- Amazon.co.jp ・本 (221ページ)
- / ISBN・EAN: 9784862482075
感想・レビュー・書評
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イエスがローマ官憲の手に落ちたあと、ペテロは三度しらを切ってイエスを裏切り、そのたびに鶏が白々しく鳴くのであるが、われらが鈴木淳史は、彼女に妊娠を告げられるなどの窮地に陥ると、ブラームスの第3交響曲冒頭が頭に響いてくるのだという。ううむ、わかったようなわからないような。
さて、世の中、愚にもつかない本で満ちあふれているのは周知のことであるが、これも愚にもつかぬ。だいたいクラシック本といったら、まだ知らぬ曲や録音を教えてくれる実用書か、特定の演奏家のファン・ブックなど、音楽愛好の面で「役に立つ」ものなのだが、これはさっぱり役に立たない。
だから何なのかというと、「私評論」を標榜する鈴木淳史が、泰西名曲とそれにまつわる自分自身の私的な記憶を交えて書いた、何だかわけのわからない1冊なのだ。この鈴木淳史という男、アウトサイダー・クラシック評論家(いま、勝手に作った分類)の中では、脱力系の演奏など妙なものを推薦するので私は支持しているのであるが、本書のようなマスターベーションの如きを誰が買うか! と思ったが、手に取ってみて、ヴィシネグラツキイの『四分音システムによるピアノのための前奏曲集』なんかが取り上げられていたから買ってやることにした。
交響曲のような四楽章でまとめられ、第1楽章こそ社会や政治が論じられているが、あとは「愛と妄想の」と形容されるだけのことはあって、女と別れる話ばかり。
ではなぜ窮地に陥ると、ブラームスの3番が聞こえるのか。それはブラームスには「男の弱っちい姿」があるのだという。妊娠を告げられ「馬鹿づら下げて絶句」という私的な体験がブラームスという一芸術家の作品を介して、ある普遍に触れる。触れるだけで、仰々しく論じないところが本書の味だ。他方、勉強しない学生時代と卑下しながら、ジジェクだのリオタールだのにちらりと触れるのも嫌味といえば嫌味。それでいて、別れ話だのは私生活の暴露なので、結局はなにやら露悪的な本であって、居心地が悪い。
女と別れてばかりで、結婚もせず、彼がスターリン呼ばわりしている親とて嘆いていることであろう、などと心の中で毒舌を吐きつつ読み進むと、ついには第4楽章で、ごく最近、結婚まで考えた女性から別れを告げられた話と、それをなんとか受け止めようとする心の動きが克明に描かれる。ダシに使われるのは『フィガロの結婚』。なんだ、これは鈴木のモーニング・ワークではないか。ますます辟易としつつも、何だか不思議と共感も芽生えてくるのだ。それこそ女に振られるという、下世話な出来事は、人間的な普遍に触れるのである。読後感は苦くも爽やかだ。『フィガロ』のフィナーレのように。
考えてみればクラシック音楽自体が、下世話で陳腐なことを普遍へと高めていくことで芸術性を獲得しているのだといえなくもないのである、なんてことを声高に主張しているわけでもなく、依然、何の役にも立たない本であるが。詳細をみるコメント0件をすべて表示 -
フィクションなのかどうかはよくわからないけど。
単なる曲の紹介ではなくその曲や作曲家、演奏をベースにした私小説風の文章が書かれている。すべての曲を聞いたことがあるわけではないので何とも言えないが、総じて言えるのは作曲家ってのは屈折した人が多いのね。屈折した気分の時に読んだのですんなり文章が頭に入ってきた。
でもたぶん、自分がブルックナーの交響曲をを通しで聞くことはないような気がする。 -
鈴木さんの、いつもの皮肉屋さんは影を潜めた、個人的クラシックとの関わりをつづったかのよーな本。なんていうか、鈴木さんファン向け?
なんか、鈴木さん女性遍歴史のような感じ。
失恋の大ショックのうちではオウム真理教の宣伝ソングを聞いてまで涙を流す始末、って、そーか・・・・・。そんな名曲なのか・・・・・。