六〇年安保: センチメンタル・ジャーニー (Modern Classics新書 17)
- 洋泉社 (2007年6月1日発売)
- Amazon.co.jp ・本 (254ページ)
- / ISBN・EAN: 9784862481498
作品紹介・あらすじ
知の誠実のためにあえてあの安保闘争とは何だったのかを検証する。安保ブント「非行」派・西部邁の名著、待望の復刊。
感想・レビュー・書評
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ブントが自己肯定したのは、権力と争闘をあけっぴろげになそうとする決意について。主権在民という虚構によってパワーやオーソリティがなんたるか、またなんたるべきかが、著しく不鮮明な環境の中でブント世代は育ってきた。
60年安保なんて理解できなかった。今でも無理。でもこういう学生のパワーがあったのは凄いな。詳細をみるコメント0件をすべて表示 -
私が勤める会社の本社は神田神保町にあり、帰国した際には、周囲の書店をぶらぶらと覗きながら歩くことを楽しみとしている。先週の帰国の時に立ち寄った三省堂書店で、60年代・70年代の新左翼運動というか学生運動というか、のフェアをやっていて、買って帰ったうちの2冊が、先の「新左翼とは何だったのか」と、この「六〇年安保」だ。この頃の新左翼運動とか、学生運動とかには以前から興味を持っていた。でも、あらためて何故興味を持っているのだろう、と考えると、よく分からない。私が通った早稲田大学はたしかに学生運動の中心学校(という言い方があれば)の一つであったようであるが、私が入学した1977年には、まだまだ学校中に彼らのたて看板が例の独特の書体と文体で存在していたものの、学生運動そのものは、既に一般の学生の関心や興味を集める対象ではなく、というか、そのたて看板意外には彼らの存在を示すものは何もない、という状態であった。従って、興味の始まりは大学生の頃ではなく、中学生とか高校生の頃に読んでいた本で、何故か分からないけれども琴線にふれたものの中には、例えば柴田翔や庄司薫や大江健三郎があり(並べてしまうのは、どんなものか、ということは分かっているけれども)、彼らの小説の背景に田舎の中学生・高校生であった私がひっかかる何かがあったのであろう、としか言えない。しかし、あらためてこういった本を読んでみると、運動の歴史や出来事の意味を少々誤解して考えていたことに気がつかされる。誤解は別に悪い意味に誤解していたことばかりではないので、読んでみて改めて知ったことを含め、運動に対する総合的な印象は差し引きゼロで、あまり変わりがないといったところだろうか。是非を論じるつもりは全くない。いつか運動全体に対する自分なりの解釈や感想は書いてみたい気もするが、たかだか2冊の新書を読んだだけで是非を論じられるほど頭の出来は良くない、あるいは、そこまで軽率ではない。それでも感じたことはあるので、とりあえずこの2冊の簡単な感想文として書き留めておきたい。「新左翼とは何だったか」の著者の荒は1945年生まれで1965年に早稲田大学入学、「六〇年安保」の著者の西部は1939年生まれで1958年に東京大学入学。結局は最盛期(という言い方が適切かどうかは置いておいて)が非常に短く、かつ、党派の離合集散が日常茶飯事であったこの運動においての入学の7年差・入学した大学の違いというものは大きな意味がありそうであり、もちろん、それよりは両者の当時と現在の立場や、広い意味での個性の差の方が大きいのであろうが、なんだか同じテーマを論じた本とは思えない、というのが価値判断とは別に言える感想である。これは実は本質的なことではないか、とも思っていて、要するに、当時の「運動」は、中心になる考え方や思想があって成立した大衆運動というわけではなく、良くも悪しくも、それに参加した個人の「運動」だったのではないだろうか、という仮説が成立する余地がなくもないな、ということだ。相変わらずまわりくどいけれども、中学生や高校生の頃から興味を持っていたことを、初めて体系的に読んでみ始めた、ということなのだから、少しくらいはまわりくどくないと、間が持たないということでもある。