邪悪なものの鎮め方 (木星叢書)

著者 :
  • バジリコ
3.86
  • (63)
  • (83)
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  • (10)
  • (5)
本棚登録 : 792
レビュー : 100
  • Amazon.co.jp ・本 (325ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784862381606

作品紹介・あらすじ

「邪悪なもの」と遭遇したとき、人間はどうふるまうべきか?「どうしていいかわからないけれど、何かしないとたいへんなことになる」極限的な状況で、適切に対処できる知見とはどのようなものか?この喫緊の課題に、ウチダ先生がきっぱりお答えいたします。村上春樹『1Q84』の物語構造、コピーキャット型犯罪が内包する恐るべき罠、ミラーニューロンと幽体離脱、被害者の呪いがもたらす災厄、霊的体験とのつきあい方から、草食系男子の問題にいたるまで、「本当ですか!?」と叫びたくなる驚愕の読書体験の連続。不透明な時代を生き延びるための「裏テキスト」。

感想・レビュー・書評

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  • 内田先生の著書を読むと、自分自身のひっかかりが、あぁここにあったんだなと気づく事が多々ある。とても上手に言語化して下さっている。

    こだわる=居着く
    自分の採用した説明に居着いてしまうと自力で現況を改善するのが難しくなる
    被害者意識をもつ=弱モノである自分に居着く
    これは自分自身にかけた呪いである

    被害者意識を持つ事に関して、非常に嫌悪感があった。
    (人がというより、自分自身に対して。)
    それはこういうことだったんだなーとそとんと腑に落ちた。
    責任の矛先を自分に向けることはとても勇気がいるししんどい。
    でも、ヨワモノである自分に居着いてしまった時点で、そこから抜け出せなくなる。
    抜け出すにはヨワモノである自分に居着いた自分を一度否定しなければいけない。ただでさえ勇気がなくてしんどいから逃げてしまった道なのに。
    自分にとって居心地の良い説明につい居着いてしまいたくなる。でも、自分自身に呪いをかけないように自分で自分を奮い立たさなくては。それができるのは自分しかいない。

    記号的殺人の呪いに関して
    あぁだから村上春樹はアンダーグラウンドで被害者の方々をインタビューしていくことで、「喪の儀礼」を行うことが必要だと感じたのかもしれない。

    バジリコ株式会社
    2010年

  • 「自分が所有したいのだけれど所有できていないもの」を数え上げるのを止めて、「自分がすでに豊かに所有しているので、他者に分かち与えることのできるもの」をチェックする仕事に切り替えるということの方が、心身の健康にはずっとよいことであり、すぐれた「危機対応」である。

    非現実の幻想を現実だと思いなす、かなり身勝手な人間の場合しか「妥協」ということは起こらない。可動域の制約は「織り込み済み」の与件として、それを「勘定に入れた」上で、自分に何ができるかを考えていく。

    まさに、「どうふるまってよいのかわからない場面で適切にふるまうことができる」ための発想の転換を促す要素が散りばめられています。

  • ずっと気になってた人の本なので読んでみました。
    だってタイトルからして気になる。

    ひとつひとつが短いエッセイなので読み易いんだけど、
    ひとつひとつ読んだあとに考え込んでしまう。
    今起こる事件やいろいろのムードについて、
    なんかすごく客観的に、雰囲気を掴んでるというか。
    言葉でその雰囲気をちゃんと説明してくれてるのか。
    あ、なんかよくわかんない感想になってるな。

    タイトルにもある「邪悪なもの」の定義がなるほど、って思いました。
    本によると、「どうしていいかわからないけれど、何かしないとたいへんなことになるような状況」ということです。
    これってさ、なんか結構よくあることじゃない?
    それに対する知恵というか、
    考え方を提示してくれるように思いました。

    あと印象的だったのは、「父」と「子ども」に対する考察。
    優れた物語は「私にだけわかるように書かれている」と、
    読者ひとりひとりに思わせるという話。
    あと犯罪の「歌枕」な構造。日本的な呪いの話。
    「内向き」でいいじゃない!ていう話。
    あと草食男子についてとか家族の儀礼についてとか。

    と、どんどん挙げられるので、
    ちょっと読み返してみようと思います。
    そしたらまた気になるところは変わっている気がする。

    去年出た本ですけど、今読むととても面白いと思う。
    多分去年読んでても面白かったと思う。
    とにかく、「今」読む本なんだろうなぁ。

    • 猫丸(nyancomaru)さん
      「なんか結構よくあることじゃない?」
      そう思います。こう言う捉え方が上手いですよね!

