原著の筆致もはなはだ精彩を欠いてくる。
    要するに、続ければ、龍頭蛇尾となるとの危惧からであった。

    吉川氏による篇外余禄によると、劇的には劉備・張飛・関羽の桃園義盟をもって三国志の序幕はひらかれたものと見られるが、真の三国志的意義と興味とは、何といっても曹操の出現からであり、曹操がその主導的役割を果たしている。
    しかしその曹操も、全盛期を分水嶺としてひとたび孔明の姿が現れると、たちまちにして彼の主役的座位を譲らねばならなくなってしまう。
    ひと口にしていえば、三国志は曹操に始まって孔明に終わる二大英傑の成敗争奪の跡を叙したものと言っても差し支えないだろう。

    いくつかの場面を振り返ってみるに、

    ①曹操 : 黄巾の乱後、曹操は董卓を暗殺しようとして失敗し、彼を助けた陳宮と意気投合し逃走する。途中彼らを匿ってくれた、曹操の父の友人呂伯奢が彼らに供する酒をもとめに行っている留守中、勘違いから家族を殺してしまう。
    主人が帰って来るまでにと家を後にするが、しばらく行くと酒を手にして戻ってきた本人と出くわしてしまう。曹操はいろいろ言い逃れをして二人はその場を立ち去るが、なにを思ったか曹操は陳宮をその場に残し、呂伯奢のあとを追っかけこの人も殺してしまう。
    何事もなかったように戻ってきた曹操を、陳宮が糾したところ、
    『家族が殺されたのを知り、呂伯奢は後に報復してくるだろう。その憂いを取り除くためついでに殺した』 との弁明に、
    陳宮は、曹操の冷酷さ・狡猾さを思い知り『この男こそ後世の憂い』と見限り、後に呂布の参謀となる。
    曹操は、後に自らの位を着々とあげ、天下の三分の二を支配下に置く魏の国王の地位を掌握するわけであるが、この時、既に悪徳を備えた人物としての片鱗を見せ付けていたといえる。

    ②孔明 : 西暦227年孔明が北伐を開始するや馬謖も参謀として同行した。日頃、馬謖は孔明から将来を嘱望され弟子のように可愛がられていた。
    街亭の布陣を任された馬謖は軍律を犯し丞相である孔明の命をいささかの甘えも有ってか侮り、背き、結果蜀軍は大敗を喫する。
    漢中に退却した孔明は軍法裁きを開き、馬謖を斬罪に処した。
    『丞相、私が悪うございました。もし、私をお斬りになる事が大義を正すことになるならば、謖は死すともお恨みはいたしません』 と、馬謖は声を放って哭いた。 
    それを聞くと孔明も涙を垂れずにはいられなかった。
    折りふし、成都から来ていた使、蒋琬が、
    『閣下、この天下多事の際、なぜ馬謖のような有能の士をお斬りになるのか。国家の損失ではありませんか。馬謖は惜しい、実に惜しい。・・・そうお思いになりませんか』 と、孔明を諫めるも、孔明は 
    『・・・・・勝ヲ天下ニ制スルモノハ法ヲ用ウルコト明ラカナルニ依ル・・・・・』 さらに 『馬謖を惜しむ、その私情こそ尤なる罪であって、馬謖の犯した罪はむしろそれより軽い。なれど、惜しむべきほどな者なればこそ、なお断じて斬らなければならぬ』 と、言い切った。
    変わり果てた馬謖の姿が、首となって供えられたのを一目見て、孔明は 
    『ゆるせ、罪は、予の不明にあるものを』 と、面に袖を蔽うて、床に哭き伏した。
    とき蜀の建興六年夏五月。若き馬謖はまだ三十九歳であったという。
    この事件から、『泣いて馬謖を斬る』 なる成語が生まれた訳である。

    ③献帝 : 幼少期を陳留王と名乗られる。西暦189年霊帝が崩御されると嫡子である弘農王が少帝として即位される。しかし、寵姫王美人との間の子陳留王を帝に担ぎ参らせようとする張譲ら十常侍一派の反乱により、新帝と共に宮中から連れ出されるが河南中部援使、閔貢の兵馬によって辛くも助け出され反乱は失敗に終わる。 
    校尉袁紹らが従軍する御還幸の途中、この時ようやく洛陽に上洛してきた西涼の刺史董卓の軍に出会う。
    『敵か?』 帝を始め、茫然、疑い恐れているばかりだったが、時に袁紹あって、卥簿の前へ馬をすゝめ、
    『何者の軍隊か。帝今、皇城に還り給う。道を塞ぐは不敬ではないか』 と、大喝した。
    千翻の旗、錦繍の幡旗を翻す隊の中央から堂々と出てきた鞍上の董卓は、身長八尺、腰の太さ十圍という。肉脂豊重、眼細く、豺智の光り針のごとく人を刺す。 
    袁紹など眼中にないといった態度で、
    『天子はいづこに在すか』 と、卥簿の間近に寄って来る様子に、帝は、戦慄されて、お答えもなし得ないし、百官も皆、怖れわななき、遉の袁紹さえも、その容態の立派さに、呆っ気にとられて阻めもできなかった。
    すると、帝の御駕のすぐうしろから、
    『ひかへろ』 涼やかに叱った者がある。凛たる聟音に、董卓も思はず駒をすこし退いて、
    『何、控えろと。 ・・・さう云う者は誰だっ』 と眼をみはった。 
    『おまえこそ、名をいへ』 こう云って馬を前へ出していたのは、皇弟の陳留王であった。帝よりも年下の紅顔の少年なのである。 
    『・・・あっ。 皇弟の陳留王でいらっしゃいますな』
    董卓も、気が付いてあわてて、馬上で礼儀をした。
    陳留王は、飽くまで頭を高く、
    『そうだ。そちは誰だ』 
    『西涼の刺史董卓です』
    『その董卓が何しに来たか。 ・・・聖駕をお迎えに参ったのか、それとも奪い取ろうという気で来たか』 
    『はっ・・・』
    『いづれだ!』 
    『お迎えに参ったのでござる』
    『お迎えに参りながら、天子のこれにましますに、下馬せぬ無礼者があるかっ、なぜ、馬を降りん!』 身なりは小さいが、王の声は実に峻烈であった。
    威厳に打たれたか、董卓は二言もなく、あわてて馬から飛び降りて、途の傍らに退き、謹んで帝の車駕を拝した。
    陳留王は、それを見て、帝に代わって、
    『大儀であった』 と、董卓へ言葉を下した。
    卥簿は難なく、洛陽へさして進んだ。心ひそかに舌を巻いたのは董卓であった。天性備わる陳留王の威風にふかく膽を奪われて、
    『これは、今の帝を廃して、陳留王を御位に立てたほうが・・・?』 と、いう大野望が、早くもこの時、彼の胸には芽を兆していた。
    この後、都を制圧した董卓により、少帝にかわり陳留王が帝位につかれることになる。
    このお方こそが、後に佞臣曹操を排除しょうと二度までも画策されるも、いづれも失意のうちに終わるという、
    あの悲運の皇帝、献帝である。
    この時、西暦190年、魏の初平元年、御才、僅か九歳であった。


     

  • 初読(演義は既読)。鴻芙蓉との恋愛が加えられているのが「日本人向けエンターテインメント」なんだろうなあ。

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