山口晃 親鸞 全挿画集

著者 :
  • 青幻舎
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本棚登録 : 53
レビュー : 6
  • Amazon.co.jp ・本 (696ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784861524790

感想・レビュー・書評

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  • いやいやまったくすばらしい!よくぞ本にしてくれた、エライよ、青幻舎。何年も連載された新聞小説の全挿絵が本になるって、他に同じような例があるんだろうか。おまけにすべての挿絵に画家のコメント付き。ちょっと高いけど、これぞ「お値段以上」、じっくり一回読み、また最初から全部眺め、さらに気に入ったところを繰り返し鑑賞し、と何回見ても全然飽きない。

    山口画伯は以前から当たり障りのあることを結構書く人で、ここでも著者の五木先生とゴタゴタしたことが何度も述べられている。五木先生、あれこれ文句言わずに画伯に自由に描かせてあげたらいいのに!誰に描いてもらってると思ってるんだ、天下の山口晃だよ?と最初は思ったが、何回も読んでいるうちに、ちょっと違う気持ちになってきた。

    画伯が「普通はこんな真面目な小説にそんなふざけた絵はつけんでしょ」というような挿絵を描き(もちろん圧倒的な画力あってこそだけど)、五木センセイは当然それが気に入らず、それどころか主な人物は顔を描いてはいけない、親鸞は後ろ姿もダメとか言い出す(間に立った編集者はさぞ胃が痛かっただろうと推察いたします)。やはりメインは小説であり、しかも書き手は御大五木寛之だ。山口画伯、どう描けばいいかわからなくなって、深刻に悩んだ時期もあったらしい。それでも、そういう思うにまかせぬ制約が、挿絵に不思議な緊張感を与えているように感じるのだが、うがち過ぎだろうか。

    それにしても「顔を描くな」というのはあんまりだ。なんてったって山口画伯は顔がすごーくいいんだから。美女を描かせたら天下一品、恵信が初めて登場する場面など、もううっとりするほど。頭巾に半分ほど隠れているのだが、目の美しさといったら言いようがない。また、何度か描かれる「ツブテの弥七」は、どれも野性味があって実に魅力的だ。そして、何と言っても親鸞その人の顔がすばらしい。「常乞食 常糞掃衣」の回や、あえて雨乞いをする回の表情など鬼気迫るものがある。口絵の「八十代の親鸞」は展覧会用に描かれたそうだが、この味わいを何と言ったらいいのか、言葉をなくしてしまう。

    と、ほめちぎるだけにしたいのだが、実はいくらなんでもこれはちょっと…というのもあり、その筆頭が親鸞の息子善鸞だ。善鸞=全卵という発想から、頭が卵。んなアホな。他のおふざけはクスッと笑えるものが多いけど、これはあんまりじゃないかな。ま、こういうところがいかにも山口晃なのだけれど。

    「絵」として一番いいと思ったのは、大法会からの歌競べの場面を描いたもの。高いところに鎮座する仏像から見下ろすアングルで、奥行きと高さの感覚がすごい。こんな構図は見たことがないように思う。それと、東山(たぶん)をバックにした京の都の遠景を描いた絵も好きだなあ。

    本書は、挿絵につけられているコメントで、小説のおおよその筋がわかるという親切設計。挿絵だけだったらここまで楽しめなかったかもしれない。実在・架空の人物が入り乱れ、人間親鸞の姿をあぶり出していく小説のおもしろさの一端が伝わってくるように思った。親鸞が、念仏に御利益を期待する人たちに向けて、仏の教えとは何かを語るくだりを、山口画伯は「第二部で一番好きな場面です」と書いている。親鸞は、念仏とは山道を照らす月の如きものと語る。
    「重い荷物を背負って暗くて険しい山道を行く時、荷物の重さも変わらないし、何か助けてくれる訳でもないけれど、月の光が暗い道を照らしてくれるだけで、『ああ、あそこに行けばいいのだ。あそこまで頑張ろう』と心持ちが楽になる。仏教は一切現世では役に立たないけれど、はっと何か明るく照らしてくれるものだよ、と親鸞が民衆に語る場面です」
    なんだかとても心にしみました。

  • 山口晃が五木寛之『親鸞』の新聞連載の挿絵を描いているというのは聞いていたのだが、当時購読していた新聞には掲載がなく、時々、出先などで目にすることがある程度だった。これ、まとめて見てみたいな、でも書籍化しても連載の挿画が全部掲載されることなんてないよな、と思っていたら、なんと、挿画集が出たという。

    『親鸞』はかなりの長編である。
    新聞連載が始まったのが2008年9月、休みを挟みながら、全三部が完結したのが2014年7月。回数にして1052回という。
    本書では、そのすべての挿画に加え、ボツになったもの、ラフプランも収録。さらに、1作ごとにコメントが付く。これがむちゃむちゃおもしろい。

    五木寛之は連載開始前に、「思う存分やって下さい」と話したのだという。言葉通りに思う存分やっていたら、割に早い段階で「指導」があったという。
    挿画家は作者と読者の中間のような位置にいるものなのだろう。作者が見ている方向と、それを読んだ読者が見る景色、その間で何を絵とするのが適切なのか。どの程度の距離を取り、どの程度作品に沿うのか。
    一連の作品は、作者と挿画家の丁々発止の駆け引きのようでもあり、真剣勝負の記録のようでもある。
    例えば、主要人物の顔は描かないように、さらには後ろ姿でも描かぬようにと指示が来る。イメージが固定されるのを嫌ってのことだろうが、ではどうするのか。
    制約がきつくなりすぎて、ときに描けなくもなる。
    連載当初には比較的まとまって原稿をもらえていたが、徐々にギリギリのことも増えてくる。日々、迫りくる〆切。先の読めぬ展開。直前に入る直し。
    何だか聞いているだけで胃が痛くなりそうである。

