〈教師〉になる劇場—演劇的手法による学びとコミュニケーションのデザイン

  • フィルムアート社
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  • Amazon.co.jp ・本 (272ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784845916160

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  • 「なそる=臨書」は、自分をかっこ付けにすることでしか、はじまらない。自分をそのままにしていたら、それまでの自分の運筆の中でしか、その字を解釈・再現できない。そうではなく、自分をとめて、それまでの【自分】と、その「手本」との間にある『ざらつき』や「違和感」の中に巻き込まれ、そこから出て来ることが大切。それによって、新たな運筆や筆使い、造形が出て来る。

    なぞる=その人に「なる」作業、それはその人の身体の側からの「世界」を見るということ。身体を共有するということ。「なぞる」際に発生する軋轢やズレを超えた先にはそうした瞬間が顕現される。それは外からのコピーでは決してない。


    ●以下引用



    「石野由香里-」

    人が変わる瞬間とは、端的に言って人が境界に立ち、足元を揺るがされる体験をするときに起こる

    従来の演劇
    ⇒必ずしも他者に遭遇できない。フィクションは演じ手自らの想像力の世界に引き寄せて他者像を描けてしまう

    現実の人間を写実的に演じる手法⇒他者をなぞる

    人類学的な意味で境界に立つとは、自分の価値観では受け入れがたいことを現前に、自らの限界に直面すること

    自他の境界で発生する葛藤を乗り越えるためには、自らのパースペクティブを変容させるしかない。それは自文化の自明性に気付く事であり、文化の色眼鏡で世界をみていたこと

    人類学とは、自らの価値観を相対化する学問

    自分の理解を超えた他者の前で受動的になる

    自分の頭の中の範疇を超えていない、全然その人自身の思いに立てていない

    その根源には私たちが同じ人間という身体を有しているという奇蹟がある。人の痛みは伝染し、自分の痛みとして感じることもある。相手の身体の在る場所へ自分の身が置き換わるような体感を伴ったフシギな感覚。自分の身体の延長上に他者を感じることができる。

    異なるものとしていったん固着した他者との対話はいつも容易ではない。他者経験⇒自己変容⇒他者了解の道筋をたどること

    受動的姿勢、自分の見方を括弧に入れること、身体感覚をよりどころにして身体ごと飛び込むこと

    自分一人で己の殻を破るというような内向きの態度ではなく、より他者に開かれた、他者とのハザマで経験される、透徹した、厳しいプロセス

    コピーできていない場合の多くの原因に、対象者をきちんと観察できていないこと、すなわち自分の思いこみで、あるいは自分のみたい範囲しか観ていないことがある。自分の思い込みの他者、すなわち自分のイメージの投影された他者像から、現実の他者へと修正

    実際に身体でその人の立場に立って動かないと分からない

    身体を基盤とする新しい教師の役割ーかかわり、つながり、つなげること。人と人、人ともの、人と出来事、さまざまなものをつなげ、自らもつながっていく媒介者としての教師

    交わりながら。子ども、若者たちが自らの探究を深められるよう、教室の中に出会いや対話を生み出す

    無知な教師としてのふるまい。自らの知識を伝授し、優位な立場に自らを立たせる教師を愚純化する教師と呼び

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