ア-ト・リテラシ-入門: 自分の言葉でア-トを語る (practica)

制作 : フィルムアート社  プラクティカ ネットワーク 
  • フィルムアート社
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感想 : 8
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  • Amazon.co.jp ・本 (159ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784845904679

感想・レビュー・書評

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  • 【感想】
    ・美術史でもなく技法でもなく鑑賞という新たな観点からアートを提示した本で新鮮だった
    ・かなり専門的な話の一部分を切り取って寄せ集めた感じなので、興味を持つ導入として読み、そして深く知った後から戻ってくるとまた違った感想を得られるだろう
    ・美術批評の章はかなり解説が詳しく、作品のどの部分をどう解説しているか、どのような効果を狙っているかがわかり興味深かった
    ・p78-の野島のポートレートの解説は圧巻。切り取りと視線の誘導について見た者の印象をそのまま解説してあった。

    【メモ】
    ■アートリテラシーのキーワード
    <センシュアス(感覚的)であるために>
    ・予感、気配
    ・光と影
    ・響き
    ・感情
    <既存の見方を変えるために>
    ・切り取る
    ・落ちる、倒れる
    ・複数のまなざし
    ・流線、曲線
    ・饒舌と寡黙

    ■批評の着眼点
    ①経験的なもの
    作品を見てどのように感じたかという個人的な判断
    ②形態的なもの
    視覚形態の特徴を分析的に述べたもの。造形要素に関連した記述を含む。
    ③素材的なもの
    支持体=絵画を描く時の基底面や描画材という媒体が、作品の形態や主題とどのように関連付けられているかという記述。
    技法の工夫や媒体とコンセプトの関連なども含む。
    ④テーマ的なもの
    作品の思想的側面について追究した記述。それは作品を支えている思想的なテーマがどこにあるのかを探そうとする努力。
    ⑤社会的なもの
    作品が生み出された背景を考察する記述。そこには目の前にある作品と他の作品との関係、例えば伝統の継承と離反や、作者の性格や意図などが含まれる

    ■鑑賞のステップ
    ①物語の段階
    作品をみて、自分自身の物語を作る。自分の記憶や経験へと話が逸れ、「鑑賞」からどんどん離れていく。
    ②構築の段階
    好き嫌いだけでなく、アートの質を考え始める。自分の中にアートの定義、あるいは人生の価値観に対する定義があるため、それにあてはまらないと不安に思ったり時にはそのために反感、怒り、抵抗をみせる。
    ③分析・分類の段階
    理論と理性で作品をみようとする。主観的な発言は避け、作品をみて考えるというよりも、作品についてのデータを求めている。
    ④解釈の段階
    自分の主観、完成、知識を駆使して鑑賞できる。作品に関する知識もあり、目の前にある作品にとどまらず、そこから他の作品やメタファーなどにも考えが及ぶ。
    ⑤創造の段階
    この段階の人は、作品から作品以外のこと、例えば自分の人生や経験、感情など芸術以外の世界にも自由に行き来できる。まるで幼馴染と遊ぶように作品と遊べる人。
    この段階の人は来館者の中に0.1%ほどしかいない。

  • 悲しいながら、『鑑賞』するということは重層的な行為であり、時代によりその制作背景もさまざまであることから、一概にその効果や成果を炙り出すことは不可能に近いのではないかとか感じてしまった…。

    ▼以下引用

    アートはなぜ必要か?
    ⇒安定していた世界と自分の関係=日常に、突如として裂け目が生じ、ある生き生きとした世界が開けてくる。そのもたらし。

    ●ペドロ・コスタ映画講義
    映画とは豊かな距離感をつくることです。
    隠された何かをよく見えるようにするという機能
    映画そのものを見るということは、登場人物の感情に従って泣くということではない。真の映画体験とはもっと違ったものであり続けている。ハリウッド映画が見せるものは、観客自身が自分たちを投影するもの、自分たちの仕事や日常を投影させることができるにすぎないもの。観客は自分たちが見たいと望むものしか見ていないのです。

    ⇒この文章から省察できることは、現在の映画は一方的なイメージや情報の(抑制的)伝達になってきているということ。感情の追跡による鑑賞を、本来の目的から逸脱したものとしている。それではいったい「真の」それとは何か。「隠されたものをよく見る」というのはどういうことか。「想像による自己投影」?そうだとすれば、「感情の追跡」と「想像による自己投影」。一見すれば同類の事象として扱える両者の相違点はどこにあるだろうか。おそらくはそれは、「離れているか否か」ということではないか。ここで言う離れているというのは、「模倣」や「没我」、「同一化」というものに近い。見えないものを見ようとする「意志」の働きによるもの。「見たいと望むもの」は主に属し、「意志により見ようとしなければ見えないもの」は客に属する。本来的な映画が誘発すべきは、想像をかきたてるような、『隙間』や『距離』であり、「客」の視点の獲得へと向かわせる知の営みなのではないか。
    そしてその営みこそが、人間の他者性の獲得、と発想の柔軟さの広がり、ひいてはをニューマニズムを前提にした世界の獲得の機縁になるとは考えられまいか。