      「とにかく、「今」読む本なんだろうなぁ。 」
      内田セ...
      「なんか結構よくあることじゃない?」
      そう思います。こう言う捉え方が上手いですよね!

      「とにかく、「今」読む本なんだろうなぁ。 」
      内田センセの本は、今動いているコトと本質的なコトが、程よくミックスされているからでしょうか、いつ読んでも新鮮に感じます(私の物覚えが悪いのも一因かも知れませんが)
      2013/03/21
  • タイトルが大げさ!
    でも、読み終わった後、物事を肯定的に捉えられるようになってるから、確かに鎮められたのかもw
    決してオカルト的な本ではありません。
    考え方が非常に身になります。
    内田樹さんのブログを編集した本です。

  • 内田樹さんを私が好きな理由は、理性の外側に人間の強さがあると考えているところです。僕の読書と似たような点がある。読書は、本から意味を取り出すなどということではなく、読書は、読書として意味がある。と、かんがえているんだけれど、そのような根本的な考え方の部分を共有できている気がするのだ。

  • 内田先生の基本的なスタンスがたいへんによくわかる一冊。

  • あれよあれよと読み進んだ。非常におもしろい。このタイトル、必ずしも書かれている内容と合致しているわけではないけれども、内田ワールド独特の内容の曖昧さがにじみ出ていて、逆によかった。読み終わった後に、全体として何を言いたかったのだろう?と一瞬考えるが、恐らく各章で読者それぞれが"思うところ”があれば、しめたもの!なーんて著者は考えてそうである。どの問題提起に関しても、さらりとその知見を述べている。しかし他人へ強制している感もなく、そのマイペースさが心地よい。

  • 大学教授のエッセイ
    人を見る目、大事です

  • 主人公はどうして生き延びることができたのでしょう? 私自身のみつけた答えは「ディセンシー」(礼儀正しさ)と、「身体感度の高さ」と、「オープンマインド」ということでした。

  • 【期待したもの】
    ・内田センセーの「呪い」タイトルは読んでみたかった。

    【ノート】
    ・なかなか自分にとって衝撃的な作品。内田センセーに「こういうことだと思うんだけど、君はどう?」と問い詰められているような感じだ。
    「『呪い』というのは『他人がその権威や財力や威信や信望を失うことを、みずからの喜びとすること』である。さしあたり、自分には利益はない。
     でも、『呪う人』は他人が『不当に占有している利益を失う』ことを自分の得点にカウントする。 (P81)」
     よくぞ自分の中でもやもやしていたものに、ここまで光をあててくれた、という感じもある。やはり、まずは名指すことから始まるんだなあ。

    ・スキナーの「略奪大国」にも通じる。ちょっと道徳の時間っぽい表現になってしまうが、他人の成功を妬み、嫉む心が、個人を蝕む、というものだった。

    ・内田センセーは「呪いの時代」という著書で、いかに、この呪詛空間を祓うかという論を展開しているらしいが、それを読む前に、自分で考えてみよう。名指すことができれば、自分なりの解法を考えることは可能なはずだ。