    そんな中でも、限られた大きさの画面にさまざまな画風でさまざまな試みがなされる。
    時には描き込まれた写実的な絵。時には荒々しい線で。時には現代の風景も織り交ぜ。時には脱力系の判じ絵。時には漫画風も。
    構図やタッチについての画家ならではのコメントをそういうものかと興味深く読む。

    山口晃の視点はどこにあったのだろう。
    作品世界にどっぷりつかるというよりは、少々斜めから見て、ひねりを加えて読者に提示する。それが作品にさらに奥行きを与える。
    そんな挿画だったのではなかろうか。
    それを確かめるには、本書を横に、完結した『親鸞』を読んでみるべきなのかもしれない。

  • 本屋で一目ぼれ。
    全ページ、なめるように読んで、うっとり眺めた。

    山口晃氏というと、こまかーい絵巻物風の街の絵を描く人、というざっくりしたことしか知らなかったが、ずいぶんトボけたおもしろい人なんだな~と思った。
    挿画1枚1枚に添えられた文章があまりにもおもしろく、夢中になって読んだ。
    しかもインテリジェント。画集なのに、いくつもいくつも知らない言葉がいっぱい出てきて、調べちゃったよ。「赤備え」とか。「桿体視覚」とか。

    私が選んだわけではないですが、我が実家は浄土真宗。
    ひいおばあちゃんが亡くなった時、49日間、毎日のように家族総出でお経をあげさせられたので、私は当時小学校低学年でしたが、いまだにところどころ覚えていて暗誦できる。(意味は不明のまま)
    さらに、親鸞の人となりについては妻帯もした割と合理的な人、という印象もあり、興味は大いにあるので、小説の方も読んでみようかしら、なんて思いながらこの画集をめくっていたが・・・

    五木寛之センセイだかなんだか知らんが、いちいち挿画に口を出していて、なんと「顔禁止令」まで出していたと知り、猛烈に腹が立ったので、そんなヤツの小説など読まん! 読むのはやめ!(笑)

    なんで自由に描かせないんだ。
    どうせ挿絵でイメージが固定するのが嫌だったのだろう、と想像するが、もう人間が小さいったらない。
    挿絵に限定されてしまうような内容ならそれだけのものなんでしょうが、と言いたい。
    しかも、センセイがこういう絵にしてほしい、って出してきているその要望がもう陳腐っつーか、ショボイっつーか、ありきたりで平凡でガッカリする。

    ああ、センセイがしょーもないことを言わなければ、善鸞だって、卵なんかに描かれずにちゃんと顔を描いてもらえたんだろうに、と残念でならない。覚蓮坊だってベルク・カッツェのかぶりものになっちゃってるし。
    顔がいいのに。顔がいいのに。いや、顔がないのも全部いいんだけど、顔が出てくると、すごく胸にぐっと来るんだけどなぁ。ああ残念。
    (ベルク・カッツェはおもしろいからどっちでもいいけれど)

    そういえば、「どこかのお寺のブログに "手抜き" と批判されていた」という絵、第二シリーズの最初の絵「2-001」(激動を予感させる強い風の中に親鸞と恵信が立っている絵)、私はものすごく好きなんだけど、これを手抜きと言う人もいるんだ、と驚愕した。
    センセイに限らず、絵というのは結局数学みたいに答えが1つじゃないから、長期にわたって挿絵を描くってのはノイズが多くなるもので、大変な作業なんだなと思った。

    余談だけれど、新聞の連載小説というのは、出版社が配信していて、複数の新聞で採用されることもあるんだ、と初めて知って、そのことも興味深かった。

    実は今、会社で購読している某ローカル紙の連載小説がめっちゃくちゃおもしろくて、毎日毎日、ウッキウキで読んでいる私。
    その名も、「いい湯じゃのう」(風野真知雄 著)!
    タイトルを初めて見た時は、「えー、つまんなそう・・・ガッカリ・・・」などと失礼なことを思ったのだが、いまや、会社に行く原動力の1つと言ってもいいくらいの大切な存在に。
    今まさに物語はクライマックスなので、目が離せません。っていうか、大団円に向かっている気配があるので、もうすぐ終わるのか?と「いい湯じゃのうロス」に脅えてすらいる始末。

    山口さんが画集の中で、「新聞小説には、読者からの感想自体がまず来なくて、たまに来ても設定がおかしい、などの苦情ばかりだそうだ」と書かれていたので、ここは長く続けてもらうためにも、新聞社にファンレターを書くべき?などと考えている私であった。

  • 本音かわからないけど、五木寛之さんと山口晃画伯の、新聞小説に対する考え方が、浮かび上がり、興味深い。
    絵にしてしまうとそれにイメージが縛られてしまう。
    それはそれで良いと思うけど、

  • ため息ちゃん可愛い!
    新聞連載小説『親鸞』の挿絵すべてに山口さんのコメントがついていて面白かった。作者のいつき先生からの注文も判るなぁ(笑) 
    言葉から受け取ったものを絵にすること、を目の当たりに見れる画集です。昔の電話帳のような分厚さで嬉しい重さがありますが、電子書籍版もほしいなと思いました。細かく描かれた部分を拡大して眺めたい…。

  • 19/02/03。

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著者プロフィール

やまぐち あきら
1945年生まれ。駒澤大学講師。
ヘンリー・ソローの著作を精力的に訳している。
そのソローの訳書に
『歩く』(ポプラ社)、
『ソロー日記 春』『ソロー日記 夏』
『ソロー日記 秋』『ソロー日記 冬』
『ソロー博物誌』(彩流社)、
『コンコード川とメリマック川の一週間』
(而立書房)などがある。



「2018年 『ソロー コレクション』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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