邪悪なものの鎮め方 (木星叢書)

著者 :
  • バジリコ
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本棚登録 : 792
レビュー : 100
  • Amazon.co.jp ・本 (325ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784862381606

感想・レビュー・書評

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  • エッセイ

  • 夢中で読んだ。これはすごい。やはり内田氏の著作は全部読むことになりそうだ。

    【書き抜き読書メモ】
     ・ つまり、「邪悪なもの」との遭遇とは、「どうしていいかわからないけれど、何かしないとたいへんなことになるような状況」というかたちで構造化されているということです p9[more]
     ・ 他の本もそうですけど私はここ数年「どうふるまっていいかわからないときに適切にふるまうためにはどうすればいいか」というなんだかわかりにくい問いをめぐって考えてきました p10
     ・ 「邪悪なもの」をめぐる物語は古来無数に存在します。そのどれもが「どうしていいかわからないときに、正しい選択をした」主人公が生き延びた話です。主人公はどうして生き延びることができたのでしょう。/私自身の見つけた答えは「ディセンシー」(礼儀正しさ)と、「身体感度の高さ」と、「オープンマインド」ということでした。 p11
     ・ ムラカミ・ワールドにはひとつの物語的な原型がある。それは「コスモロジカルに邪悪なもの」の進入を「センチネル」(歩哨)の役を任じる主人公たちがチームを組んで食い止めるという神話的な話型である p14
     ・ 暴力そのものより「暴力的」なのは、暴力がどのようにしてその対象を選別しているのか、その基準が当の被害者にはついに知られないという事実の方である p30
     ・ 「葬礼を行いうるもの」として自己規定の仕切り直しをする以外に、「生き残ったこと」を合理化するどんな説明も成り立たない。「邪悪なもの」が私を拉致しなかったのは、私がその後に「葬礼」の責務を果たすことを宿命づけられていたkらであるという説明だけがかろうじて私の「生き残り」の疚しさを緩和してくれう p32
     ・ 先行作品として踏まえているものが多ければ多いほど、先行作品の質が高ければ高いほど、「それを踏まえて書かれたもの」は「親の七光り」の恩沢に浴すことができるということである p49
     ・ 真にすぐれた作家はすべての読者に「この本の真の意味がわかっているのは世界で私だけだ」という幸福な全能感を贈ってくれる。/そのような作家だけが世界性を獲得することができる。/「コールサイン」のもっとも初歩的な形態が「本歌取り」である。これは「本歌を知っている読者」と「知らない読者」をスクリーニングする p51
     ・ このあと話がどう転がるかよくわからないが、後は何とかしてくれるだろうという「未来の私」に対する信頼がなければ、いきなり湧き出てきたアイディアや暴走気味の思弁を扱うことはできない p58
     ・ 道徳律というのはわかりやすいものである。/それは世の中が「自分のような人間」ばかりであっても、愉快に暮らしていけるような人間になるということに尽くされる。それが自分に祝福を贈るということである。 p150
     ・ 斬られる人がいないという不利な条件下で、暴走する剣をどうやって止めるか。/これは居合いの提示する根源的な「謎」の一つである。/およそあらゆる「道」はいずれも根源的な「謎」を蔵しており、それが修業者たちに(それぞれの技術的な発達段階に応じて)エンドレスの技法上の問題を差し出す p173
     ・ しかし、知性のパフォーマンスが爆発的に向上するのは、「その有用性が理解できないものについて、これまで誰も気づかなかった、それが蔵している潜在的な有用性」を見出そうとして作動するときなのである。自分が何を探しているのかわからないときに自分が要るものを探し当てる能力。それが知的パフォーマンスの最高の様態である。 p185
     ・ 「これはそのうち何かの役に立つかもしれない」というのは、「これ」の側の問題ではなく、実は「私」の側の問題だったのである。「これの潜在可能性が発見されたのは、「私」の世界の見方が変わったからである。「私」が変化しない限り、その潜在可能性が発見されないような仕方で「私」の前に隠されつつ顕示されているもの。それをとりあえず「ほい」と合切袋に放り込むこと。/それを「学び」というのである。 p185
     ・ 1960年代の初めまで、日本の会社の重役たちは三種類くらいの「お稽古ごと」は嗜んでおられたのである。/なぜか。/私にはその理由が少しわかりかけた気がする。/それは「本務」ですぐれたパフォーマンスを上げるためには、「本務でないところで、失敗を重ね、叱責され、自分の未熟を骨身にしみるまで味わう経験」を積むことがきわめて有用だということが知られていたからである。/本業以外のところでは、どれほどカラフルな失敗をしても、誰も何も咎めない。そして、まことに玄妙なことであるが、私たちが「失敗する」という場合、それは事業に失敗する場合も、研究に失敗する場合も、「失敗するパターン」には同一性がある、ということである。 p189
     ・ 反復とは、この「生きていながら死んでいる」状態をモデル化したものである。おそらくそうなのだろうと思う。/死ぬことは生物が経験できる至上の快である。/だから、私たちはこれほどまでに死ぬことを忌避するのである。それは一度死ぬともう死ねないからである。 p201
     ・ ミラーニューロンが活性化した人は全員が同じ幻覚を見たのである、/それは「幽体離脱」である。/自分を天井から自分が見下ろしている。/つあり他者への共感度が高まりすぎたせいで、自分が他者であっても自己同一性が揺るがない状態になってしまったのである。 /p206
     ・ 「知性とは何か」について、私の知る最高の定義は(繰り返しご紹介した)グレゴリー・ベイトソンのそれえある。/ベイトソンによれば、知性とは何か?という問いに、知性はこう回答した。/That reminds me of a story./「そういえば、こんな話を思い出した」/マルクスを読んでいるうちに、私たちはいろいろな話を思い出す。/それを読んだことがきっかけになって、私たちが「生まれてはじめて思い出した話」を思い出すような書物は繰り返し読まれるに値する。 p216
     ・ 誰もが「自分の仕事」だと思わない仕事は「自分の仕事」である、そう考えるのが労働の基本ルールである p225
     ・ 「原則的に生きる人」はある段階までは順調に自己教科・自己啓発に成功するが、ある段階を過ぎると必ず自閉的になる p263
     ・ 自分で扉を開けて、自分で階段を上って、はじめて思いがけない場所に出て、思いがけない風景が拡がるように、学者そのものが構造化されている。自分が動かなければ、自分が変わらなければ、何も動かない、何も変わらない。/これはすぐれた「学び」の比喩である。 p275
     ・ 現代日本の20歳の女性たちの喫緊の関心事は何か?///彼女たちが注目している問題は二点ある。一つは「東アジア」であり、一つは「窮乏」である。 p280
     ・ 彼女たちは「自分より豊かな人たち」に向かって「あなたの持っているものを私に与えよ」と言うのを止めて、「私より貧しい人たち」に「私は何を与えることができるか」を問う方向にシフトしている p283
     ・ 自分が知り始めていて、まだ知り終わっていないこと。そういうことがコミュニケーションの場に優先的なトピックとして差し出されるのではないでしょうか p323
     ・ まず電撃的直感がある。そして、自分が何を直感したのかを自分自身に理解させるためには、長い物語をひとつ語らなければならない。「知る」というのは基本的にそういう構造を持っているのだと思います。 p325