  • エッセイ

  • 夢中で読んだ。これはすごい。やはり内田氏の著作は全部読むことになりそうだ。

    【書き抜き読書メモ】
     ・ つまり、「邪悪なもの」との遭遇とは、「どうしていいかわからないけれど、何かしないとたいへんなことになるような状況」というかたちで構造化されているということです p9[more]
     ・ 他の本もそうですけど私はここ数年「どうふるまっていいかわからないときに適切にふるまうためにはどうすればいいか」というなんだかわかりにくい問いをめぐって考えてきました p10
     ・ 「邪悪なもの」をめぐる物語は古来無数に存在します。そのどれもが「どうしていいかわからないときに、正しい選択をした」主人公が生き延びた話です。主人公はどうして生き延びることができたのでしょう。/私自身の見つけた答えは「ディセンシー」(礼儀正しさ)と、「身体感度の高さ」と、「オープンマインド」ということでした。 p11
     ・ ムラカミ・ワールドにはひとつの物語的な原型がある。それは「コスモロジカルに邪悪なもの」の進入を「センチネル」(歩哨)の役を任じる主人公たちがチームを組んで食い止めるという神話的な話型である p14
     ・ 暴力そのものより「暴力的」なのは、暴力がどのようにしてその対象を選別しているのか、その基準が当の被害者にはついに知られないという事実の方である p30
     ・ 「葬礼を行いうるもの」として自己規定の仕切り直しをする以外に、「生き残ったこと」を合理化するどんな説明も成り立たない。「邪悪なもの」が私を拉致しなかったのは、私がその後に「葬礼」の責務を果たすことを宿命づけられていたkらであるという説明だけがかろうじて私の「生き残り」の疚しさを緩和してくれう p32
     ・ 先行作品として踏まえているものが多ければ多いほど、先行作品の質が高ければ高いほど、「それを踏まえて書かれたもの」は「親の七光り」の恩沢に浴すことができるということである p49
     ・ 真にすぐれた作家はすべての読者に「この本の真の意味がわかっているのは世界で私だけだ」という幸福な全能感を贈ってくれる。/そのような作家だけが世界性を獲得することができる。/「コールサイン」のもっとも初歩的な形態が「本歌取り」である。これは「本歌を知っている読者」と「知らない読者」をスクリーニングする p51
     ・ このあと話がどう転がるかよくわからないが、後は何とかしてくれるだろうという「未来の私」に対する信頼がなければ、いきなり湧き出てきたアイディアや暴走気味の思弁を扱うことはできない p58
     ・ 道徳律というのはわかりやすいものである。/それは世の中が「自分のような人間」ばかりであっても、愉快に暮らしていけるような人間になるということに尽くされる。それが自分に祝福を贈るということである。 p150
     ・ 斬られる人がいないという不利な条件下で、暴走する剣をどうやって止めるか。/これは居合いの提示する根源的な「謎」の一つである。/およそあらゆる「道」はいずれも根源的な「謎」を蔵しており、それが修業者たちに(それぞれの技術的な発達段階に応じて)エンドレスの技法上の問題を差し出す p173
     ・ しかし、知性のパフォーマンスが爆発的に向上するのは、「その有用性が理解できないものについて、これまで誰も気づかなかった、それが蔵している潜在的な有用性」を見出そうとして作動するときなのである。自分が何を探しているのかわからないときに自分が要るものを探し当てる能力。それが知的パフォーマンスの最高の様態である。 p185
     ・ 「これはそのうち何かの役に立つかもしれない」というのは、「これ」の側の問題ではなく、実は「私」の側の問題だったのである。「これの潜在可能性が発見されたのは、「私」の世界の見方が変わったからである。「私」が変化しない限り、その潜在可能性が発見されないような仕方で「私」の前に隠されつつ顕示されているもの。それをとりあえず「ほい」と合切袋に放り込むこと。/それを「学び」というのである。 p185
     ・ 1960年代の初めまで、日本の会社の重役たちは三種類くらいの「お稽古ごと」は嗜んでおられたのである。/なぜか。/私にはその理由が少しわかりかけた気がする。/それは「本務」ですぐれたパフォーマンスを上げるためには、「本務でないところで、失敗を重ね、叱責され、自分の未熟を骨身にしみるまで味わう経験」を積むことがきわめて有用だということが知られていたからである。/本業以外のところでは、どれほどカラフルな失敗をしても、誰も何も咎めない。そして、まことに玄妙なことであるが、私たちが「失敗する」という場合、それは事業に失敗する場合も、研究に失敗する場合も、「失敗するパターン」には同一性がある、ということである。 p189
     ・ 反復とは、この「生きていながら死んでいる」状態をモデル化したものである。おそらくそうなのだろうと思う。/死ぬことは生物が経験できる至上の快である。/だから、私たちはこれほどまでに死ぬことを忌避するのである。それは一度死ぬともう死ねないからである。 p201
     ・ ミラーニューロンが活性化した人は全員が同じ幻覚を見たのである、/それは「幽体離脱」である。/自分を天井から自分が見下ろしている。/つあり他者への共感度が高まりすぎたせいで、自分が他者であっても自己同一性が揺るがない状態になってしまったのである。 /p206
     ・ 「知性とは何か」について、私の知る最高の定義は(繰り返しご紹介した)グレゴリー・ベイトソンのそれえある。/ベイトソンによれば、知性とは何か?という問いに、知性はこう回答した。/That reminds me of a story./「そういえば、こんな話を思い出した」/マルクスを読んでいるうちに、私たちはいろいろな話を思い出す。/それを読んだことがきっかけになって、私たちが「生まれてはじめて思い出した話」を思い出すような書物は繰り返し読まれるに値する。 p216
     ・ 誰もが「自分の仕事」だと思わない仕事は「自分の仕事」である、そう考えるのが労働の基本ルールである p225
     ・ 「原則的に生きる人」はある段階までは順調に自己教科・自己啓発に成功するが、ある段階を過ぎると必ず自閉的になる p263
     ・ 自分で扉を開けて、自分で階段を上って、はじめて思いがけない場所に出て、思いがけない風景が拡がるように、学者そのものが構造化されている。自分が動かなければ、自分が変わらなければ、何も動かない、何も変わらない。/これはすぐれた「学び」の比喩である。 p275
     ・ 現代日本の20歳の女性たちの喫緊の関心事は何か?///彼女たちが注目している問題は二点ある。一つは「東アジア」であり、一つは「窮乏」である。 p280
     ・ 彼女たちは「自分より豊かな人たち」に向かって「あなたの持っているものを私に与えよ」と言うのを止めて、「私より貧しい人たち」に「私は何を与えることができるか」を問う方向にシフトしている p283
     ・ 自分が知り始めていて、まだ知り終わっていないこと。そういうことがコミュニケーションの場に優先的なトピックとして差し出されるのではないでしょうか p323
     ・ まず電撃的直感がある。そして、自分が何を直感したのかを自分自身に理解させるためには、長い物語をひとつ語らなければならない。「知る」というのは基本的にそういう構造を持っているのだと思います。 p325

