模索する美学―アヴァンギャルド社会思想史

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  • 論創社
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  • Amazon.co.jp ・本 (556ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784846013172

感想・レビュー・書評

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  • 塚原史著「模索する美学―アヴァンギャルド社会思想史」をぱらぱらと読む。

    塚原先生といえばジャン・ボードリヤール「消費社会の神話と構造」の訳者のひとりで、卒業論文を書くにあたってはずいぶんお世話になった。

    美学の本を書いているというのは初めて知ったけれど、シリーズ3作目にあたる本書は先生の美学研究の対象であるアヴァンギャルド芸術を涵養する「社会思想」について書かれていて、やっぱりボードリヤールのテクストからもいろいろ引かれている。

    懐かしくもあり、いまだ共感するところばかりで、読み進めながら学生時代を思い出していた。

    一部で「ポストモダン思想の欺瞞」などと言われて評判のよくなかったりもするボードリヤールだけれど、「消費社会の神話と構造」についていうなら、その主張はかなり素朴でわかりやすいと思っている。

    誤解を恐れずバッサリ要約すると、社会は資本主義による経済成長によって物質的に満たされ、人々の消費の対象が「必要物資」から「(不要不急の)差異化のための記号」になり、人々がシンボルや偶像的価値といった時代の神話に踊らされることではじめて市場が回るようになった、という主張と読める。

    その後、ボードリヤール自身これに続く著書で修正をしている部分があるようだけれど、情報化がさらに先鋭化した現代において、いわゆる「記号消費」の傾向はますます加速している。

    写真に撮られ、SNSでの差異化を表象する記号(=情報)としての旅行、衣服、食事、レジャー、消費財、生活を取り巻くあらゆるもの……読書という行為すら差異化の記号なのかもしれない。まぁ、図書館で読んだので「消費」ではないけれど。

    記号が消費されるためには「差異」が必要で、それはつまり「新しさ」であり「ブランド」だ。これらは実際には広告的な技巧やマーケティング活動によって、多くの場合「創造(または、ねつ造)」される。実際の物理的な価値はほとんど変わらないものが、新しさやイコンを付与されることで羨望の対象に変わる。

    大衆消費の時代に私たちは、「差異」そのものが大衆化されることで新たな「差異」が必要とされるフィードバックループの中にいて、時にはそこから途方もないバブルも生まれたこともある。

    だがしかし、その見せかけの「差異」の裏側が、少しづつ白日にさらされるにつれ、「新しさ」や「ブランド」の市場価値も変質してきている。それは、おそらく良い方向に。

    塚原先生も、あとがきで「事実上の完了」と書いている。

    「結局本書を通底するのは「新しさとは何か?」という、ごく素朴な、それでいて正解が見つかりそうにない問いなのだが二〇世紀初頭の歴史的アヴァンギャルドが「反逆」と「切断」をつうじて、「破壊」から「創造」へといたる過程で出現する「新しさ」を強調したとしても、その後の全体主義と世界戦争から地球規模の消費社会、情報社会へいたる巨大な流れの中では、「オリジナル」の一度限りですぐに古びていく新しさから「シュミラークル」(オリジナル不在のコピー)の反復・再生される記号的・情報的新しさへのシフトが進行し、事実上完了しているように思える」(p.532)

    消費社会の神話はそのメッキをはぎ取られ、緩やかに死んでいくのだろうか。その時におこる経済の低体温症にたいして私たちは適応することができるのだろうか?

    これから先、情報がさらに自由に飛び回るようになり、一方で人口減少の局面を迎えた日本社会は、すでにポストモダンの批評を飛び越えて未知の領域に足を踏み入れつつあるのかもしれない。

    ともあれ、記号消費の市場が崩壊しつつある現状を見ると、そうではない部分の消費市場(食糧、水、電気など生活に必要なライフライン)において発揮される「生産的な技術」を身につけていくことは、決して無駄ではないと思う。

    坂口恭平のレイヤー思考は、不確実な時代を生き延びるための処世術。実学と人文学の接続はいつだって人類の課題だ。

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