    イマージュや音だけを扱い、つまりは世界が生まれた最初に存在していたものを見出すことが、映画をつくること

    以上、講演より。

    彼ら(制作者)は観客が扉を開けることができるかもしれないが、開けることは難しく、同時に危険でもある何かを隠している

    アートを理解し、鑑賞するには、こうした目線の変化が必要

    物を理解するには、知識だけではなく、「発想」が必要。常に一方向から知識を与えられると、カタイ頭になり、発想は硬直する。豊かな発想をうむには、目線の変化が必要。

    感性とは、神秘的な才能ではありません。重要なのは、見るための行動を起こし、ポジショニングを変えること。そこから発想は生まれ、感性も磨かれるでしょう。

    鑑賞とは、新しいイメージが生まれる瞬間に立ち会うことです。

    言葉とは嘘をつくにも最適ですが、同時に混乱した自分を客観視し自分を救う手段ともなりえます。そう考えると、書くという行為は、非常に深い行為であることが理解されます。

    言葉は、たんなる伝達道具ではなく、混沌の中から自分を救う根源的な意味をもっていました。

    船越桂『論理的に考えて結論を出していくというよりは、しょっちゅう手を動かしていて、そこから偶然でできた驚きを見つけて反応するんです』

    あらかじめの予感を手本に描く、彫るのではなく、描くから見える、さらにそれに刺激されて彫る。つまりは描くことの中で予感が発生するのです。

    鑑賞者もモチーフを見すかしたように発見することはできません。神様のような位置から見すかすことはできないのです。作家の挌闘や模索の痕跡と並走し、わずかに見えてくるものなのです。その時セザンヌのうごめきと持続に共感することができます。

    産まれた形が、題名を呼びつける。

    見ることは描くことと同じものであり、その最初の筆触に共感する感覚なのです。作品や場所や文章を前にした時、あらかじめ見るべきものを予想するのではなく、予感を作り上げようとする感性が必要。好奇心旺盛であること。

    注釈的な情報を手がかりに、理解し、さらに、その表現の内容をあたかも自らが体験したかのように思いこんでしまいがち。概念や内容が情報としてわかっているからいいじゃないかという発想。

    表現された感情は、それを鑑賞する側にもその触覚性を通して同様の感情を彼らの体の中に引き起こす。

    感情をストレートに表現することは、アーティストの仕事ではない。

    いかなる作品といえども、思考と感情を持った、人間という存在が創造。描かれた作品の真価は、人間存在の思考と感情の二重性をキャンパスという錬金術のなかで昇華、止揚し、統合していく達成度と深さにある

    われわれは、安く精製された情報の洪水の中にいる。問題はそのとき、先ほどのカノン(規範)とも関係するけど、イメージ情報の意味解釈の仕方が決まっている、ってことです。

    本来の情報はみな生命情報。生命情報のなかには、ピュっと出てくるものがある。学問的には「イマージェンシ=創発」といいますけど、突然ピュっと出てくることが、生命の本質なんじゃないかな。

    何もかもが理詰めで動くような文明世界。突然出てくる生命的なものを肯定的に捉えていくことが大事。そういうものは、うまく整理できないし、気持ち悪いので、どうしても否定的になっちゃうわけだけど。何やっても先がみえてこねえな、なんて落ち込んでしまう。でもそういうものを肯定的に捉えていくのが、在る意味ではアート。

    読者の想像力の余地が残されている分、細かく書き込まれた描写よりもかえって豊かなイメージを喚起します。

    言葉のうまれるおおもとにはひとつの沈黙があるということになる。言葉にできない何かが存在するのです。
    言いたいことを言いきれないからからこそ、それを何とか言い表そうとして次から次へと豊かにわき出てくるのが言葉ゆえ。

    この『何か』を『口にすることはできないが、響かせることはできる』

    デュラスの小説が伝えようとするのは、書かれた言葉そのものの意味ではありません。その余白から『言葉にできない何か』を浮かび上がらせ、読者ひとりひとりの胸のなかに鳴り響かせるために、デュラスは言葉を使うのです。(マルグリッド・デュラス)

    サミュエルベケット『ゴド―を待ちながら』

    嘘がないとは、掌握できないことまでは触れないという謙虚さと、自分が認めた価値ある作家や作品のみを自らの言葉で語ろうとする誠実さ

    見るものが作品と出会った時に、作品の中に読み取ることができた観念や思想を自らの言葉で語ることが批評行為の出発点

    芸術作品を言葉で語ることには二重の難しさがある。『言語によって言語にできない造形世界を語る』という根本的な矛盾。

    ハウゼンによる美的発達段階
    ①物語の段階 …作品をみて、自分自身の物語を作る。自分の記憶や経験へと話がそれ、鑑賞からどんどん遠ざかる
    ②構築の段階 … 好き嫌いではなく、アートの質を考え始める。自分の中にアートの定義、あるいは自分生の価値観に対する定義があるため、それに当てはまらないと不安に思ったり、ときには反感、怒り、抵抗を見せる
    ③分析・分類の段階…理論と理性で作品をみる。主観的な発言を避け、作品を見て考えると云うよりも、作品についてのデータを集める
    ④解釈の段階 …自分の主観、感性、知性を駆使して鑑賞。作品に関する知識もあり、目の前にある作品にとどまらず、そこから他の作品やメタファーなどにも考えがおよぶ
    ⑤段階の創造の …作品以外のこと、例えば自分の人生や経験、感情など芸術以外の世界にも自由に行き来できる。まるで作品と遊べる人。

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