    【目次】
     1.物語のほうへ
        邪悪なもののコスモロジー
     2.邪悪なものの鎮め方
        呪いと言祝ぎ
     3.正気と狂気のあいだ
        霊的感受性の復権
     4.まず隗より始めよ
        遂行的予言集
     5.愛神愛隣
        共生の時代に向かって

  • 内容は安定の内田センセイ節で良いです。
    ただ分厚くてなかなか骨が折れました。
    ブログはブログで読んだほうがよいのかもしれない。

  • ディセンシー、身体感度の高さ、オープンマインド

  • 不思議な感覚に陥った。題から、内容が予想できない展開でした。

  • ディセンシー、身体感度の高さ、オープンマインド。ブログの継接ぎなので気軽に読めます。

  • 内田樹氏の幅広く柔軟で奥深い思想が、縦横無尽に広がる。
    右とか左とか、あるいは手垢のついた既成の論理を超えた思考法が、身近な問題から世界的な問題までにどう向き合うかの、ヒント満載の一冊。

  • p.50
    暗号はそれがあたかも暗号ではないかのように書かれなければ意味がない。だから、書き手から読者への「コールサイン」はつねに「ダブル・ミーニング」として発信される。
    表層的に読んでもリーダブルである。でも、別の層をたどると「表層とは別の意味」が仕込んである。その層をみつけた読者は「書き手は私だけにひそかに目くばせをしている」という「幸福なさっかく」を感知することかできる。

  • 内田さんが過激派だったとは知らなかった。

    道徳律というものはわかりやすいものである。
    自分のような人間ばかりだと暮らしやすくなると思う人は自分に祝福を贈っていることになる・・というところに同感。
    自分で自分に呪いをかけないように。
    マルクスは話がでかくて面白い・・とあったので読んでみようと思う。

  • 「どう振る舞っていいか分からないときに、適切に振る舞うためにはどうしたらいいか」、その答えを「ディセンシー(礼儀ただしさ)」「身体感度の高さ」「オープンマインド」と解く著者。その心は・・。

    自分にとって、一番ドキッとさせられた項は、「原則的であることについて」。原則的であることが必須である側面としては、親が子供たいしてとる態度であるが、一方で原則的でない方がよい局面もあるいう。例えば、教師、さらには「老師」というような格になると、相手が幼児的な段階にあるときは原則的に振る舞い、相手がが十分に成長してきたら無原則に応じる。問題は、これを自分に対して適用する場合だ。往々にして、私たちはは自分たちにも原則的を適用し、自分を律しようとする。幼児な自分を制御する親=自分であろうとする。しかも、親と子供の関係と異なり、いずれも自分である場合には、制御する自分を乗り越えようとは思わないため、原則そのものを疑いにくい。その結果陥るのは、「若い頃にはなかなか練れた人だったのが、中年すぎると手のつけられないほど狭量な人になった」というケースであるという。

