シナリオ構造論

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  • フィルムアート社
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  • Amazon.co.jp ・本 (376ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784845916139

感想・レビュー・書評

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  • 著者てある野田氏は私が生まれる半年前に亡くなっている。かような古い本が未だに復刊され読み継がれるのは不思議な気持ちになる(まぁ、古典と呼ばれる本はさらに古いのであるが)


    ここあるのは、黎明期の映画におけるシナリオ作成技巧の基本のようだ。今や、YouTuberやゲームクリエイターが、映画に代わる新たな体験を生み出している時代である。しかし、ここにあるの技法は今の世界の中にもいきづいている。

    人間の架空の世界を生み出す技術は、積み上げのなかから生まれてきたのだと実感する。

  • 自分のアンテナを立てる。→作家があるひとつの出来事によって感動させられた結果(モチーフをとらえた)、それを描いて他の者を感動させようがためには、彼はまず、その出来事が、彼を感動せしめた原因がどこにあるのかを探究して、それの現象としての特殊性のなかの真実としての普遍性を発見し、それを更に、彼の空想のなかに溶かしこんで、そこに初めて作品としての構想をまとめあげなければならない。

    大衆性とは、
    最大公約数的な「面白さ」。作者の独自な視点が綿密な、周到な、新鮮な技法と結びつけば、そこには必ず一般の人々にも充分に理解し得られる独自な「面白さ」が生まれて来るはずである。
    「事実」と「真実」
    私たちがある「事実」なり「事件」なりに接して、単なる好奇心の満足以外に何か特に深い感動を受けるという場合は、その「事実」「事件」というナマの素材の中から、不知不識の間に「真実」を抽出して、その「真実」に感動している。
    「事実」はそのままの形では単なる日常経験の範囲を出ない一時的な現象であり、普遍性もなく、従って形而下的な経験たるに過ぎないものだが、「真実」は普遍的であり、現実の圏内を越えた形而上の真理の世界に属するものである。簡単に言えば、「事実」は経験するものであり、「真実」は直感するものである。印象性においては「事実」の方が強く、浸透性においては「真実」の方が強い。芸術作品の価値を判断する規準は、それがいかに的確に事実を伝えているかという点にあるのではなくて、それがいかによく「真実」を語っているかという点に存すべきものである。従って、立場をそこに持っていないかぎり、いかに迫力に富んだ事件がいかに印象的に伝えられていようとも、そこに芸術的な価値を見出すことはできない訳だし、同時に「真実」のつかみ方さえ確かならば、たとえそれが奇怪な空想の上に組み立てられた架空な物語であろうとも芸術的な価値の上からは遥かに重い位置を与えられるべきものである。
    形を虚構に借りて真実を語る、それが作家の仕事であり、そこに作品の強さがある。
    ex. ルビッチ「あなたは小さくなっていらっしゃい!」
    真実を語ることなくしては、作家はついに戯作者たるの位置に堕ち、作品はニュースの一片にさえ及び難いものに終わる。
    作家がある一つの出来事によって感動させられた結果、それを描いて他の人を感動させようがためには、まずその出来事が感動せしめた原因がどこにあるか探究して、それの現象としての特殊性のなかに真実としての普遍性を発見し、それをさらに空想の中に溶かし込んで、そこに初めて一つの作品としての構想をまとめ上げなければならない。すなわち、事実から真実へ、真実から空想へ、空想からそれの具象化へ。いわばそれは、素材として最初に拾い上げられた一つの出来事が作家の主題を通して濾過されつつ次第に芸術作品へと変貌していく原則的な過程であり、その過程を経過していく間に、それの素材としての原始性や一切の不純なものが取り除かれ「事実」はその「真実」のために訂正されて、初めてそこに一つの作品としての方向が定められてくる。
    ある人生の真実を描かんかために、背徳、不信等の題材が選ばれたとしても、それが芸術として映画的に再構成される以上は、既にそれらの「現実」からは離脱してそこに美的感覚を呼び起こすだけの力を持っていなければいけないものであり、そうあってこそ初めて芸術作品としての高さも深く増すものであり、そのためには、すぐれた内容とすぐれた表現が過不足なくピッタリと結びついて、そこからその作品の美しさが輝き出して来なければならない。
    映像は「動き」である。外形的な動きでも心理的な動きでも、観客に「動きの欠乏」を感じさせてはいけない。例えば、指の動き一つにしてもそれが日常の単なる動き以上に何らかの意味を現しているような、そういう動きが欠乏してはならない。
    物語の要素
    「誰がまたは何が(主体)…性格」「何を、いかに(事件)…行為」「いつ、どこで(背景)…環境」
    プロットは、因果律である。
    ex.  物語では、「王が死んだ。それから王妃が死んだ」 
        プロットでは、「王が死んだ。その悲しみのために王妃も死んだ」
    心理の具象化
    夫への愛情を感じられない妻を、結婚指輪を抜いてみたり、また、はめてみたり、指のまわりをくるくる回してみたり、その人物自身は何も今なしつつある動作と結びついた故意を自覚しているのではない。しかし観客から言うと、その人物の意識せざる動作をかえってその心的経過の重要な徴候として認めることができる。すなわちスクリーンの中の人物自身よりも観客の方が多く知っていることになる。
    ともすれば具象化の効果を忘れて一切をセリフに託しがちになる傾向を反省すべき。映画と演劇との最も根本的な相違をはっきり認識していればシナリオが場面数の多い戯曲と同じものになるという心配はない。

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著者プロフィール

1893年、北海道函館で生まれる。早稲田大学卒業後、1924年、松竹蒲田脚本部入社。第一作『骨盗み』(広津柳浪 原作)を脚色し、以後一貫して松竹の代表的脚本家として活動。1927年には小津安二郎の監督昇進第一作『懺悔の刃』を書く。1936年、初代日本シナリオ作家協会会長。1938年の『愛染かつら』は爆発的ヒット作となる。
戦後は『晩春』(1949年)以降、『麦秋』『東京物語』の「紀子三部作」を始めとする小津安二郎との共同脚本でも知られ、小津の盟友として活躍した。1968年に死去。

「2016年 『シナリオ構造論』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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