    【目次】
     1.物語のほうへ
        邪悪なもののコスモロジー
     2.邪悪なものの鎮め方
        呪いと言祝ぎ
     3.正気と狂気のあいだ
        霊的感受性の復権
     4.まず隗より始めよ
        遂行的予言集
     5.愛神愛隣
        共生の時代に向かって

  • 内容は安定の内田センセイ節で良いです。
    ただ分厚くてなかなか骨が折れました。
    ブログはブログで読んだほうがよいのかもしれない。

  • ディセンシー、身体感度の高さ、オープンマインド

  • 不思議な感覚に陥った。題から、内容が予想できない展開でした。

  • ディセンシー、身体感度の高さ、オープンマインド。ブログの継接ぎなので気軽に読めます。

  • 内田樹氏の幅広く柔軟で奥深い思想が、縦横無尽に広がる。
    右とか左とか、あるいは手垢のついた既成の論理を超えた思考法が、身近な問題から世界的な問題までにどう向き合うかの、ヒント満載の一冊。

  • p.50
    暗号はそれがあたかも暗号ではないかのように書かれなければ意味がない。だから、書き手から読者への「コールサイン」はつねに「ダブル・ミーニング」として発信される。
    表層的に読んでもリーダブルである。でも、別の層をたどると「表層とは別の意味」が仕込んである。その層をみつけた読者は「書き手は私だけにひそかに目くばせをしている」という「幸福なさっかく」を感知することかできる。

  • 内田さんが過激派だったとは知らなかった。

    道徳律というものはわかりやすいものである。
    自分のような人間ばかりだと暮らしやすくなると思う人は自分に祝福を贈っていることになる・・というところに同感。
    自分で自分に呪いをかけないように。
    マルクスは話がでかくて面白い・・とあったので読んでみようと思う。

  • 「どう振る舞っていいか分からないときに、適切に振る舞うためにはどうしたらいいか」、その答えを「ディセンシー(礼儀ただしさ)」「身体感度の高さ」「オープンマインド」と解く著者。その心は・・。

    自分にとって、一番ドキッとさせられた項は、「原則的であることについて」。原則的であることが必須である側面としては、親が子供たいしてとる態度であるが、一方で原則的でない方がよい局面もあるいう。例えば、教師、さらには「老師」というような格になると、相手が幼児的な段階にあるときは原則的に振る舞い、相手がが十分に成長してきたら無原則に応じる。問題は、これを自分に対して適用する場合だ。往々にして、私たちはは自分たちにも原則的を適用し、自分を律しようとする。幼児な自分を制御する親=自分であろうとする。しかも、親と子供の関係と異なり、いずれも自分である場合には、制御する自分を乗り越えようとは思わないため、原則そのものを疑いにくい。その結果陥るのは、「若い頃にはなかなか練れた人だったのが、中年すぎると手のつけられないほど狭量な人になった」というケースであるという。

    自律とはかくにややこしいものかと思わされた一節。

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著者プロフィール

うちだ・たつる 1950年東京生まれ。武道家(合気道7段)。道場兼能舞台兼私塾「凱風館」館長。神戸女学院大学名誉教授。翻訳家。専門はフランス現代思想史。東京大学文学部卒業。東京都立大学大学院人文科学研究科修士課程修了。ブログ『内田樹の研究室』。



「2019年 『そのうちなんとかなるだろう』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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