    自律とはかくにややこしいものかと思わされた一節。

  • 140724

  • 筆者は「『邪悪なもの』との遭遇とは、『どうしていいかわからないけれど、何かしないと大変なことになるような状況』」と定義している。

    それに相当するブログのトピックを編集者が選んで作った本だそうだ。2005年1月から2009年秋まで。

    話題は1Q84、全共闘、新型インフルエンザ、裁判員制度、「誰でもいい」殺人、武道、ミラーニューロン、マルクス、草食系男子、家族・・・と多岐に渡る。

    ここに出てくる、「ほおっ」と思った部分を内田樹語録として箇条書きする。*で感想を付け加える。

    1.「年齢や地位にかかわらず、「システム」に対して「被害者・受苦者」のポジションを無意識に先取するものを「子ども」と呼ぶ。」
    *システムを何とかしようと手を挙げる「大人」が少し出てくると、良い。

    2.(新型インフルエンザに際して)「街の人々は自前でマスクを買って着用されており、自己負担で感染を予防されているのである。これを「模範的市民」と呼ばずに何と呼ぶべきか。」
    *震災の時もパニックは起こらなかった国民性。何か起こった時の対応で国民性を言うのは分かりやすい。

    3.「自分こそその「幸福な少数」であるという自覚ほど読者を高揚させるものはない。」
    *これはオタクの快感だな。逆に、多くの人と共感する、共有する喜びもあるな。映画館や、ライブや、野球場で歓声を上げるとき。

    4.「「コールサイン」の最も初歩的な形態が「本歌取り」である。これは「本歌を知っている読者」と「知らない読者」をスクリーニングする。」
    *これを教養と言っていたんだな。

    5.「どうして私だけしか知らない私のことを他人のあなたが知っているんですか?というふうに世界各国の読者たちから言われるようになったら、作家も「世界レベル」である。」
    「おそらく読者は物語を読んだあとに、物語のフィルターを通して個人的記憶を再構築して、「既視感」を自前で作り上げているのである。」
    *フィクションで読者の心を掴むのはこれだ。

    6.「裁判員に選任されたことによって重篤なPTSDに罹患する市民が出た場合、彼らは「職業上知り得た秘密」を医師やカウンセラーに話してもよいのか、それさえも禁じられているのか、そのあたりのことは事前に明らかにしておいた方がいいような気がする。」
    *確かに。

    7.「誰でもよかった」というシリアルキラーに対しては「できるだけ言及しないことで」あり、さらに「動機のみすぼらしいほどの合理性にうんざりすることである」
    *皆で無視しよう。

    8.「『人を見る目』というのは、その人が『これまでしたことに』に基づいて下される評価の精密さの事ではなく、その人が『これからするかもしれない仕事』についての評価の蓋然性のこと」
    *ノーベル賞は違うな。

    9.「人間は同時に二つの苦しみを苦しむことが出来ない」
    *スズメバチに刺された時は、注射をうたれても全然痛くなかったぞ。
    *悲しみはどうかな。

    10.「ミラーニューロンが活性化した人は全員が同じ幻覚を見たのである。それは『幽体離脱』である。」
    *・・・・わからん。一度やってみたいものである。

    11.良い本とは良いことを言っているというよりむしろ、読んでいると「私たちの思考に『キックを入れる』」本のことだと言っている。
    *そうそう、触発されて色々思いつく。

    12.「フィンランドは人口520万人である。兵庫県(560万)より小さい」「国の規模という量的ファクターを勘定に入れ忘れて国家を論じることの不適切さ」「小国が『したたか』になり、大国が『イデオロギッシュ』になるのは・・・もっぱら『サイズの問題』なのである」
    *小さい国でもイデオロギッシュな国はあるぞ。

    13.「企業は『縮む』ということについてノウハウを持っていない」
    *都市もそうだ、国家もそうだ。人間もそうだな。

    14.「環境への負荷や食糧自給の観点から見れば、人口減は『最適ソリューション』以外の何物でもない。」
    *ふ~ん。

    15.(神戸女学院大の)「キャンパスに設計者のヴォーリズはたくさんの『秘密の部屋』や『秘密の廊下』を仕掛けた。」
    *一度神戸女学院大に行ってみましょう。

    16.「相手が信じられないから結婚できないのではなく、自分を信じていないから結婚できないのである。」
    *出来ないかどうかはともかく、適当に考えて「しない」人もいる。

    17.「最近の学生は「『自分より豊かな人たち』に向かって『あなたの持っているものを私たちに与えよ』というのを止めて、『私より貧しい人たち』に『私は何を与えることができるか』を問う方向にシフトしている。」
    *健全である。

    18.「もっとも安定的な家族とは、役割が固定している家族ではなく、むしろ『気づかう人間』と『気づかわれる人間』が局面ごとに絶えず入れ替わるような流動性のある家族だ」
    *そうそう、そういうもんだ。

  • 2014/2/19

  • お正月、お祓いも兼ねて読了。感想はあり過ぎて言えないけれど、他の作品も是非読みたい。とにかく考えのお祓いになったってことです。

  • 装丁:鈴木成一デザイン室

  • 内田さんの本を読むと、自己肯定感が出てくるので好き。家族や社会との関わり方が見えてくる。自分を愛するように他者を愛せよ!

  • 配置場所:1F電動書架C
    請求記号:914.6||U 14
    資料ID:W0153563

  • ブログに書きつづった雑多な内容の文章の中から、一つの主題としてまとめられそうなものを編集者が選び出し一冊に編んだもの。著者の数あるコンピ本の中でも読み応えのある一冊に仕上がっている。もっとも、題名は、凄い!の一語に尽きるけれど。

    「邪悪なもの」とは何か。とりあえず「どうしたらいいか分からないけど、何かしないと大変なことになる状況」との遭遇とでも考えておけばいいだろう。自殺でも地震でもなんでもいい。個人レベルでも国家レベルでもそういう状況というのは常に存在する。著者は、このところずっと、そういう事態に直面したとき、適切にふるまうことができる手立てについて考え続けてきたという。

    何に一番感心したかというと、いささか個人的な感想で恐縮だが、「自分自身にかけた呪い」は恐ろしい、ということである。呪いといっても、丑の刻参りに出てくるわら人形の類の話ではない。誰もが知らない裡に自分の生き方にしてしまっているものだ。当然、忌まわしいものでも何でもない。評者の場合、年少の頃より馴染んできた「個人主義」という考え方と、職業に就いてから知らず知らず身についた労働者意識というのが、それだった。それのどこが呪いだというのだろうか。

    仕事の中には、担当が決まっている仕事と、誰かがやればいい仕事というものがある。誰かがやればいいのだから、自分がやってもいいことは分かっているのだけれど、自分の仕事でないことも分かっている。お節介を焼くのも焼かれるのも嫌いな性分で、そういうとき、自分の仕事以外には手を出さないことを原則として生きてきた。また、システムに不具合が生じたとき、責任の所在をはっきりするように発言してきた。それを曖昧なままにしておくと同じことが起きると思うからだ。

    内田によれば「システム」に対して、「被害者・受苦者」のポジションを無意識的に先取するものを「子ども」と呼ぶ。世の中は不条理なもので、それらを統べる秩序などない。何の罪もない赤子が死ぬし、生きていること自体が他者の迷惑になるような人物がのさばっている。それなのに、何かが起きたとき、システムをコントロールしている「父」の存在を要請せずにはいられないのは、その人が「子ども」だからだ。

    「父」が呼び出されることにより、事態に合理的な解釈が下され、混乱は回避されるが、事あるたびに「父」を呼び出すことは、「父=システム」の増殖を生む。世界はそうして偏在化した父によって支配されることになる。何が起きても、それを「父」との関わりに基づいて説明しようとするのは、一つの「トラウマ」である。

    精神科医の春日武彦氏によれば「こだわり・プライド・被害者意識」というのは、統合失調症の前駆症状なのだそうだ。病というのはある状態に居着くことをいうが、これらの三つはどれもある状態に居着くこと(定型性)を意味している。

    「人間の精神の健康は『過去の出来事をはっきり記憶している』能力によってではなく、『そのつど都合で絶えず過去を書き換えることができる』能力によって担保されている」と内田は言う。私たちは、過去の記憶を手がかりに現在を生きていくように思っているが、実際は、今の現実に合わせて過去を書き換えているのだ。過去の一点にこだわり、常にそこへ戻る「トラウマ」というのは、書き換え拒否の病態を指す。

    一般的に原則を持つ人というのは、しっかりした人のようにいわれている。こだわりがあるというのは誉め言葉として使われる場合の方が多い。目からウロコとは、このことだ。「定型性」に固執する状態というのは、どうやら健康的でないらしい。

    しかし、考えるまでもなく問題が起きるたびに「責任者出てこい」と言うばかりで自分は何も行動を起こそうとしなかったり、落ちているゴミを拾うのは自分の仕事ではないと見過ごしたりする人ばかりが周りにいたら、その世界はずいぶん住みにくいことだろう。そういう人たちは、そうすることで、システムの不具合を証明しているわけで、突きつめればシステムクラッシュが起きることで自分の正しさを証明しようとしているのだ。そう言われると、心の奥底にそんな気分があったことを認めたくなる。これが、自分自身にかけていた呪いだったのか。

    自分が自分に課していた原則の妥当性が揺らぐことで、世界を見る目も自分を見る目も少し変わってくる。この経験は何やら晴れやかな気分だ。中禅寺秋彦に「憑き物」落としをしてもらったような気分である。なるほどタイトルは嘘ではなかったなと、あらためて感じ入った次第である。

  • この人のブログはたまに見るけど、同じ文章を紙媒体で読むとこんなに眠くなるとは。

  •  この本を持って、内田樹さんの思想を綴った本を読むのを止めようと思います。

     それは、内田樹さんの思想に飽きてきたからでもなければ、反する思想が出てきたという事でもない。

     逆に、私は自分の考えていることを、この人の思想に照らしあわせすぎていると、思わざるを得なくなってきたから。

     

     私は、本を読むのが好きです。漫画を読むのが好きです。DVDなどもよく見ます。そこから得た何がしかを、自分の中に血肉化することが出来るように、生活に活かしていきたいと願う人間でもあります。

     裏を返せば、自分は空っぽだということです。
     私には、自分を支えてくれるような湧き上がるなにかというものがまるでない。


     30近くまで生きてきました。それでも、自分の中から湧き出てくるものに、きちんと向き合って、育ててきたのかと自身に問い、yesといえるかどうかは、甚だ怪しい。

     
     まぁ、それは、「人間には、自身の核となる何かがあるはずだ」という前提のもと話をしています。もしかしたら、そんな物自体、あるはずないのかもしれません。

     なんていうのかな、その前提を肯定するとしたら、
     「これは嫌だ」と答えられるものは多いのだけれど、「これがいい」と胸張って言えるものは殆ど無い、という感覚に近いのかもしれません。


     恵まれすぎた、証拠でしょう。
     それ以上、何を求めるのか、という状態なのかもしれません。本来は。

     わたしの周りの人が、そういった類のことに関して、何か考えていることがあるのか、知る由もありません。考えていたところで、それは比べてもしかたのないことです。

     
     わたしは、大学を出てから、教職に就いてきました。私学の小学校を3年。高校の講師3年目です。大学は教育学部で、教育の美術を専攻してきました。

     ついこの間、年配の美術の先生とお話する機会があり、その先生はとても教育熱心な美大卒業の方だったのですが、「教育学部の先生は絵が下手だ。」と率直におっしゃってくれました。

     わたしは、それを嫌味だとも自慢だとも思いませんでした。そのとおりだと思いました。むしろ、率直におっしゃってくれたことを感謝したいと思いました。

     そのことが話題に出てきたのは、最近行われた、高校美術部の展覧会でのことでした。「美術学科のある学校なんて、ほとんどの絵に先生の手が入ってる。」という内容の話の中で出てきたものでした。


    「手が入っている」ことに関して、もちろんそれは、容易に想像できることです。ただ、私の学校の生徒さんの絵は、一切の手が入っていません。「ここを、こうした方が、もっと魅力的な絵になる。」という助言だったり、構成やアイディア、描き込みに関しての助言はします。でも、わたしは、彼女たちの絵に一切の手を加えていない。(それでも半数が入選することができたのは、彼女たちの努力以外の何物でもない。わたしは、彼女たちを心から誇りに思います。)そこから、「教育学部=絵が下手=手を加えられないのでは」という話になったのでした。


     わたしは、そのことに関して、何が正しいのかはよく分かりません。100%個人の努力で入賞することが正しいのか、手を加えても満足と達成感と自信が得られることが、今後の彼らにとって正しいのか。
     でもたったひとつ言えることは、「手を加えてやれるだけの知識と技術はあって不足はない。」ということです。


     わたしは、美大も受かりましたが、教育学部に進むことを選んだ人間でした。だから、普通の教育学部だけを希望して進学してきた人よりかは、技量はあると思います。でもそれだけです。わたしは自分の自信につながるほどの技量があるとは到底思えない。だから、とくに大学を出てからは、そこにコンプレックスを抱かぬよう、デッサンの練習をしたり何だりということは定期的に行って来ました。でもコンプレックスは、高校の教員になって深まるばかりです。


     内田樹さんのこの本によれば、恐らく「自分自身に呪いをかけた」状態なのだと思います。自分自身を愛してやることが出来ない。半端な自分を愛すことなど、できますか。 半端でいい。これでいいと割り切ることなどできますか。そうやって自分を痛めつけること無しに自分の成長を望めないことを「自分自身に呪いをかけた」状態というのだと思います。わたしは、キリスト教徒でもなんでもないけれど、自分を愛してやることほど、難しいことはない、そこはすごく共感をします。

     もうこれ以上苦しみたくない。そのためにやらなくてはいけないことの一つは、「自分自身の言葉を見つけること」な気がします。だから封印。(あ、思想以外のものだったら許すつもりです。哲学の話とかユダヤの話とか。)


     話がまた戻りますが、 
     じゃあ美大出てればいいのか。

     わたしはこの言葉もとある方につきつけられたことがあります。
     そんなこと、あるわけないじゃないですか。美大でたって、技量のない人なんてゴマンといるでしょう。でも、私が自分にかけた呪いは、一生かかって、(いつしかタガが外れることをぼんやりと望みながら)解きほぐしていくしかない。どうしたら解けるのかを模索しながら。

     そんなことを、思いながら、呪われた私の取り敢えず縋ることの出来る一つの指針は「誰にも負けないくらい、技量のある絵描きになりたい。」ことかと思いました。馬鹿げた、小学生みたいな夢なんだけど。

     技量があれば、いいのではないです。そこは勘違いをしないように綴っておきましょう。ただ、技術を上げることで、自分にできることの幅が広がるのならば、(それはもちろん、「高校生の絵に描き足してやること」なんかではありません。)その苦難は、喜んで買って出るべきことと感じます。わたしは、自分にかけた呪いを解くことを望みながら、当面は自分を痛めつけることを選ばざるを得ないのです。本の中で、「そういう社会のしくみになっている」と書いてありました。私の行動は、教育されたものです。時代や、国や、性別や社会の要請に従順に(・・・多分。)従って、このような人間が出来上がった。それは、国のせいでもなければ親のせいでも誰のせいでもありません。自分がそこに生れ落ち、生きることを選択していった責任でしょう。でも私には、それを穏やかに認め、より生き良い方向へ導くことをする必要があるのではないかと思います。少なからず今、教職についているのですから。でも私が教員としてその行為に及んだとき、それは「社会の要請」に成り代わる危険性を多分に秘めている。でも、「人の前に立つ」ことをしている限り、「私」という人間から嗅ぎ取る何かは、きっとあるはずです。(そう思わなきゃ、いくばくも自分を肯定してやれないでしょう。)

     ※話は飛びますが、そう考えるとわたしは「子を産む」ことにすごく消極的になってしまうのです。机上の空論にほかなりませんが、何もかも、自分の皮膚を境に「自分の責任」で生きることを望まれる社会が、今時分を取り巻いていると考えるだけで、胸が苦しくなってきます。それを、ちょっとでも変えたいと教職についてる自分がいます。

     巡り巡って、簡単な事柄に向き合わざるを得なくなってしまったけれど、

     現在の自分が、当面頑張れる指針になるものを挙げてみたら、こうなってしまったという感じでしょうか。

     そんなことを、考えてしましました。

     どうか、富める者もそうでないものも一様に、風通しのよい生き方ができることを望み、わたしは生きていきたい。そのためにできることをしたい。
    もっと具体的な手立てを模索しながら、この大きな課題に私は、取り組んでいきたい。
     これは、私の言葉でしょうか。またいつかこんな風に自分を疑うことがあるかと思いますが、私はこの考えについて今、「間違っていない」と、そう思うのです。

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著者プロフィール

うちだ・たつる 1950年東京生まれ。武道家(合気道7段)。道場兼能舞台兼私塾「凱風館」館長。神戸女学院大学名誉教授。翻訳家。専門はフランス現代思想史。東京大学文学部卒業。東京都立大学大学院人文科学研究科修士課程修了。ブログ『内田樹の研究室』。



「2019年 『そのうちなんとかなるだろう』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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